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点滴 in Heaven

Ⅰ.

結局それが遂行できなかったことに意味を見出そうとしても無駄だということは、あおいにもよくわかっている。

結果的に一年に及んだ休職期間を終えようとする昨年の夏に、実家のあるH市まで母親の墓参りに行った。もっとも正しい表現は、その計画を立て、新幹線に乗り、乗り継いで最寄りのJR駅までは行った、ということだったなとあおいはその事実を定義する。

その計画の二週間前に、かかりつけのクリニック職員である精神医療ソーシャルワーカーの女性と職場に赴き、直属の上司と人事担当の男性とで復職に向けての具体的な打ち合わせをした。前年の夏に休職期間が始まってから、あおいは職場とはメールかSMS、あるいは診断書や傷病手当などの書類を郵送する際に同封する便せん一枚くらいでしかやり取りをしていなかった。書くことは実務的な内容だけに留めておいた。

休職を申し出た朝、応接室で前日にクリニックで受け取ったばかりの診断書を意気揚々と上司に差し出し、彼と人事担当者に、電話や面会など直接的なやり取りは、医師からの助言を楯に、『休んでいる間には一切しません』、と宣言をした。

あれから一年ぶりに会社に足を踏み入れる。その間は近所を通ることさえ可能なかぎり避けていた。また再びその門をくぐるとも想像していなかった。あおいが打ち合わせに加わる前に三十分ほどの時間をとって、ソーシャルワーカーの彼女が病気についての理解や、現在のあおいの症状あるいは回復具合を上手に説明をしておいてくれた。あおいはその間駐車場に止めた車内で待機し入室可の電話が鳴るのを待っていたが、彼女の説明のおかげでその場に加わってからの話はスムーズだった。色々な思いを封印しつつ笑顔さえ作った。少し成長したのかもしれない。再出勤日は九月の上旬の日付が示された。クリニックで行われている復職向けのプログラムが八月中には修了する予定で、そのことに沿った日程の提案を会社側に受け入れてもらった。『当日は朝礼で自分から挨拶ができるように促してください』とあおいは上司に依頼した。

ただあおいには当然不安はあった。

自身では病気の発症には原因が複合的に絡んでいると考えていた。

事柄を一から数え上げても意味はないが、最終的には自分が生活する上で最も大切にしていることを壊されたと感じたこと、直属の上司(今目の前にいる上司だ)への体力的・技能的なSOSすらも無意味なものと取り扱われたこと、このことが最大の引き金になった。

次第に欠勤日数が増え、車通勤の踏切待ちではなぜか先頭になることが多かった。それ以前は上司とは良好とは言えないまでも、けっして悪くはない関係だった時間もあっただけに余計に辛くもあった。心療内科を受診し、医師から正式に診断を受けた。

そしてその事とは別に、面談の日程が決まった頃には、そのクリニックで行われている復職支援プログラムが最終段階に入っていたが、あおいは一人の男性スタッフのことで悩んでいた。

受講者を支援指導する他の心理士たちやソーシャルワーカーについてはあおいにとって何の問題も無かったし、信頼さえしていたけれど、週二日の通院受講から始まったステップが数週ごとに一つ一つ進み、最後に足された曜日に登場した彼は、プログラム進行に独自の法則を取り入れていて、あおいはそこに若干の違和感があった。

違和感は回を追うごとに膨張し、それが肥大しきった日、復職日がすでに決まっていたが、その日の朝のプログラムの冒頭、自分は復職日を先延ばしにするつもりでこういうことを話すのではないということをはっきりと伝えたうえで、彼に自分の考えを話すと、彼はあおいを正面から睨みつけるような表情で、私の意に沿わないんですね、と低く力を込めた声で言い、否定するんですね、と付け加えた。あおいとしては否定するという趣旨の発言ではないと繰り返したが、聞き入れられなかった。(今ならそれがマンスプレイニングと呼ばれるものだったというのがあおいにもわかる)

気分を害されたであろう男性講師が部屋の隅に移動しデスクワークをしている間に小一時間が経過した。重い空気が充満して押し潰されそうだったが、もう一人いた受講者とのやり取りの末、結局その場はあおいが先に折れる形にすることでなんとか進行した。

母の菩提寺に行く計画はその翌日だった。クリニックも盆休みに入るのだ。切符はすでに購入して手元に持っていた。

Ⅱ.

