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ソニー・ロリンズ『ワークタイム』

ソニー・ロリンズは伝説の巨人とならずテナーサックスの巨人となる第一歩のアルバム『ワークタイム』を1955年12月2日にリリースする。

1954年の暮れよりソニー・ロリンズはジャズシーンから離れる。自ら麻薬更生施設に入所し退所、その後シカゴに隠遁したままであれば、ロリンズは数枚の優れたアルバムを残した伝説のテナーサックス奏者として歴史に名を残しただけだったかもしれない。

『ワークタイム』での復活はソニー・ロリンズの歩みにつられて、そのプロセスで副産物が生まれます。マイルス・デイビスがテナーサックス奏者のジョン・コルトレーンを自らのバンドメンバーに抜擢するからです。

ジャズ界にとって1955年はテナーサックス奏者の再起と誕生という時期だった気がします。

🔵アルバム『ワークタイム』紹介

『ワークタイム』(プレスティッジ)は1955年12月2日にリリース。テナーサックスはソニー・ロリンズ、ピアノはレイ・ブライアント、ベースはジョージ・モロー、ドラムはマックス・ローチがセッションメンバー。
レコード基準で5曲収録されている
・「ショウほど素敵な商売はない」
・「パラドックス」
・「レインチェック」
・「ゼア・アー・サッチ・シングス」
・「イッツ・オールライト・ウィズ・ミー」
このうちロリンズのオリジナルは「パラドックス」です。

🔵『ワークタイム』から「レインチェック」

こちらから聞けます。ソニー・ロリンズのサイトです。


繰り返し聞けば聞くほど、聞き方や良さが変わっていく不思議な演奏です。最初はテナーサックスの流麗なフレーズに耳を奪われます。一定回数聞くと実はコール・アンド・レスポンスがこの曲の特徴だと感じます。テナーサックスとドラムのかけあいのノリの良さ。さらにさらに繰り返して聞くとドラミングの歯切れの良さに圧倒されます。

曲はテナーサックスとドラムのかけあいで始まります。ドラムがジャズらしいドラミングでライドシンバルをカツ・カツ・カツ・カツと刻みリズムをつくります。このリズムにテナーサックスとピアノが合わせて行きます。テナーの音色は切れと伸び、ピアノも伸びのないシングルトーンでリズムをつくります。
最初に聞いた時はソニー・ロリンズのサックスに耳が行きがちですが、何度も聞くとマックス・ローチのドラミングプレイに耳が向かってしまいます。ローチの叩きすぎ、が心地よくなります。

素晴らしいアルバムなので聞けば聞くほど発見があります。

🔵アルバム『ワークタイム』前史〜マイルス・デイビスとマックス・ローチ

ソニー・ロリンズはシカゴに隠遁する。シカゴではいろいろな職業についていたものの音楽の表舞台での活動は行っていない。ロリンズはこう振り返る、

「この仕事を恥ずかしいとは思わなかった。肉体労働は好きなのだ。就職したのは工事の事務所で、まず掃き出し、床をモップで磨き、便所を清掃した。入念に精を出した。だからやめるとき、社長がとても惜しがったよ」
次に手がけた仕事は、トラックの荷積みであった。肉体の鍛錬になると思った。ところが何度も腕を傷つけたのでやめてしまった。そうした間にも、サックスは吹き続けていたが、練習だけで人前には出なかった。 油井正一『ジャズの歴史物語』角川文庫

シカゴでの暮らしを知ると音楽仲間と距離をとりたかったのだろうか。ソニー・ロリンズほどの演奏力があればシカゴでも音楽活動ができるはず。肉体労働は好きかもしれないが慣れない仕事をして給与を稼ぐことは苦しくはなかったのだろうか。音楽の表舞台とは距離を保ちテナーサックスの練習に勤しんでいた。

この時期にソニー・ロリンズの生活とは別に、マイルス・デイビスとマックス・ローチ(ドラム)がテナーサックス奏者を探します。ふたりとも動機は同じでクラブに出演するためです。

