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逃げ場としての闇雲な練習

現在書いている中編小説が行き詰ってしまった。そういうことは過去にも何度かあって、その度に自分の文才や文体を見限るような、卑しい気持ちになる。別に小説に関して私は、結果を出したこともなければ評価を受けたこともないので、スランプとすら呼べない状態なのだが、書き進めれば進めるほど「こんな稚拙な文章を誰が読むのだろう」という思いが強く芽生えてきて小説から目を背けたくなる。

文体の獲得には時間がかかる、これは事実だと思う。文体というのは、例えば野球選手のバッティングフォームや演奏家の運指と同じだ。努力を重ねることによって、それが自分の体に馴染み、自然に振る舞えるようになる。何事においても、意識せずにできるようになったら一人前、みたいな考え方はよく耳にする。この考え方は執筆における文体にも適用できると私は思っていて、そのため文体の統一を意識しながら書いたり、逆に無意識に文体が散らかったりしていると、改めて未熟さを実感する。

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私は高校時代、バスケ部に入部した。中学時代は何もスポーツをしていなかったので、高校では珍しい初心者からのスタートだった。周囲からひどく遅れをとっていた私は、先輩からのアドバイスで自分のシュートフォームをスマホで撮影して、見直しながら練習した。その時私は、自分の体の動きはイメージと恥ずかしいくらいにずれていることを知った。そしてそのずれを埋めることで私はメキメキ成長し、二年生の後半にはキャプテンに選ばれるほどに実力をつけた。ちなみに、この話は就職活動で面白いほど好まれた。ビジネスで必要なPDCAのマインドと、構図が同じなのだ。

そういう点で言えば、文体というのは練習しやすい。アウトプットが常に可視化されるので、一人でトライアンドエラーを繰り返せるからだ。バスケでも動画を撮ればもちろん可視化できるが、練習と試合をすべて録画してレビューするのは現実的ではない。私は自分が書いた文章を何度も繰り返し点検しては、改善点を探している。しかしなおのこと、自分の未熟さに気付き落ち込みやすいのも事実である。

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褒められて伸びるタイプという言葉があるが、あれは嘘だ。成長するためには第三者から改善点をとことん指摘された方がいい。褒められて伸びるタイプとは、褒められなくてはモチベーションが維持できない性格のことだ。

私の現在の職場には、同部署に一人だけ後輩がいる。この後輩はタスク管理能力に長け新人とは思えない速度で仕事ができるのだが、TOEICの点数が会社の基準値に届いていないという改善点がある。英語に関しては部署内で私が一番明るいのでよくコミュニケーションをとるのだが、勉強はしているという割に一向に向上が見られなかった。その割に自分はこれだけ勉強を頑張っていると、無意味なアピールが多いのだ。

闇雲な練習は努力ではない。成長するための最善策を考えないという点で、一番の怠惰だ。私はそのようなことを思い腹が立ったが、もちろんそういった強い言葉はこのご時世には言えないので、「勉強しても点数が上がらないってことは点数を上げられる勉強ができていないってことだから、現状の勉強方法を改めて整理して、今後の勉強方法を練り直してごらん」といったニュアンスのアドバイスをした。その後輩の英語力がどれだけ向上しているかはまだ不明だが、お前は仕事が早いよな! と褒めたところで英語ができるようになるとは私には思えない。

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例えばギタリストに対して、早弾きが得意だよな! と褒めたとする。そのギタリストは嬉しくなり、早弾きをいろんな人に披露する。そうしていくうちにそのギタリストの早弾きテクニックはどんどん磨かれて、いつしか早弾きの世界チャンピオンになる。これは素晴らしいことだと思う。

つまり、私は人を褒めるなとか、自分のダメな部分を見つけてそれを潰しジェネラリストを目指すべきだとか、そういうことを言いたいわけではない。イメージの問題だ。自分が成長し、成功するストーリを明確に描けていることが大事だと思うし、逆にそのストーリーがどんなものであれ根拠と実現可能性が伴っていればいいと思っている。

私はたまに、小説を書くことに疲れるとnoteに逃げ込む。noteであれば文体の練習をしているつもりになれるので、小説から完全に逃げたわけではないと自分を錯覚させることができる。しかし、そこには完璧なストーリーはない。noteにかけるエッセイや短編小説と、私が完成させたい中編小説では、必要な文体が異なっているからだ。

今書いている小説は、私が今まで書いたものと比べても飛び抜けて面白い、と思っていたのだが中盤まで来て久しぶりに一から読み返してみると、文体が統一できておらず、ひどく感情移入しづらい文章になっていた。当たり前だがそういったばらつきは文章が長くなればなるほど多く、大きくなる。ものづくりと同じだ。そのばらつきを極力抑えるためにも、実態を確認した上での練習が必要だ。

一方で私が危惧しているのは、ビジネスとアートでは同じ考え方ができない可能性だ。確かに、たまに感情が高ぶってタイピングが追いつかなくなるくらいの速度で執筆できる時があるのだが、そうやって急いで書いた小説ほど、実は文体が整っていたりする。ビジネス文章ではそれはありえない。長考するほどレヴェルが上がる。そういう細かな違いは多分幾つでもあるのだろうが、たとえ闇雲であろうと、練習が万物において成長するための共通した方法であることは間違いないだろう。

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