国木田独歩『武蔵野』と自然賛歌
せっかく文豪ゲームにハマっているので、ゲームをきっかけに読んだ小説をまず最初にあげてみようかと思います。
短編集になりますが、基本的には小説一本ずつ単位で感想文をあげていきますよ。だってその方が一冊読むだけで一杯感想文書けますでしょ、おっとくー!
で、私はそもそも日本の近代文学にはあまり興味がなく、教科書で読んだもので印象に残っているものといったら『山月記』『走れメロス』『蜘蛛の糸』『一つの花』『夏の葬列』『檸檬』『セロ弾きのゴーシュ』といった具合。
それでもこうやって書きだしてみると意外と覚えてるな?と思わず自画自賛したくなるくらいなのですが、夏目漱石すらまともに読んでいない。授業で『こころ』をやった覚えがあるけど、余りにも一部だけすぎてあまり興味がわかなかったらしく、内容をさっぱりぽんと忘れている。
読書家を語るにはあまりにもお粗末な感じがするけど、当時の興味は『はてしない物語』であったり、『ナルニア国物語』であったり、『ゲド戦記』であったのだ。海の向こうにしか意識がいっていなかった。そのくせルパンとかホームズは読んでいない。
というのも、私の実家は牛飼い農家で、学校から帰ったら毎日強制労働がまっていたので、細切れにしか本を読めなかったからである。ミステリや謎解き要素のある読み物は、途中で読むのを中断するのが嫌だったので手を出さなかったのだ。
話を戻すとして、そんな風に海の向こうのファンタジーばかり読んでいたのに、いい歳の大人になってからゲームを通じて急に近代文学に転がり落ちた記念すべき作品、『武蔵野』であります。
これは小説なのか、エッセイなのか。
まずそこから哲学しなければなりません。
エッセイ風小説というべきなのかもしれない。一応、主人公が相手に語りかけているという体裁を取っているので。
国木田独歩と言えば、佐々城信子との恋愛事件が有名なわけですが(簡単に言うと名家のお譲さんと駆け落ちのように強引な結婚した後、そのお譲さんが失踪して、その後見つかったものの離縁することになってしまう、というもの)『武蔵野』はその「お信さん」こと佐々城信子さんとデートした武蔵野や、彼女と別れて傷心の中で過ごした武蔵野の自然の美しさが描写されています。
武蔵野っていっても、彼の当時のお住まいは渋谷だったそうで、当然ながら渋谷に行っても今は『武蔵野』に書かれていた美しい自然の気配も感じることはできません。モヤイ像の脇にドブネズミがチョロチョロしてて普通にびっくりしたわい。
それでも、渋谷には国木田独歩住居跡が目印があります。木製の杭。実は一年も住んでいなかったらしいけど、文学的に重要だから残っちゃったんだなー!すごいな!
『武蔵野』の内容に話を戻すと、本当にエッセイというか演説というか、内容を端的に言うと『オレが思う最高に美しい武蔵野語り』であり、小説的な起承転結はほぼ皆無です。
しかし、描写力がすごい。
『林という林、梢という梢、草葉の末に至るまでが、光と熱とに溶けて、まどろんで、怠けて、うつらうつらと酔て居る』
もう、わかるじゃないですか、この文章だけで、日差しの強い夏に木々の下から木漏れ日が透ける木々の枝を見上げている情景が。
これ、明治初期の文学ですよ……まだ近代日本文学の基礎を作ってる時代の文章ですよ……。美しくないですか。
最初は「日本の近代文学って文章が独特のかたさがあって読みづらいんだよなぁ」と思っていたのに、随所にちりばめられた美しすぎる描写の数々と、古い文体なのに独特のリズム感がある文章で、いつのまにかするする読んでします。
国木田独歩は、処女作の『源おじ』を書くまでは、記者であり詩人であったわけなのですが、この『武蔵野』は初短編集ということもあり、独歩の作品の中でも極めて初期の方の作品です。
初期作品なのですが、同じ短編集の中で描写力がめきめき上がっていまして。恐らく小説の試作品?的な『源おじ』よりも初出の古い『星』という作品と文章を比べてみてほしいです。同じ作品集に入っているので。ものの数作の間にものすごい洗練されています。
『星』が小説として出来が悪いというのではなく、これはちょっと『小説というよりは物語性の高い詩』という感じなので。(実際その後に書いた『源おじ』を『小説』の処女作としているので、本人や周りもそういう認識だったのかもしれない)
『武蔵野』の自然描写の美しさについては本当に、読んでくださいお願いします、という感じなので。
あと、やっぱり『武蔵野』で外してはいけないのは
『武蔵野に散歩する人は、道に迷うことを苦にしてはならない』
の名文だと思います。
道に迷ったら君の杖を立てて、倒れた方に進めばいい。林の道を進んでみたまえ。農夫に道を尋ねればいい。
国木田独歩の語りに導かれた先に
『山は暮れ野は黄昏の薄かな』
の名句を思い出す風景が広がるわけですよ。
百年以上後を生きる我々は、その武蔵野の雑木林を実際に散策できるわけではないのに、確かにそこに武蔵野の美しい野を見ることができるじゃないですか。
なるほど、これは文学だ。
小説なのか? と聞かれたら「ちょっとわかんない……」けど!
国木田独歩という方は、多分目と耳と記憶力がすごく良い方なのだろうなぁ、と思います。すごい鮮明。海外文学の翻訳を、貧乏書生がやっていた時代。二葉亭四迷が訳したロシア文学が、ようやく江戸の戯曲の流れから脱しきれていなかった日本文学に、新しい風を吹き込んだ時代。
国木田独歩は階段を二段飛ばしくらいで駆け上がり過ぎて、時代がついてこなかった作家である。と思っている。
国木田独歩について色々調べて、現在も続く『婦人画報』の初代編集長だと知ってびっくりした。写真を多く使う現代の雑誌の先駆けだったと。
視覚的なセンスが強い方だったのだなぁ。そして視覚情報を最適な言葉で出力するのに長けた方だったのだろう、と。
国木田独歩については色々読み漁ったので、もっと語りたい作品があるのですが、これはあくまで『武蔵野』の感想文なので(最初の方にだいぶ余計なこと書いたけど)他の作品はまた別の機会に。
物語性を求めるなら、国木田独歩の作品の中でも『置き土産』『少年の悲哀』『春の鳥』『窮死』あたりをおすすめしますが、描写の美しさなら『空知川の岸辺』『忘れえぬ人々』あたりもおすすめです。
それでも、国木田独歩入門としてはやっぱり『武蔵野』がいいかな、という気がします。自分がそうだったからかもしれないけれど。
明治時代の文豪・詩人たちは、国木田独歩の『武蔵野』を読んで、散歩をすることを愛したという。
正直すごくよくわかります。だって、無意味にその辺の静かな公園とかを練り歩きたくなりますもの。山の中でもなく、街中でもなく、田舎の少し自然の多い道を歩くのです。
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