🔵マイルスがロリンズを探す

ニューヨークではマイルス・デイビスが動きだしている。マイルスは1955年7月17日にニューポートジャズフェスティバルに参加し賞賛を浴び、大手レコード会社コロンビアからオファーが入る。世界がマイルスを中心に回り始め、次のクラブ出演のブッキングへ乗り出していく。マイルスは当時をこう語る。

9月に始まるクラブ出演の契約を済ませ、もう少しで本番という時になって、やっぱりソニー・ロリンズが行方をくらましやがった。シカゴにいるという情報もあったが、見つられなかった。後でわかったが、奴はヘロイン常習癖を完全に直すために、自分からレキシントンに入獄していたんだ。オレはどうしてもテナーが必要だった。
マイルス・デイビス/クインシー・トループ 中山康樹訳『マイルス・デイビス自叙伝1』宝島社文庫

テナーサックスが必要。マイルスは自分でシカゴに行きソニー・ロリンズを探したのだろうか。これは自叙伝からはわからない。また代理人を立てて探させたのだろうか。これもわからない。誰がどのようにロリンズを探したのかはわからない。

探し方はわからないが、ソニー・ロリンズはマイルスからのオファーを確固たる自信がないため断ったと言われている。

テナーサックスが必要で、ソニー・ロリンズを探しているが、見つからない。結局、「必要」がマイルスには残り、ドラムのフィリー・ジョー・ジョーンズが連れてきたジョン・コルトレーンを起用する。ここでジャズ界にテナーサック奏者が誕生する。

マイルスの誘いをロリンズが断ったことがジャズの巨人コルトレーンの誕生の一歩あるいはキッカケとなる。とても有名な逸話です。

🔵ローチがロリンズを見つける

マックス・ローチは1955年11月、クリフォード・ブラウン=マックス・ローチ・クインテットでシカゴに巡業する。シカゴに着くとメンバーのテナーサックス奏者ハロルド・ランドが家庭の事情でカリフォルニアに戻ることとなり、テナー・サックスが欠員となった。ローチもまたテナーサックス奏者を必要とした。

思いついたのがシカゴで暮らすソニー・ロリンズです。

ローチは、ロリンズに会って、困った事情を話し、なんとかシカゴの契約期間中だけでもグループに加わってくれないかと口説いたのである。ロリンズはまだカムバックする意思はなかったのだが、親友ローチの頼みとあっては断るわけにもいかず、じつはいやいやローチ=ブラウン・クインテットに加わったのだった。 レコードのライナーノート『ソニー・ロリンズ・プラス4』東芝EMI株式会社 LPRー8877

シカゴ出演中だけという条件で、エキストラを頼まれたものの出演後、クインテットがニューヨークに戻ることに合わせて、ロリンズもシカゴを去りニューヨークに戻り、ブラウン=ローチ・クインテットにレギュラーメンバーで参加し以後レコーディングも行う。

ソニー・ロリンズを射止め引っ張り上げたのはマックス・ローチとなる。ロリンズはいやいやだったが話を受ける。麻薬をやらないクリーンなジャズメンだったトラペット奏者のクリフォード・ブラウンの存在もあったとも言われていますが。

🔵モダンジャズの世界が花開く

1955年9月から11月までに起きたテナーサックス奏者を巡るマイルスとローチの動き。ソニー・ロリンズが復活、ジョン・コルトレーンの誕生、ハロルド・ランドのウエストコーストへ活動拠点の変更。

テナーサックスを必要としたマイルスとローチ。もしマイルスがシカゴにロリンズに会いに行って自信がないと渋るロリンズを説得できたなら、もしローチがシカゴに巡業に行ってもハロルド・ランドがカリフォルニアに戻らなければ。

ジャズ界の「もしも」や「もしかしたら」は若くして亡くなったジャズメンが生きて演奏してたら?についての語りがおおいのですが、ソニー・ロリンズを巡る出来事もジャズ界の「別筋のもしも」ではと感じています。

アルバム:ソニー・ロリンズ『ワークタイム』プレスティッジ

Sonny Rollins:Work Time

PRESTIGE RECORDS

December 2, 1955


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