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【短編小説】The Angle’s Apple


ママと、幼稚園と、真っ赤な林檎。
それがハルの好きなもので、ハルを取り巻く世界の全てだった。


ハルは精神科の勤務医である猪俣晴(イノマタ ハル)から取って名付けられた。ハルは毎日幼稚園から帰って来ると、自ら制服を器用に脱いで部屋着に着替える。柔らかい綿素材で作られたピンク色のセットアップに、母親がうさぎのアップリケを付けた。母親が買ってきた安い衣料販店の服は、すぐにハルのお気に入りとなった。着替えている間に母親が林檎を剥いてくれるのを、ハルは知っている。

「お着替えが終わったらおいで」

母親の呼びかけにハルは、はあい!と幼稚園で覚えた返事をしてぱたぱたと走る。食卓にはうさぎの形に剥かれた林檎と、人肌に温められた甘いミルクが用意されている。

ハルの母親が出産したのは16歳の時だった。彼女の妊娠が分かったのは、両親が子育てを早くに終えた気になって田舎に移り住んだ後のことで、彼らからしたら気まぐれで帰った時には孫がいた、という具合だった。両親はハルの誕生にびっくりしたけれど、孫があまりにも健やかで可愛いものだから、一度生まれたその生命は歓迎されたのである。

落書き帳に林檎ばかりを描くハルのクレヨンの減りは比較的均一で、4歳児にしては茶色などの地味な色の減りが早かった。しかし4歳のハルは、食品が傷むということをまだ知らない。

ハルは、母親の目の前で死んだ。
二人並んで信号が赤に変わる瞬間を見ていた。その時、突然ハルが駆け出したのである。晴れ過ぎて眩しく青い視界に、舞う華奢な身体と赤。ハルを撥ねた車は咄嗟に急ブレーキをかけたものの、後方から相次ぐ追突によって潰されていった。警察の母親への激しい叱責はまるで頭に入らなかった。全てが手遅れになった後で、どうして彼らは人を責められるのだろう。


眠りにつく瞬間も、目覚める瞬間も、チカの瞼の裏に晴は鮮明にこびりついて離れてくれやしないのに、彼の匂いだけが思い出せない。

キスをしたいという衝動。それは必ず成し遂げられなければならない。そうでなければ悲しくなってしまうから。子供でなくなってから感じる悲しさというものは、どうしてかなかなか拭えない。横で寝息をたてる晴を見る。額、目、鼻、そして唇へと視線を滑らせる。彼の顔は見事なまでに整っている。
この綺麗な人にいつでもキスができる私だけれど、この綺麗な人は私のものになってはくれない。

 私は寝顔にキスしたくなる情動を愛と呼んだ。
だから、何も返ってこないのを分かっていながらも寝ている彼に私はキスをした。彼は好きだとも、愛しているとも言わない。わざと言わないのではなくて、そう感じないから言わないだけだ。きっと彼の中で私に対する感情なんて細波程度も動かないのだろう。だから彼の中のどれくらいを私が占めているかなんて、恐ろしくてとても考えられない。それでも彼はもう私の半分になっていて、つまりは私の大部分を占めていた。あっちが細波ならこっちはいつだって大津波だ。

私たちはいつも一枚のシーツに包まって、それをくしゃくしゃにしたり濡らしたりして過ごした。彼は私を扱うのも悲しくさせるのも上手だ。今日も彼の掌の上で私が転がる音が聞こえる。ころころ。そうして私をたくさん悲しませた後に、私の目を見ておいで、と言う。 静かな水面に安堵と喜びの波紋が広がる。私はまた彼を赦してしまう。

セックスの後で酷く喉が渇く私達は、いつもミネラルウォーターのボトルを半分ずつ飲んで空にした。全身が満ち足りて、全てにおいて何の不足もないのだと信じられた。明晰夢の中でそれが夢だと声に出したら目覚めてしまうように、彼の妻との生活や住処を、私は尋ねたりしなかった。
私が呼ぶ彼の名前が甘ったるく床にぽとりぽとりと落ちてゆく。それだけのこと。

彼は眠りに落ちる前、私を腕の中に閉じ込めたまま「泳ぎたい」とだけ言った。どうして私は水になれないのだろう。

晴は立派な大人なのだけれど、その名前の響きの幼さが彼を少し若く見せた。彼の名前を呼ぶ時、振り向く彼の目が上手に私を捉えるものだから、そのまま彼のものになりたいだとか無駄にしかならない思考を巡らせては、歩幅を広げ直して隣を歩いた。できることなら、彼の放つ一語一句も、目に映る景色の全ても、ひとつも零さずに抱えていたいと願った。私と彼の関係は不格好だったけれど、世間がそんなことを知る必要などないのだった。

チカの月経が止まった時、心配して妊娠検査薬を買い与えたのも、チカの初めての産婦人科へ連れ添ったのも晴だった。産婦人科の待合室は静かで、BGMのオルゴール音がやけに耳に障った。時折若い夫婦が手を取り合ったり、男性が女性の腹を撫でたりする光景が苦痛で、チカは更に泣きたくなるのを堪えて番号が呼ばれるのを待っていた。医者から妊娠が告げられた時、チカがそうですか、としか言わなかったのは、家で試した検査薬の二本ともが陽性反応を示していたからだ。小さな四角い枠に赤色の線が浮き出たその日、チカは気分が悪くてトイレに嘔吐した。チカは16歳の少女に過ぎなかった。腹に生命を宿すだけでは、母親になれない。それでも晴が堕胎を望む一方で、チカは日に日に芽生える母性を無視できなくなっていった。結局、晴はチカとの子を頑として認知せず、金だけを豊富に渡してチカの世界から消えた。消えてもなお、チカは思い出せない晴の匂いが恋しかった。


静かな住宅街の中で、その家は住民からすっかり敬遠されていた。錆びたフェンスから玄関にかけての、庭とも呼べぬ空間はすっかり荒れ地と化して雑然としている。昔、夫婦とその娘が住んでいた頃、庭に置かれた陶器製のエンジェルはしゃんと美しくオブジェとしての役割を果たしていた。残された娘の元に男が通い始めた頃には、既に庭は現在の鬱蒼とした姿を見せつつあったのだが、今となっては等間隔に並んだ色褪せたエンジェルが、ただただ不穏な空気を放つだけの空間になってしまった。エンジェルにはミカエル、ラファエル、ガブリエル、ウリエルとそれぞれに名前があった。戸建てにしては小さいその家で今、チカは一人で暮らしている。


アリピプラゾールとニトラゼパム。世界から死を取り去る魔法。魔法はチカを眠らせて全てから遠ざける。こんな生活を1年余り続けている。魔法に自らかかるというのは、中途半端な絶望を抱えたまま宙づりになるようなものだった。慌ただしくハルの葬儀が終わって、やっと気の抜けた頃にチカは母親に精神科に連れて行かれた。憔悴したチカが母親と共に診察室に入ると胸に「猪俣」と書かれた医者が椅子に座っていた。母親と晴が何を話していたか、チカには何も聞き取ることができなかった。晴のスリッパから覗く靴下に見覚えがあった。ベッドに上がる時に必ず脱がされていたグレーとグリーンのチェック柄。彼の顔を見ることはできなかった。耳を塞ぐことなく音を感じ取れないことがあるんだなあと思った。そのうち頭が重さを増し視界が白んで、その先で何となく晴がチカの名前を呼んだ気がした。限りなく距離を感じる呼び方で。ハルの父親を両親は知らない。

目覚めて、午前中であることを確認する度に絶望する。つまりチカは、懲りずに毎日絶望している。冷えた手足を温め合う人がいない生活は、ちっとも豊かではない。晴が去った後、チカの元にハルはやって来たのだけれど、神はたった4年で彼女を壊してチカを再び一人にした。ハルはもう本当に存在していないのだから、時間はかかったけれど少なくとも事実を理解することはできた。しかしチカがこうして酷く苛まれていても、どこかで晴が妻と生きていることが苦しかった。
真っ白なシーツに皺が寄るとき、セックスの後で女が水を欲しがるとき、笑う幼子を見るとき、少しでも胸が痛むのだろうか。傷むのならそれでいい。本当にそれだけでチカは救われるのだ。ああ、この人にもちゃんと心があるのだなと。私を選ばないという選択に甲斐がきっとあるのだろうと。

