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アクセス上位記事リバイバルその②







皆様ごきげんよう。


世知辛い世の中です。


何がってセキュリティきつすぎて


何も出来やしない。


別に悪い事しよーって話じゃないですがあまりに息苦しくないかい?どこ歩いてても監視カメラで監視され、インターネットで何か書けば叩かれ晒される。国民の情報はマイナンバーで管理しようとしこれじゃ中国と変わらんぞクソFuxxin政府め。ま気にしなきゃいーんだけど。けどこの調子じゃそのうちロシアみたく街中で国家の悪口言っただけでその辺に張り込んでる国家警察に拘束されるんじゃなかろーか。なーにが自由民主主義だバカヤロウ俺らの自由はどこいった。



あーやだ息苦しくて窒息しそう。


とゆーわけで!今の世の中にカウンターを食らわすべく、今1度ここで昭和という時代にフォーカスしよう。そしてあの狂った愛すべき時代のあるあるを小出しに挙げて自由って何かを考えていこうなコーナー題して!




昭和 IS CRAZY



です。


いやすみませんモロ嘘ですそんな自由を考えるとか大義名分は全く無くただの思い出話です。あの頃は大丈夫だったけど今はダメになっちゃったなーって事や実際普通にあったエピソードなんかを書いてきます。それじゃいってみよ。











例えば僕が中学生の頃。20年以上前の話です。今と違いヤンキーがまだまだうじゃうじゃいた時代でした。ヤンキー全盛期とまではいきませんが、ヤンキーという人種が衰退してく1歩手前の時期とゆーか最後の燃えカス期とも言うか。
ただまだまだヤンキー=カッコいいという概念

があったため、誰でもヤンキーになればそこそこモテるという状況でした。のでまぁそら増えますわ次から次へとヤンキーが。
だってモテたいじゃん10代ってそんなもん。


がしかし学校的にはヤンキーダメ絶対なわけです規則とかあるし。見つけたらそりゃ注意もしなきゃいけない。がうじゃうじゃいるしキリがない。そこで当時先生方がよく取っていた対ヤンキー政策といえば


体・罰


ですね主に。これも今の世の中で軽々しく体罰!って言うとただの暴力だ傷害事件だのうるせーことになるんですが、当時は仕方ないのよだって言っても聞かないんだもん。てところでしょう。今大人になってみて振り返って考えてみると、これはもうほんとに仕方ないっす言うこと聞かなきゃぶん殴るでしょって話です。


ただ当時のヤンキーそこまで大人しくもないので先生方に殴られたら殴り返すとゆーことを平気でやってました。だからもうただの喧嘩です大人と子供の。普通に考えたら中学生が力で大人に勝てるわけがないんですが、中にはいるんですよ大人に勝っちゃう大人顔負けの体格を持ったヤンキーってのも。


いわゆる番長なんて呼ばれるような存在の奴です。


今もあるのかもわかりませんが僕の時代はまだギリいました絶滅危惧種番長押忍。当時の学生にはスクールカーストがありまして、バスケ部サッカー部の陽キャがモテる仕組みと同じくヤンキー界隈にはヤンキー界隈なりのカースト制度がありました。


頂点に君臨するのはもちろん番長、でその直下または横並びに仲のいいお友達幹部のような奴らがいて、さらにその幹部の各下に軍団員みたく下級生ヤンキーが枝分かれ群れに群れるという構図になってましたまるでマルチa.k.aネズミ講。


だから中1のペーペーヤンキーからすれば番長はまさにその学校(国)の絶対的な王です。


国(学校)では王には絶対服従のシステムですから、いずれ自分らも王になるんだ!王族になるんだ!見てろ母ちゃん!と夢見てせっせと徳を積むわけです。


ヤンキー界においての徳を積むとは。この方法はいたって簡単♪喧嘩ですなんか違う気も。ヤンキーは街に出ては日々喧嘩で成果を上げ徳を積み、認められれば晴れて王族本軍入りを果たします。




