じごくをみせて

 私の家の近くにそれなりに賑わっている居酒屋があった。テーブル席やカウンターの他に個室もあって、昼間には親子連れが使うこともあった。
 私は大学時代の後輩や気心の知れた友達とそこでしばしば飲むことがあった。
 馬鹿みたいに飲んだこともあったし、酒の味がほとんど分からなくなるほどに心の底から冷えた恋の話をしたこともあった。
 二十九歳になっても飲んで飲んで、ブラを外してしまうほどの失敗をしても、大丈夫な仲間を見つけられたことは奇跡だと思う。
 四人の内の三人が、奇跡的に男の縁が薄かったのも原因なのかもしれない。

 まぁ。今日も私たちは楽しく飲む約束をしていた。

 ビールは私たちのガソリンだーと声を張り上げたのは、のんちゃんだった。のんちゃんはアルバイト先でいつもとろとろと働いてしまい、騒動を起こしてクビにされてしまう天才だ。
 だから彼女がこんな風に意気揚々と飲みだすということは、彼女の中で何かがたまっていて、いつ噴火するかわからないのだ。だから彼女は意気揚々と飲んで自分の中の何かを少しでも酔いで黙らせようとするのだ。
 私は彼女のそんな一時的で無為にすら感じる自分の黙らせ方が好ましかった。いつも恥ずかしがって、自分のことになると思考が止まる彼女が好ましかった。きっと、そう、ふとした時。のんちゃんのことを考えてしまうのは、きっと……のんちゃんに不適切な感情を覚えてしまっているからだろう。
 のんちