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古文・漢文はいらないと言う人たち

ここ数日、大学入試共通テストの影響か、(毎年お馴染み)教育科目の要・不要論がTwitterを賑わせている。

(なお中国では幼少から古典の暗唱をする。内田氏は中国クラスタにボコボコに叩かれている。)

私は基本的に「安易に古典を教育から省くべきではない」と考えている。たとえそれがセンター試験当日の時点において、古文の文法知識が「き・けり過去詠嘆、まし反実仮想」しかなかったとしても、だ。(というか、それは2018年1月の私だ。)

古文・漢文を教育科目に課す必要はないという人たちの意見は非常に明確で、彼らは「その道に進まない限り古文・漢文など実生活で使うことはないのだから試験にも必要ない」と述べることが多い。私の知る範囲ではコンサル関係者だったり投資アカだったり、または「プロフ画像が線の細い似顔絵」だったり、得てしてビジネスパーソンである。きっとホリエモンやバフェット大好きな人達だ。
直接書くと反感を得るので書かれてはいないが、恐らく彼らの本音は「カネにならない学問なんて道楽」なのだろうと推察する。

たしかに資本主義社会において「カネは正義」なのだろう。天才中高生が学校の資金を運用する投資漫画「インベスターZ」でもそのような描写があった。世の中カネが全てではないが、カネがないと出来ないことだらけというのはポル・ポトでもない限り否定できないだろう。

しかしそれは古文・漢文を学ばない理由になるのだろうか?

この動画に出てくる徳川宗家第16代目家達公は堂々たる英文スピーチで、孔子の「朋あり遠方より来たる、また楽しからずや」を引用している。現代でもわかり易い例を挙げると、中国首脳は古典を引用することが多く、習近平もその例に漏れない。
資本主義社会の上位層たらんとするビジネスパーソンが古典を知らないのは無教養ではないだろうか。

また、「教育から無くせとは言っていない、試験がいらないだけだ」という人もいるが、日本の中等教育で試験に出ないことを教える余裕がどれだけあるだろうか。中高一貫校でもなければ、大学受験時に理系数学や文系地歴が最後まで終わっていないことなど常である。試験科目から無くせば、履修した「ことにして」別科目を割り当てることなど容易に予想できる。
2006年には受験のために必修科目を生徒に履修させなかった「未履修問題」があったくらいだ。

そのうえ、日本の歴史に触れようとするならば文語的表現は避けては通れない。明治くらいまでの文書は漢文調だったりするし、戦後のそこら辺の看板でも文語的表現を用いているものなどいくらでもある。

そもそも「役に立たない科目」というもの自体人それぞれだ。読書する人なら古典は避けて通れないだろう。意識して三角関数や三次方程式なんか使わない人なんかごまんといる。正弦波や定常波が分かったところで使わない人もいれば、マケドニア王国が分裂したのを学んでもほとんどの人は忘れる。運動ができない人間としては鉄棒や跳び箱が何の役に立つと問いたくなる。

立身のための勉強は皆強制されなくてもする。大工が「ピタゴラスの定理」を知らなくとも3・4・5で直角三角形になることを知っているように。それならば義務教育の中学校や職業教育メインではない普通科高校くらい、様々な科目に触れられるようにするのが学校のあるべき姿ではないだろうか。

書くことが思い浮かばなかったのでここで終わりとする。気が向いたら更新するかもしれない。


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