死にゆく人を見送る話
先日アップした映画「長いお別れ」の感想日記でも話題にした、祖父母の話でもしようかと思う。
何度も話題にしている通り、我が実家は元酪農家(牛飼い農家)である。
戦後、満州からひきあげてきた祖父母が、北海道に入植した。戦後入植者として村から土地を買い、牛を飼い始めた。
祖父の出身は広島であったし、祖母の出身は大阪であった。
戦後、広島に帰らなかった理由は言うまでもないだろう。北海道という遥か遠い土地にやってきた理由も。
祖母もいいところのお嬢様であったのに、顔に大きなアザがあったために追いだされるように嫁にきたらしい。要するに家の都合で大した家柄でもない祖父とお見合い結婚させられたということで、大阪に戻れなかった理由もお察し申し上げる。
祖母は母が嫁に来る前に手術でアザを治したとのことで、私はアザひとつない祖母の顔しかしらなかったので、そのやんごとなき事情を聞いた時は驚いた。
祖母は賑やかな人で、手先が器用で、お嬢様だった割には(多分アザのことで実家からやや雑な扱いを受けていたと推測はできるのだが)色んなことに無頓着で、家事はあまり得意ではなかった。
箸の持ち方も、父方の家族はみんないい加減だ。私もいい加減だ。
母は「矯正したかったけど、おばあちゃんが別にいいでしょって感じだったから……」と愚痴っていた。でもまぁ、私の箸の持ち方が直らなかったのは、教育のせいだけではなく単純に私が極端に指先が不器用だったせいもあると思うのでそこまで落ち込まないで欲しい。(謎の励まし)
まぁ、とにかく祖母は賑やかでテキトーでおおらかで、無口で何もしゃべらず煙草を吸い焼酎を飲む祖父とはおよそ対極の存在で、孫にゲロ甘だった。
両親は農家の仕事に追われていたし、祖父は前述の通り寡黙すぎる人であったので、私は3歳までほぼ祖母に育てられたと言ってもいい。
私が保育所にあがると昼間に子供の面倒を見る人が必要なくなったので、祖父母は市街地に引っ越した。建築屋の長屋で、工事現場の手伝いをして暮らしていた。たまに泊まりにいくと、おやつをたくさん用意してくれた。
私は両親よりも祖母の方が好きだった。両親は基本的にかまってくれないからである。
ある冬、年末年始に祖父母が実家に帰ってきていた時。
昭和64年の1月2日。
祖母は急に亡くなった。
心筋梗塞で、急に苦しみだして、病院は隣町だから救急車なんて呼んでも間に合わないことは明白で。
家族全員で祖母を運んで車に乗って、父が病院へと車を走らせた。
私は、祖母が足もとでだんだん動かなくなるのをじっと見ていた。
じっと、じっと見ていた。
隣町まで30キロ。
間に合うわけがなかった。
田舎じゃなければ助かったかもしれない。
でも我が家は田舎だった。助かるわけなかった。
当時の私は癇癪持ちの泣き虫で、ことあるごとに父はそんなことで泣くなと叱って来たが、その時だけは「泣いていい」と許可を出した。
それがムカついたので、泣かないように頑張っていた覚えがある。
私の涙と向き合ってこなかったくせに、今更こんな時だけ泣くことを許さないでほしい。
父の誕生日は翌日の三日で、要するに父は自分の誕生日の前日に母を亡くし、誕生日に母の死を粛々と処理しなければならなかったわけだが、当時の私にはそんな理屈はわからなかった。
正月の真っただ中に亡くなったので、通夜も葬儀も数日遅れだった。
初七日が終わるか終わらないかという時に昭和天皇が崩御して、年号が平成に変わった。おかげで祖母の位牌は「昭和64年」なのに、墓碑に刻まれているのは「平成元年」となった。ややこしいな。
家事ができるタイプではない祖父は、祖母亡き後に引き取り同居で我が家に戻ってきた。
父は祖父が嫌いだったようだ。煙草も嫌いだし、祖父は本当に何も話さない人であったので、コミュニケーションもとれていなかったのだと思う。
あと、満州にいる間に祖母にえらい苦労をさせて、子供も数人亡くしているので、まぁ、そういう時代柄もあったのであろうけれど、子供たちにとっては色々思うところのある親であったことは確かなようだ。
だけど、私にとっては父も祖父と負けないくらいに言葉足らずな人であったし、父はげんこつも飛ばすし理不尽に怒ることもあったが、祖父は我関せずと自由に煙草をスパスパすうだけで、煙草臭い以外は私にとって極めて無害な人であった。
牛飼い農家に休みはないので、年中両親は働いている。
私も小学生になったら強制的に家業の手伝いにかりだされていたが、女児である私にできる手伝いは限られていたので、夕方までは「宿題をやる」という名目で家に残っていた。
私だけが茶の間にいると、祖父は必ず茶の間のソファに座って煙草をふかしはじめる。私は煙草の煙を吸わないように、床のクッションを枕に寝っころがりながら本を読んで、茶の間にできる煙の層をぼんやり眺めていた。
祖父と私のこの無言の夕方タイムは、実に高校を卒業して私が進学して家を出るまでずっと続いた。
祖父は何も話さない人だったが、たまに軍歌らしきものを口ずさんだ。
だけど宿題で戦争のことを祖父母にきいてこい、という今思えばなんつーことをやらせてんだ、という課題で質問をしてみたら「戦争にはいったけど、すぐに終わったからお土産を買って帰った」と言った。
子供のころの私は無邪気にそれを信じたが、満州に入植しているし、広島出身だし、軍歌らしきものを鼻歌で歌っていた直撃戦争世代の祖父が行っていないわけがない。もちろんお土産なんて買っているわけがないのである。
高校二年生まで住んでいた我が家は、祖父が入植した時に近くにあった廃屋を解体して、そのまま移築したものらしい。
築40年くらいという割には年季が入ってる家だよな、と思っていたのだが、移築前も築年数に含めるとするともしかすると築60~80年くらいは経っていたのかもしれない。
釧路沖地震にも、根室東方沖地震にも耐えてなお無事だった奇跡のあばら家である。
私は保育所に入るのが他の子よりも1年遅れたのだが、理由が「自宅のトイレが怖すぎて、一人で夜トイレにいけなかったせい」である。つまり、トイレを覚えなかったから、である。
築年数からお察しの通り、もちろん汲み取り式ボットントイレである。今はもう絶滅危惧種……。
しかもトイレに行く前の裏口のドアに顔みたいなシミがついていた。
トイレを覚えなかったのではなく、トイレに怖くていけなかったのであるが、両親はこれを「トイレを覚えられないちょっと育ちが遅れてる子」と見なしたのであった。(私が3月末の早生まれで、実際他の子よりも1年くらい遅れている状態だったのもあるだろうが)
そのおかげで1年遅れで保育所に入って私が微妙にハブられたり、祖母離れができずにアンニュイになったりしたわけなんですけども。両親はちょっと反省して欲しい。(もっと子供と対話して)
私はわがままはさほど言わない方だったが、変なところでやたらと神経質な癇癪もちの子だった。怖い夢をよく見た。トイレが近くなったり、夜に眠れないことは当たり前だったのだが、家族の誰もそれを理解しなかった。そのために私の夜にトイレ行けない戦いは、実に小学四年生くらいまで続くことになった。
ちなみに克服できた理由は簡単で、小学校が建てなおしになって水洗の綺麗なトイレになったら、怖くないトイレに行くことに慣れて家のボットントイレもさほど怖くなくなったのである。
やっぱり両親はちょっと反省してほしい。(もっと子供と対話して)
祖父母の話からだいぶ話題がそれた。
何故か高校までサイレントコミュニケーションをとり続けていた私と祖父であるが、私は進学で札幌にいくことになった。
そして私が札幌に行ったことで、家族の中で祖父は居場所を見失ったらしい。急に認知症になってしまった。
私がいたところで何も会話はなかったのだが、ただ夕方一緒にテレビをみていることが祖父には大事だったのだろう。
ご飯を食べているのに食べたことを忘れるらしく、自分だけご飯をもらえていないと思って勝手にご飯を持ち出すようになった。おかげで、食べようと思ったら家族分の夕飯のご飯がない、という事態がよく発生したらしい。
パンやお菓子を買うために、勝手に自転車で出歩くようになった。元々祖父は病院なども勝手に自転車やバスを駆使して自分で行っていたので、習慣的に買い物や病院に行くクセが残っていたのだろう。
限界集落寸前のド田舎なので、もちろん歩道などない道だ。国道は長距離トラックがギュンギュンとばしている。
「おたくのじいさん、自転車でふらふらしてて危ないので何とかしろ」
と苦情の電話が来たりもしたらしい。
バスも、乗るのはともかく、降りるのには少しコツがいる。実家近辺を走るバスは、限界集落ゆえに「自由乗降区間」なるものがあり、区間料金を払って「あの場所で止めて欲しい」と指定して止めてもらう必要があるのだ。
バス停も徒歩圏内にあるにはあったが、そういうタクシーみたいな乗り方・降り方をするバスだったので、バス停で止まる人はあまりいない。
バス停の名前も「00線」みたいな非常にわかりづらいもので、要するに認知症の老人が乗り降りするのにはだいぶハードルが高いものだった。
それゆえ、祖父は認知症になってからよく、必ず停車するバス停である車で15分ほど先のコンビニまでドナドナされた。
コンビニで保護されて、「おたくのおじいちゃんここにいますんで」とお迎えコールがくるわけである。
歯がだんだん抜けていくし、入れ歯の管理が雑になるので、くちゃくちゃ音を立てながらご飯を食べる。耳が遠くなっていることを理解しないので、勝手にテレビのボリュームを上げる。
父はそれが嫌で(でも言ってもどうしようもないので)あからさまに不機嫌になる。
それを帰省の度に見て、私はもんやりした気持ちになる。
祖父は認知症になってから、時々風呂からあがるのを忘れるようになった。
気付いたら風呂の中でのぼせて真っ赤になっていることがあるので、兄が祖父の風呂時間を監視していた。祖父は大正生まれの割には大柄だったので、背が小さくて腰が悪い父や小柄な母ではのぼせた祖父をひっぱりあげるのは大変だったからである。
そんなこんなで家族をやや困惑させていたが、認知症になってからも祖父はだいぶ闊達として、自由に生きていた。
祖父は、認知症になっても若い頃に戻らなかった。
私はずっと祖父の孫のままだった。私が化粧っけがなくてあまり様子が変わらなかったから、というのももちろんあるのだろうが、祖父の中で恐らく、戻るべき時代が北海道に来てからだったのだろうと思う。
満州での入植に失敗して、故郷は原爆で焼かれていて、やっと得た安住の地が北海道だったから、そこよりも昔に戻りたくなかったのかもしれない。
シワ加工されているシャツを着て帰省したら「まともな服も着れないほど貧しい」と思ったらしく、無言で1万円を渡された時は少し笑ってしまった。
次の帰省のときに、祖父の好きな焼酎を買って帰った。
私が専門学校を卒業し、就職に失敗し、フリーターを転々として典型的ロスジェネコースを歩みつつも、本屋のバイトにちょっとしたやりがいを見つけたりしはじめたある年の夏、祖父が亡くなった。
62歳で正月早々家族全員に見送られてあわただしく亡くなった祖母とは対照的に、遠くの要介護老人専用の病院で静かに一人で亡くなった。89歳だった。
危篤になってから兄が先に車を飛ばしたそうだが、結局死に目には会えなかったそうだ。
ちょうど私が帰省する当日の朝で、私は地元に帰る前にまずは駅近くで喪服を買わなければならなかった。
祖母の葬式には正月明けだったにも関わらず親戚一同があつまったが、祖父の葬式には遠くに住んでいる娘夫婦(つまり私の叔母)はこなかった。
祖父は友人がいるように見えなかったのだが、意外にも建築会社で働いていた時の仲間や老人会の仲間などはそこそこいたらしい。父の人脈もあるのだろうが、人はそれなりに来たように思う。
とはいえ、89歳の大往生である。
誰も泣く人はいなかった。私も泣かなかった。
