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わたしだったかもしれない


自死の報せを受けるたびに、小学生のときに習った水槽の問題を思い出す。
水槽に蛇口Aから水を注ぐと10分で満水になって、Bから注ぐと15分で満水になります。AとBから水を注ぐと何分で満水になるでしょう?
計算に失敗して水槽を溢れさせてしまったときの対処法は、誰もわたしに教えてくれなかった。

 
 生きていることは、本当に偶然の結果の産物だと思う。今日いちにち事故に遭わなかったこととか、災害が起こらなかったこととか、病気が発覚しなかったこととか。そしてそういうことだけではなく、たまたま自死を選ばずに済んだこととか。

 「死んじゃおっかな」

 世界との関わり合いにおいて、何か辛いことが猛烈に自分に降りかかったとき、マグマが湧き出るみたいにそう考える瞬間が、今までの人生で何度かあった。それはむしろ、恒常的に考えていることというよりは、突発的に浮かび上がる感情だ。それは大きな波のようにわたしの全ての考えをあっという間に攫っていって、いとも簡単に足元をすくませる。

 でもそういう瞬間に、その感情にのみ込まれずに今日まで生を積み重ねて来られたのは、たまたまその直後に友人と会う予定が入っていたこととか、その日作ったご飯が美味しかったこととか、イヤフォンから流れてきた曲のワンフレーズに猛烈に心を動かされたこととか、そういう「たまたま踏みとどまらせてくれた何か」があったからだ。ああ、やっぱり生きてみるか。そう思わせてくれた何か。たまたま、そんな何かにたまたま巡り会い続けられているだけだ。

 だからいつも、自殺した人のニュースを見るたびに、「ああこの人はわたしだったかもしれないな」と思う。自ら死を選ぶ人はだいたい、数日前、あるいは数分前までSNSを動かしていて、そのアカウントを消していないことが多い。自殺してしまった人のSNSを覗くたびに、そこに漂っていた生の気配と、それすらも飲み込んでしまった影の存在を痛感して、どこまでも苦しくなってしまう。ああ、その瞬間に、水槽から水が溢れてしまったんだね。もうどうしようもなかったんだね。


 あの番組は観たことがないし、あの方のことも報道が出るまで知らなかった。それでも、あの時の、水槽に水をぎりぎりまで張っていたかつての自分と巡り合ったようで、報道を見てからずっと哀しみに暮れていた。今この瞬間もきっと、水槽から水を溢れさせそうになっている「あの時のわたし」はこの世界のどこかにいるだろう。そんな人の「たまたま踏みとどまらせてくれた何か」になるには、一体どうしたらいいんだろう。そんなことをずっと、「あのとき」を乗り越えるたびに考えている。

 ご冥福をお祈りいたします。


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