墓参り自体は、しようと思えば実兄の家族と一緒に法事の時にすればいいし、そうでない時に行きたいと思ったのなら兄に連絡をして、ついでに一緒に食事でもどうかと誘えばいいだろうし、多くのきょうだい関係にある人はそうしているのかもしれないが、あおいにはそれがいつもできないでいた。兄とその妻に気を遣わせたら悪いな、と、いつからか先回りして考える癖がついていた。実際に一緒に行動をするとあれやこれやと半ば強引さをもってもてなしてくれたりもして、自分は実家を出て母のことを兄たちに任せっきりにしてもいたのだから、食事代くらいは対等かそれ以上に自分が持ってもいいような気がして、そういったところもついつい遠慮してしまう。

それに墓前で母親と、あおいが生まれるより先に亡くなったもう一人の兄と同じ空間をゆっくりと過ごしたい思いもある。二人は同じ墓に入っている。実際に自分が病気になる前に一度そうしたことがあった。母親の一周忌を前にした晩秋だった。 

数年を経て、その時からはあおいを取り巻く状況が自身の休職も含め社会全体同様、一変している、今度はそのことをゆっくり伝えたかった。自分が今何を大切にしているか。そちらの様子はどうか。

実家はあおいが今暮らしている街からは遠く、復職直後では日程的にも体力的な面からも簡単にはできないだろうと考えた末の計画だった。行くのは菩提寺の境内墓地だけのつもりでいた。前回は生まれた学区を懐かしさを持って散策する余裕もあったが、今回は無理をしない方がよさそうだというのはわかっていたし、それにあたりを無闇にうろうろして兄の家族のだれかと鉢合わせたら何と言えばいい。

当日早朝目覚めた時にはそれほど疲れを感じていなかった。前日のクリニックでのことは割り切って考えるようにした。そういうことも休職の間に学んだ一つだ。いつものように犬の散歩をし、軽い朝食を摂ってから自宅をでた。まだ早朝といっていい時間だったが、晴れていて出かけるのにちょうど良い日よりだというのはわかった。雨の心配は無さそうで今日も暑くなりそうだ。あおいは十五分かけて最寄り駅まで歩き、二十分ほど在来線に揺られ、県庁所在地にあるO駅でのぞみの指定席車両に乗り換え、座席に着いた。病気になってからは精神的な負担になるから遠出そのものが久しぶりだった。不安ではあったがそれ以上に楽しみを期待していた。

新幹線に乗っている間、自分の精神状態が変わってしまうかもしれないというのが気がかりと言えばそうだった。しかし数時間窓の外の景色を眺めたりうたた寝をしている間に昼前にN駅に何事もなく到着した。

しかしホームに降りると突然熱気に襲われた。N市はあおいが今暮らしている瀬戸内海の沿岸都市よりも暑い。暑さの質が違うといった方が正しい。この都会は冬は日本海から直接雪雲が流れてくる道があり、夏は南の湾から湿度を目一杯溜め込んだ熱気が平野の奥に連なる山々に阻まれる。冬の新幹線ホームなどはもろに北国のような乾いた強風が吹き付けて震えるほど寒い一方で、夏は街ごと熱気に覆われたように暑い。そのことをあおいは忘れていた。そこで初めてその日の行程に不安をおぼえた。しかし無事にここまできたのだ、気力はある、大丈夫だ、あとは在来線に少し乗れば駅としての目的地はすぐそこだ。水分補給だけは気をつけよう、そう心の中で呟きながら在来線ホームに入ってきた快速に乗った。電車に乗っている間はエアコンが効いていて快適だった。昼前という時間帯と都心から離れる方面の便であるのもその理由か、それほど混雑もせず、座ることもできた。

そうして到着したK駅はあおいがかつて通っていた高校のある街で、今でも多少の土地勘がある場所だ。今回も事前に駅の北口から数分歩いたところに花屋があるのを調べておいた。そこで仏花を買い求めてから南口にUターンし、タクシーに乗り、二十分ほどのH市の寺まで行くという計画だった。

しかし駅を降りた時点で体力はほとんど熱気に奪われていた。その夏最高の暑さではないかと思った。やっとのことでホームから橋上駅舎への階段を上り、改札機に切符を通したところで力が尽きた。目が眩み歩けない。かといってコンコースで倒れ込むと騒ぎになるかもしれない。ギリギリで冷静さを手放さずにいた。

あおいの目の前に駅ビルに入居しているビジネスホテルのエントランスがあった。一縷の望みをかけて自動ドアを入りフロントで訪ねると思ったとおり休憩利用が可能であると案内された。かなり高い金額だったがそこは諦めてチェックインをし、カードキーを受け取りエレベーターに乗り部屋に入り下着だけになって眠りに落ちた。

二時間ほど経ったのだと思う。部屋に入った時刻すら記憶にない。さっきより多少気分もましになっていたので、服を着てフロントでチェックアウトをした。ホテルを出るとすぐ横にコーヒーチェーンの店があった。昼食をとってないことを思いだした。食欲はほとんど無かったが何か少しでもお腹に入れておかないといけない気がして、あおいは店に入りレジでサンドイッチとオレンジジュースを受け取り、カウンター席に座った。結局半分も食べることはできなかった。

太陽は傾きつつあり、今さら墓参りができる時間でもなかった。帰宅するだけの体力は戻ってきたようだったので、その駅からまた折り返してN駅方面の快速に乗る。今日かかったお金は授業料だと思うことにした。こんな暑い日に、しかも体力も気力も衰えている体調で遠出をすることがそもそも無理なことだった。

N駅で在来線を降りると、再びあおいを目眩が襲った。K駅を出発した時よりもさらに暑さが増しているような気がした。新幹線改札に向かう地下通路をふらつきながら歩いた。どこかにベンチは、とにかく横になりたかった。乗り換え改札機の手前で駅員に話しかける。暑気当たりのようで休む場所はないでしょうか。あーそういうのはないんですよね、とりあえず椅子を出しますから座っていてください、とパイプ椅子を出してくれる。そこでぐったりとしているとしばらくして、救急車を呼びましょうか?と先ほどの駅員が声をかけてきた。あ、いや救急車だなんてそんな大層なこと、大丈夫です、もうしばらくこうしています。タクシーを呼んで近くの病院まで行くことができたらと思ったのだが、大きな駅で乗降客も多く職員がそこまで手間を割く時間がない、救急車ならここまで直に入ってこれるから、というのが駅員の説明だった。

そのあとも数分、行き交う人々の目を気にしながらパイプ椅子にもたれるようにしていたが、もう限界だと思った。意識のあるうちに、と、駅員に声をかけた。救急車を呼んでもらえますか。

そこからは早かった。駅員が119番への電話であおいの年代をピタリと言い当てていた。三人の救急隊員がストレッチャーを走らせながらやって来た。あおいは介助してもらいながらそのストレッチャーに横たわった。駅の建物から出ると、閉じた目からも日差しが眩しかった。

救急車に乗っている間に服用している薬の確認があったり、脈拍や体温(平熱)を測定されたりした。てきぱきとしながらも三人の隊員の言葉は優しかった。携帯電話からの救急搬送は二つの病院には断られていたが、三つ目のO病院というところが受け入れてくれるということを教えてくれた。N駅からは少し離れるけどね、と隊員の一人、大丈夫すぐ着きます。Oという地名は有名な観光地だが病院の名前はあおいにとっては初耳だった。隊員の言ってくれたとおり、あおいがぼんやりと考え事をしている間に到着した。救急入り口の外ですでに何人かの看護師が待機していた。