晴もハルもいない生活は、もはや生活であると言い難いものに変わっていた。毎日感情を使い果たす程泣いて、それでも涙は少しずつ出なくなっていって、ついには胸が潰れるような痛みだけが残った。すると次第に痛みを抱えて息をすることが当たり前になった。今のチカは、痛みだけを残してハルを忘れていくことが怖い。食卓の椅子に掛かったままの晴のパーカー。脱衣所の引き出し下段の、不器用に畳まれたピンク色のセットアップ。遺った物たちに囲まれた生活は苦しいけれど、自らの手で移動させることの不自然さの方がずっと悲しい。


手作りのお菓子と季節の果物は、チカとハルの暮らしに必要なものだった。たまの駄菓子もハルは好んだが、4歳児とて焼き立てのアップルパイの甘い誘惑には勝てない。幼稚園の帰りにスーパーへ寄る時には、二人でよく林檎の品種を唱えるだけの遊びをした。

「ふじ、むつ、こうぎょく、おうりん。きおう、せかいいち、しなのごーるど」

ハルの落書き帳にならぶ林檎も、ふじ、陸奥、紅玉、王林、黄王、世界一、シナノゴールドの順で描かれていた。緑色の林檎、赤い林檎、茶色の林檎、黄色い林檎。4歳児の世界は色鮮やかだ。

ある日曜日の昼間、チカはスーパーで安く手に入れた紅玉3玉をざくざくと切り、それを砂糖やレモンの果汁などで煮詰めていた。甘酸っぱい香りを胸いっぱいに吸い込みハルが言う。

 「ママ、一個だけ食べていい?」

冷まし途中の林檎のコンポートが、ただコンポートになるために作られた訳ではないことにハルはとっくに気がついているのだ。

「じゃあフォークを持っておいで」

「はあい!」

ぱたぱたと忙しない娘が、チカは愛おしくて仕方なかったのに。まだ何も知らない世界を置いて、どうして突然死んでしまったのだろう。

「こうやってころころして、パイ生地を伸ばすの」

ハルは賢い子供だから、袖に粉を付けずに器用に麺棒を転がす。だけどまだ4歳だから、時間を忘れて生地を伸ばし過ぎてしまう。チカはアップルパイを切り分ける時、自分の選んだ一切れの生地が薄いと、つま先立ちで麺棒を転がすハルの後ろ姿を思い出して思わず笑う。


ハルは、真っ赤に光る信号機を真っ直ぐに見上げて駆けて行った。
その幾つもの瞬間を、脳内でゆっくりと再生し繋ぎ合わせたその時、チカは思わずひゅっと息を呑んだ。急いで子供部屋へ向かう。未だ手付かずのハルの部屋へ、こんなにも躊躇うことなく入る日が来るとは思ってもみなかった。しかし、もしもこれが本当だったら。ハルの見ていた世界が私のものとは違っていたのなら。

 うっすらと埃の被った落書き帳を手に取る。
拙い『ふじ』という文字と、丸い林檎。それはべったりと濃い緑色に塗られていた。

一番好きな物の色を、わざとほど遠い色に塗るだろうか。あの日の赤信号が、ひょっとしてあの子には緑色に見えていたのではないか。あの子は、教わった正しさに従っただけではないのか。


慌てて相談に駆け込んだ病院で、チカはハルが色覚障害であった可能性が高いことを知らされた。ある研究者の論文のチャートとハルのクレヨンの使用色のパターンが酷似しているのだと。事故は本当に誰のせいでもなかったのだ。ハルが、ハルの見える世界で生きた事実がここに残っただけだ。

周りに誰一人として残らなかった自分の世界。これすら受け入れられなければ、もう一度そこに誰かが入る余地などないのだと悟った。現在のチカにはまだ新たに人を愛する余力はないけれど、少なくとも自分の世界にいつかは晴とハルがいたことを、愛おしく思いたい。眠ることでやり過ごしたかもしれない今日、1年も過ぎてしまったけれど、新しいハルを見つけ出せたのだ。日々をまっとうに生きてみたら、まだ彼らの温もりの跡を見つけられるのだろうか。少しでもその可能性があるなら、少しだけでもいいから、二人を見つけてまた笑いたい。

 冷たく乾いた空気を吸い込んで吐く。生きていることを正しいとも喜ばしいとも思わない。ただ今日の空気は1年ぶりに澄んでいて、それを感じ取れたことを喜ばしく思った。

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