「恋愛」音川太一の家族と恋⑤「小説」
「お酒は人を変えるもの」
由香里さんの顔がめずらしく、渋そうにしている。
由香里さんがやって来て一ヶ月が経とうとしている頃、オーナーが店にやって来た。
由香里さんにはだいたい教えることが出来たと言っていたオーナーが来るのは久しぶりだ。
その顔を見ると、なんでこの人の元で働けたのだろうという謎の疑問が湧いてくる。
それを吉永も感じているらしく、オーナーを見ては頭を何度も傾げていた。
由香里さんは優秀な仕事ぶりで、店は以前より忙しくなっていた。しかし従業員のことを考えてくれる由香里さんのおかげだろう、誰も店を辞めず、せっせと働いている。
由香里さんが顔を渋そうにしているのは、オーナーの一言だった。
「飲みに、ですか……」
「そうそう、もう俺、行くし、その前にゆっくり一度話さない?」
「私、ちょっとお酒は駄目なんです……あまり楽しめないと思いますよ」
「あははは、由香里さんにもそんな弱点があるんだね。大丈夫大丈夫、ちゃんとそこは分かってるよ」
「でも……」
由香里さんは完全にノリが悪い。お酒を飲めないことで、相手を不快にさせたくないのだろう。
今まで、町内や商工会の飲みの誘いにも、お酒が飲めないことを重々承知させて、参加しているくらいだった。
「嫌そうだなぁ……由香里さん」
吉永はぼやく。
「そうだなぁ……」
俺が頷くと、吉永はよっしゃと言い出した。
「ここは俺の見せ所」
なんだ、その瞳に星を瞬かせたような決め顔は。
俺が少しあきれかえっていると、吉永はオーナーに突進するように向かっていった。
「オーナー。そんなに酒を飲みたいのなら皆で飲めばいいじゃないですか」
「は?」
それに由香里さんは目を丸くして、手を合わせる。
「そうです! その方がオーナーも気を遣わなくてもいいし、いいアイデアだと思います」
「ええっ」
「皆で飲みましょ。閉店後の店でやれば、お金も浮くし!」
なぁ! そうだろ……! と言わんばかりに吉永は俺を見る。
何だよ、その顔と思いつつ、吉永の動きにつられて。
「い、いいんじゃないんですか……?」と、言ってしまっていた。
「よっしゃぁああ。じゃあ、飲みだー!!」
「うっさいぞ! お前!!」
天真爛漫な吉永の大声。
それは店中に響き、店の常連のおじいさんが、眼鏡を外しながら怒鳴った。
飲み会かぁ……お金が削れる……俺はため息をついた。
貯蓄をかなりしているのだが、それでもお金が減るのは好きじゃない。
毎月よせているお金が万が一でも減ってしまったら嫌だなと思った。
由香里さんと休憩がかぶった。
由香里さんは湯気立つカップを持っていて、息をついている。
休憩の時に食べるパンを持って、休憩室に入ると、由香里さんが声をかけてくれた。
「あ、音川君も休憩か」
「はい、由香里さんもですか?」
「ちょっと、次のシフトを考えながらね。もうちょっと余裕があるなら人を探したいけど」
「あー、そうなんですか」
「うん、そうなの」
由香里さんはカップのお茶を飲む。その楚々とした仕草に、俺はなんだか目にしているだけで、気恥ずかしくなり、パンを食べ始めた。
由香里さんは何かを思い出したかのように、指を立てた。
「あ、聞いたよ。音川君。おすすめしてくれた曲」
「え」
俺はぎょっとしながら由香里さんを見た。
由香里さんとはたまに話しているのだが、その時たまたま眠気を晴らす曲は何かと訪ねられた。
俺は自分の聴いている曲を紹介したのだが、まさか本当に聞いていると思わなかったのだ。
「結構激しいわねぇ、でも和風な曲は好きだから、眠気が晴れちゃった」
「それは良かったです」
「ふふ、そういえば私の話した曲は聴いた?」
「あ、え、はい!」
由香里さんの言葉の調子に完全に踊らされている。
しかし俺も俺で由香里さんの聞いているという曲を教えてもらって、何度も聞いていた。
切ない、女性の曲だった。しとやかなピアノの音とともに、別れの後悔と、幸せな頃の記憶が語られる曲だった。
由香里さんって、結構締めっぽいのが好きなのだなと思った。
「いい、曲だと思います。ちょっと意外というか」
「あら、そう?」
「はい……意外と湿っぽくて。あ、ああ、いい意味でですよ!」
由香里さんは自分のあごに手をかける。
「私、湿っぽいのよ。かなり」
「そうなんですか?」
「そうよ。そういう時、飲むお酒は気持ちいいのよねぇ」
「え」
「あ」
「お酒、飲めるんですか……?」
俺は恐る恐る聞いた。
由香里さんはさすがに顔をしかめて、自分の失言を悔いているようだが、すぐに表情を取り直した。
「飲めるわよ。一応は」
「だけど、いつも……」
「飲んだときの癖が悪いの。だから外では飲まないの」
「へぇ……」
めっちゃ、面白い。
俺は思わず笑ってしまっていた。
由香里さんとは話しているが、由香里さんは深く話を聞こうとすると、さっと身を翻すように話の筋をずらしてしまう。今の今まで手を伸ばすように話していても、その体はつかめなかったのだ。
しかし今の不意打ちの一言で、距離がぐいっと近づいた気がした。それが、なんだか嬉しかった。
「ねぇ、本当……可愛いよねぇー」
だがしかし、何故にこうなった。
周りの視線、呆気とられたオーナー、目を見開く吉永、俺の定まらない視線。
ここは店内だ、閉店後の喫茶店である。
俺は皆と一緒に酒を飲んで、話していただけだ。
何もしていない。断じて何にもしていない。むしろ隕石が頭上に振ってくるように、それは来たのだ。
酔っ払った由香里さんが。
ことの発端は、吉永だった。
甘いカクテルが好きな吉永は、自分用にカクテルを作って、そのままテーブルに放置していた。
それを隣に座っていた由香里さんが酒だと気づかずに、飲んでしまったのだ。
リキュールは甘くて、アルコールの印象を感じさせない。だけどアルコールとしては牙をむいたかのように高い。
由香里さんは、ころりと酔っ払ってしまった。
そして急に立ち上がり、俺の隣に座ると、俺の首に腕を回して、豊満な胸を押しつけながら声を上げたのだ。
「はぁー、可愛ぃい!」
頭をすりすりと頬なでされて、頭をなで回される。
「え、ぇえ!」
俺は逃れようとするが、由香里さんは信じられないほどの力で抱きしめてくる。
「もう、なんで逃げちゃうの。お姉ちゃんなんだよぉ」
いや、由香里さんを姉だと思ったことはない。
「何をおっしゃって」
「はぁあ、お姉ちゃんが守ってあげるからねぇー!」
やばい、胸がめっちゃ、柔らかい。ふにっと、ふにっとしている……!
「吉永ー?!」
勢いよく椅子が転がる音がする。同時のオーナーの声。
どうも吉永がひっくり返るようにぶっ倒れたようだ。
だけど、俺もどうにも出来ない。由香里さんから感じる、柔らかさや甘い匂いや、温かさに頭がクラクラする。
「ゆ、由香里、さん……?」
俺はどもりながら、由香里さんの顔をちらりと見た。
ひゅっと、息をのんだ。
「お姉ちゃんは、あなたの味方になるからね……」
由香里さんは、目を潤ませていた。
涙が一粒だけ、頬に落ちる。
俺は、呆然と見つめることしか出来なかった。
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