祖母の葬式の時は骨がこわくて拾えなかった私も、祖父の骨は特に怖いとも思わず淡々と拾った。
葬式の写真を、デジカメで撮った。
祖母の時はモノクロの写真だったのに、祖父の写真はカラーだったし自動で背景が切り替わるデジタル式だった。祖母はこうやって送ってほしかっただろうな。祖父は多分どうでもいいと思ってるな、これ。
平成が始まる少し前に祖母が死に、平成の半ばに祖父が死に。
そして平成が終わった今、私はもういい年のおばさんである。
両親の年齢は、祖母を追い越した。
いつ死んでもおかしくないといえばそうなのだが、何となく両親よりも私の方が寿命が短そうな気がする。
子供の時。
足もとで祖母が動かなくなるのを見ながら、人が死ぬのを見ながら、私はとても怯えていた。
こんなに賑やかで明るくて優しい人が、こんな風に死ぬのか、と思った。
それまで私はよくもわるくも他人というのがどうでも良くて、それでも祖母だけが私を全肯定してくれた。
私の世界に住んでいた住人は祖母だけで、祖母がいなくなってから急に私は「友達を作らないと」と焦るようになった。
自分の世界に誰もいないことに気が付いてしまった。
私の書く物語は、私の世界に誰もいなくなったことへのQ&Aから始まり、そしてずっとその答えは出ていない。ずっと誰もいない。友達もいる、家族もいる。それは私の世界の向こう側にいる。
死ぬ時は、どうやっても独りで死ぬのだ。
それを理解するまでに、私はずっと何かに追われている気持ちになった。
そして十数年経って、祖母とは対照的な祖父が、私が帰る日を分かっていたかのようなタイミングで亡くなった時に、何となく私は「一人で死ぬというのはこういうことか」と思った。
今でも私の中の祖父は、夕方に私が一人で本を読んでいる最中、茶の間に煙の雲を漂わせる人だ。
もっと話したかったとは思わない。私がいなくなった途端に認知症になってしまったので、やや責任を感じないでもなかったけれど。私は女で、やりたいことが明確で、だけど田舎に私のやりたいことは何一つなかった。どこかで私は実家を離れなければならなかった。
祖母が亡くなってから31年目。
祖父が亡くなってからは十何年目だろう。もう覚えてないや。
私は、今でも人が死ぬのはどういうことかとか、誰かと一緒に生きていくのはどういうことかとか、そういうことを考えて生きている。
そういう物語を書きながら生きている。
だけど、多分頭のどこかで「一人で死ねるようにならなければならない」とずっと思っている。
祖母が動かなくなっていくのを見つめていたあの時から、今でもずっと考えている。子供だから答えが出ないのかと思っていたけど、大人になっても別に答えは出ない。
ただ何となく、何も話さなかった祖父でさえ、夕方に私と一緒にいる習慣をずっと続けていたのだから、根本的に人は正気のまま独りでいつづけることなどできやしないのかもしれない、と思う。
結婚もしない、家族も遠くにいる私は、ほぼ間違いなく一人で死んでいくのだろう。
その時、私は独りであることを肯定できるのだろうか?
わからないけど、今この瞬間にも、私の寿命は1秒1分削れているのである。
迷うな、とりあえずやりたいことをやれ。
※追記
都会に来てから、北海道のド田舎出身だという話をすると「田舎いいな~」とか「田舎で余生を送りたい」という話をよくされるんですけど、私の祖母がどういう風に死んでいったかを見ればわかるとおり
「何もない田舎に住む」=「急病や大事故にあった際に助からない・見つけてもらえない」
というリスクについては、考えていただければと思います。
個人的には、病気の心配がある高齢者ほど町の近くに住んでいただきたいです。
目の前で人が死んでいくのを見ているしかできないのも、いざ死んでしまうという時に間に合わないのも、都会よりも田舎の方が多いので。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?