引継ぎの言葉が救急隊員と病院スタッフ側との間で簡単に交わされると、あおいは病院側のストレッチャーに「せーの」の掛け声とともに載せ替えられ、処置室に運ばれた。

処置室は涼しかった。男性の医師がやってきてシャツの上から胸に聴診器をあてたりなにかをあおいに尋ねたあと、看護師に点滴の指示を出した。数人の女性の看護師がストレッチャーを囲んでいた。あおいは彼女たちに、遠方から日帰りの予定でここまで来ていること、H市に兄がいるができればこの状況を知られたくないということ、心療内科に通っているが復職が間も無いという病状であることを伝えた。

点滴の針を刺す。チューブをテープで留める。そんなことをされている間に場を離れていた看護師の一人が、今調べてきたけど自宅方面の新幹線は22時台の最終があるからね、それまでには動けるようになるよ、と明るく励ましてくれた。

あ、ありがとうございます

と、横になったあおいの足元側にいる彼女の顔も見られずに、答えた。

カーテンに仕切られたスペースに移動する。点滴がぽたりぽたりと落ちるのを見つめる。白い天井を見上げる。ふとどこかからか看護師たちの声がする。新人に何かを教えているような話声。笑い声。二つくらい離れたところと思しきベッドから、医師と少年らしい患者の母親との会話が耳に入ってくる。「陽性ですね」「ああ」と母親。そうなのだ。もうニュースではほとんど伝えなくなったけれど、実際にはまた感染者が増加しているのだと耳にしていた。だからこそこんな時に自分が救急にかかるんじゃない、と少し無理をしていたかもしれないと、あおいは申し訳なく思う。しかし医師も看護師も誰一人そんな逼迫感を表に出さない。医師の話し方も内容はともかくあおいの耳に優しく届いてきていた。

こんな世界はいつ以来かなあ。

先ほどの看護師のグループの人数が少し増えているようだった。はっきりとは内容は聞き取れないけれど、仕事の手順についてなにか確認しあっているようだった。新人に教えることの続きだろうか。不意に一人の声が明瞭に聞こえてくる。

そんなこと言ったらさあ、そんなこと言ったらよ?

ストレッチャーの上で仰向けのまま、あおいは身構える。もしかしたら厳しい声が聞こえてくるのかも。それはそうだよ甘いだけじゃないよねでも。

そんなこと言ったらさあ、いつも右から履く靴下を左から履くみたいなもんじゃない?

笑い声

あおいもつられて笑ってしまう。

なぜだか左の目尻から涙が流れる。休職以前にはテレビを観たり本を読んだりして泣くこともあったあおいは、もともと気持ちを押し殺すことの多い方だったが、いつの間にかさらに感情を表に出すのを我慢するようにしていた。以前なら泣いてしまうような場面でも自然と我慢していたし、感情が動きにくくもなっていた。

今日はもう大丈夫かな。

点滴が終わるのを待つ、スタッフが一人来てそれを外してそそくさと立ち去る。あおいは起き上がった。声を掛けようとしたが回りには誰もいなかった。一人の暑気当たりの患者だけではないのだろう、みんな忙しいのだろう。

事前に言われていたように多少ふらつきの残る足取りで会計窓口まで歩き、処置代金を支払った。さっきのホテル代よりも安かった。Oという場所なら地下鉄の駅があるはずだった。道順を訪ね、途中で有名な観音院でお参りをしてようやく帰途についた。さっき教わったよりもかなり早い時刻ののぞみに乗ることができた。

自宅に着き、片付けをし、シャワーを浴び、今日のことを考えていたが、最後に病院のスタッフに直接ありがとうと言えなかったのが悔やまれた。

あおいは自分のスマートフォンを開き地図アプリを立ち上げた。その病院の場所を探し口コミを開くと、両極端な意見が並んでいた。病院は相性があるとは言え、悪いことばは読みたくないので、自分で今日のことを簡略に時系列で書き込んだ。最後に感謝と無事に帰宅できたことを添えると、翌日には二つ、評価がついていた。あの人たちに伝わってくれたのならいいなと思った。



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