ただこのヤンキーカースト制度も学校によって色々違います。厳しいところもあれば緩いところもある。中には先輩(王族)に対してタメ語で話して許されるなんてフランクな学校もあったので、当然僕らはそんな学校の噂を聞くなり教育という名(嫉妬心)のもとに躊躇なく攻め込みます。僕が行ってた中学校も先輩が視界に入った時点で聞こえるように挨拶しないと即ぶっ飛ばされるなかなかハードな学校ではありましたが、近所の更にベリーハードな某有名中学ではヤンキーになるための



試験



というものがありまして。この試験に受からないとこの学校ではヤンキーにはなれない。もうリアル『魁!!男塾』ばりの話です。



この学校で決まっていた試験は、ヤンキー志願者が上級生にヤンキーになりたいです!とまず申告。その後ヤンキー志願者達は呼び出され、放課後の廊下に並ぶおびただしい数のヤンキー先輩が両サイドに並ぶ中を潜り抜けるというものでした。廊下の1番奥までたどり着けば、無事軍団の仲間入り、なんですが当然普通に通り抜けれるわけはありません。


この両サイドにヤンキー先輩たちが並ぶ廊下を歩いていく最中、容赦ない暴力の嵐が降り注ぎます要はボっコボコ



にされ続けながら1番奥まで行けるかどうかってことです。



もはや男塾と言うより木人拳の世界観です。


当然こんな華麗な功夫ヤンキーなんかいるはずもなく、この試験では大怪我失神入院なんて当たり前。


無事試験をクリアできるのは何十人もいる志願者の中で10人前後と聞きました。いやそもそもそんなに志願者がいる自体がアタオカですが、10人もクリア出来てたってのもまたアタオカ。なのでこの学校は確かに同地域の中でもヤンキーの数が特に多いわけでもないのに群を抜いて戦闘力が高く、僕なんかは入学して早々先輩に呼び出され、あの学校には絶対に近づくなと言われました。


なぜ近づくなって戦闘力が高いのも勿論ですが、なにしろこの学校には中学生にして暴〇団の構成員がいたというトンデモリアルアタオカな学校でもあったわけです。僕が実際に体験したこのアタオカ学校の逸話の1つとしては、中学の卒業旅行で京都に行った時、派手な恰好をしてた僕らが地元のヤンキーに絡まれまして、相手に横浜から来たと伝えると『え!?横浜?〇〇〇〇中学って知ってる?』と聞かれ『あーあのアタオカ学校隣だから知ってるよ』と答えるとすぐさま逃げ出すという、あのアタオカ中学マジで全国制覇しようとしてたんじゃないか説なエピソードも。


なんでもその数年前に同区域の学校は卒業旅行も当然同じく京都に行くわけですが、その学校が京都行った時に地元のヤンキー相手に新聞に載るような暴力事件を起こし、地元のヤンキーが震え上がるという事があったそうです。以後当時の京都の一部地域ではその学校に関わる学生はフリーパスになったらしいなんじゃそりゃ漫画かよ都市伝説かよ。


その後、このアタオカ学校出身の奴らは暴走族を結成、そのずば抜けた戦闘力で東京にも進出、他県にまで凶悪さを見せつける事件を数々起こして更にそのアタオカ伝説をパワーアップさせていったのでした。今じゃ考えられない、とゆーか今もあるんだろうかあんな学校。


まぁここまで書いたんで暴露すると、このアタオカ中学は当時通称『十中』と呼ばれてました。横浜、十中と叩けばたぶん出て来るんじゃないかな。とこんなCRAZYが当たり前に横行してた愛すべき昭和。懐かしいと思いながら呼んでくれてる人もいるでしょうし、昭和を知らない世代からすると嘘つくな!んなわけねーだろ!とか思うかもしれません、がマジです。まぁまた今度他のエピソードもこのシリーズで書いていけたらと思いますので以上。


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