僕の付喪神が朝まで寝かせてくれない件について。
付喪神(つくもがみ)、というのだろうか。もしくは茶碗の精か。いずれにしても、茶碗をこすったら出てきたのだから、それに付随する何かだろう。
ドライアイスを炊いたような白い煙とともに登場した男は、着流した黒い着物の裾を両手でパッと払い、長い髪をかき上げてこう言った。
「そなたの願いを叶えて進ぜよう」
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僕の名前は田代健太。入社して4年目の26歳。新聞社の販売部に所属し、地方の新聞販売店を回り、困りごとを聞いたりする仕事をしている。一人で電車を乗り継ぎ、地方の販売店を巡ることも少なくない。仕事のあとはさびれた宿で眠る。温泉だったらラッキー。名物を食べるのが楽しみ。今日も、そんなありふれた出張のはずだった。宿のエレベーター横でホコリをかぶった茶碗を見つけるまでは。
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僕の趣味は、食器集めだ。家の玄関にはお気に入りのカップを飾っている。だからなおのこと、放置された茶碗が可哀そうに見えたのだ。
ハンカチを取り出し、茶碗のホコリを払う。黒い釉薬が光り、美しい姿。強く磨くとキュッキュッと音がした。
その時だった。
ポンっという音ともに茶碗が消え、代わりに“付喪神”が現れたのは。
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「ねっ、ねっ、願いって言われても!」
冷静沈着との呼び声の高い僕だが、突如現れた謎の存在を目の前に、腰を抜かした。だ、だれだ、こいつは!
「しかしな、一つ条件があるのだ」
付喪神はそんな僕を尻目に悠々とソファに腰かけ、申し訳なさそうに話を続ける。
「しかも、かなり急ぐ頼みごとなのだ。そなた、引き受けられるか」
「い、いま急に現れた他人の頼みなんて、ひ、引き受けられません!!」
僕がどもりながらそう叫ぶと、付喪神の目にみるみる涙がたまった。切れ長の目尻から雫がこぼれる。
「百年目のこの日、そなたに会えたのは導きかと、思ったのだが…」
スラっと身長が高い男だ。色白だがたくましい。そんな付喪神が号泣する様子を見て、僕は思わず言った。
「な、泣かないで。理由を聞けば、やらないわけでも、ありません」
そう言ったか言わずか、付喪神は僕の両手を握り、身を乗り出し、
「やってくれるか!!」
すでに涙は止まっている。
うんうん、とうなづきながらも、僕は心の中で唇をかんだ。
(これは、してやられたな…)
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付喪神の話は、まさに神話だった。
付喪神はもともと下っ端の神さまだったが、上司の神さまの娘を好きになってしまった。二人は相思相愛に。しかし逢引きしているところを上司の神さまに見つかり、引き離される。付喪神は茶碗に変えられてここに。娘は泉に変えられ山向こうへ。
「ただ、我の上司も鬼ではない。百年の間に再度まみえれば、元の姿に戻してやると言った」
「…それで、今日がその百年目」
「明日の夜明けまでに、我の茶碗で泉の水を汲めば良い」
「で、泉の場所はどこなんですか…」
不吉な予感とともにそう聞くと、付喪神は温泉で有名な地名を言った。知っている。知っているが、そこはここからゆうに100km離れている。さらに残念なことに今日はクルマで来ていない。
(無理と言ったら、また泣きそうだ)
まだ少し赤い付喪神の目の端を眺めながら考える。宿にある移動手段といえば…
「あ、あれならギリいけるかも」
そう呟いた僕を、付喪神が期待をこめた眼差しで見上げた。
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ということで、僕は茶碗にもどった付喪神を宿のタオルで包み、ママチャリにまたがっている。実は僕は、自転車も趣味のひとつ。ツール・ド・東北でも100km走る。とはいえ、今日の相棒はママチャリだ。夜明けまで7時間。平地で稼がなければ。
2時間ほど走っただろうか。山道に入った。息が上がってきた僕を見て、付喪神が心配そうな声で話しかけてきた。(もっとも、僕には茶碗が喋っているように見える)
「そなた、大丈夫か」
「大丈夫ではありませんね。なんでこんなことをやっているのか、わからなくなってきました」
「夜道は暗いな」
「正直怖いので、何かおもしろい話でもしてください」
「そうだな。では、我とあの娘の恋のエピソードなどを…」
「聞きたくありませんね」
僕は学生のころから付き合っている彼女がいる。遠距離恋愛だ。付き合い始めたころのときめきはないが、恋と聞けば、彼女のことを思い出す。
「でもなんでよりによって、上司の娘を好きになっちゃったんですか」
そう聞くと、付喪神は黙った。
暗い林の木擦れの音。タイヤと地面が擦れ合い、シャーと音を立てる。
「…好きなものは、しょうがない」
「しょうがない」
「並みに出世欲もあった。まずいという気持ちもあった。だが、会えば触れたくなる。まあ、別れる辛さが常識に勝ったのだ」
「そんなもんですか」
「ああ。そう考えれば、出会った当初から、こういう結末になるのは決まっていたのかもしれない」
最初から決まっている結末。
僕は今、どんな結末に向かっているのだろうか。このご時世だが、希望の会社に就職した。ほんとうは営業部希望だったが、今は読者と直接やりとりできる販売部の仕事にやりがいを感じている。趣味を持つ余裕もあって、遠くに付き合っている人もいて、独身生活を謳歌している。
(願いを叶えると言ってたな)
お金?コレクション?どれも、自分の手でつかめるもののような気もする。目標に向かって努力する毎日に、自分は満足しているのかもしれない。
そんな僕の心を見透かしたように、付喪神はつぶやいた、
「願いを一つ、考えておけよ」
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その後、道を間違ったり、警察に止められたり、熊に出会ったりしたが、結論から言うと僕たちは間に合った。
山際がほんのり赤く染まった夜明け前、僕は黒い茶碗で、少し温かな泉の水を汲み上げることができたのだ。
今、僕は、痛む足と尻をさすりながら、朝焼けの空をバックに繰り広げられる、上司の娘(以下泉さん)と付喪神のラブシーンを見ている。
頬を上気させ、熱っぽい目で泉さんを見る付喪神。潤んだ目で見上げる泉さん。何かを確かめるように唇を合わせたり、ほおずりしたり。
神さまのラブシーンなど、生涯見る機会もないだろう。遠慮なく観察させてもらう。
付喪神の手が泉さんの着物の中に入りそうになったところで、泉さんが僕の視線を恥じらい、付喪神はハッとした顔でこっちを見た。コホンと咳払いをし、付喪神は泉さんの肩を抱いて僕に向き合った。
「感謝しておる。そなた、見た目より頼れるな」
「失礼ですね」
「最初に見たときは、こんな元気がない男で大丈夫かと思ったが」
「元気は生まれつきないんです」
「あの山道を越えるのは、さぞ苦しいことだったろうと思う」
「実際そうでしたね」
「ほんとうに、ありがとう存じます」
泉さんが涼やかな声でそう言った。付喪神は、愛しむように泉さんの声に耳を傾ける。またうっとりし始めた付喪神に少しイラっとして、僕は咳払いをした。
付喪神がハッとした様子で取り繕う。
「では、そなたの願いを一つ聞こう」
「お礼に、どんな願いも叶えて進ぜます」
二人の神さまが僕を見る。
穏やかな笑顔。幸せそうだな。これが、付喪神と泉さんの結末か。
「願いはありません。僕には僕の結末がありますので」
僕がそう言うと、付喪神と泉さんは、眉を上げて顔を見合わせた。
「どうぞ、お幸せになってください。あ、でも、しいて言えば、自転車と一緒に宿に戻してください。あの山道をもう一度走るのは、辛いので」
付喪神の切れ長な目が真ん丸になり、それから大きな笑い声をあげた。泉さんも、くすくす笑う。
山の上から姿を見せた太陽が、新しい門出を祝福するかのように、僕ら3人を橙色に照らした。
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