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僕と感傷マゾ

僕は「言の葉の庭」の再生ボタンを押せない。

以前、劇場で「天気の子」を見た。Prime Videoで「秒速5センチメートル(以下、秒速)」を見た。そして今年の夏になって、今更「君の名は。」を見た。高校1年だったか2年だったか、その頃に空前の大ヒット作でクラス中が話していた中、見ていない側だった自分にコンプレックスを抱いていたのだが、結論から言うと失敗した。「秒速」で今までに経験したことのない、名前を知らない苦しさに囚われた。「監督が同じでも、別の作品を見た後に同じ感情になるはずがない」だなんて高をくくっていたのに、「秒速」ほどではないが、またあの感情に襲われた。

そして僕は、その感情を何と呼ぶのか、言語化することができなかった。

今夜もいつもと同じように、何の実にもならないと「理解」していながらTwitterを延々と眺めていると、こんなツイートが目に止まった。

自分がまさにこのツイートのとおりであり、これを契機に数十分関連ツイートを眺め、大阪大学感傷マゾ研究会(@kansyomazo) さんのアカウントに行き着いた。

僕の言語化できない思いの多くが、綺麗な言の葉となっていた。

自分の過去において存在し得なかった商業作品のような日々を、僕はいつも追い求めていた。結果として苦しささえ感じていたが、それも含めて受け止めるものと思っていた。

大阪大学感傷マゾ研究会さんによる感傷マゾの定義は以下である。

感傷マゾとは、
存在しなかった青春への祈りです。
青春もののアニメや漫画を過剰摂取した結果、夏休みは田舎の祖母の家で一ヶ月過ごして隣の家に住む麦わら帽子黒髪ロングの白ワンピース少女と仲良くなるとか、浴衣姿の女の子と夏祭りや花火大会に行くとか感傷的な気分に浸れるノスタルジックな青春のイメージが頭の中に固まってしまう。
そんなアニメみたいな青春は自分にはない。エアコンで室温が28℃に保たれた自室の床に寝転がって、スマホで Twitter や YouTube を見ていたら何の思い出も作れずに終わっていた現実の自分の青春はすごく惨めで、自己嫌悪してしまう。
いつの間にか、その自己嫌悪自体がむしろ気持ちよくなってしまい、感傷と自己嫌悪をゾンビのように求め続ける性癖が、感傷マゾです。

ということらしい。

小・中・高・大とずっと共学の公立学校にいながら、人間関係を構築する能力に著しく劣っていた僕は、自分がそうなれるはずもないのにフィクションのような青春を追い続けていた。昔から友だちと遊ぶより読書していたのも影響しているかもしれない。中学の時は有川浩『キケン』を2桁レベルで読み、高校時代も米澤穂信の古典部シリーズを何度も読んだ。自分には送れないだろう青春を、フィクションの中に追い求めていた。

話を戻そう。とにかく僕は新海誠作品を、その度に瀕死級のダメージを食らいながら見ていた。「秒速」では主題歌の「One more time, One more chance(山崎まさよし)」が流れるようなラストで、感極まり涙を流した。普段感動の涙を流すことは殆どないのだが。

ただ、批評の類を作品に対して出来るほど僕の頭は賢くない。それ故に、人気作であり感傷マゾ界隈でも評価されている「言の葉の庭」を、考えなしに視聴してストレートにダメージを受けることに対して軽い恐怖を感じているのだ。

'99年生まれ、学生生活も半年も残っていない僕が、この感傷マゾという厄介な性癖を堂々と抱えていられる時間はきっとそんなに長くない。この社会に生き、成人としてのノブレス・オブリージュを求められるからには、どこかできっとケリを付けないといけないのだ。

閲覧数もそれほど多くないであろう僕のnoteの駄文にもし共感してくださる方がいらっしゃれば、書き手としては幸いである。

最後に、大阪大学感傷マゾ研究会さんは同人誌も発行されている。同好の士は入手してもよいだろう。

青春ヘラ ver.1 「ぼくらの感傷マゾ」- kansyomazo - BOOTH 


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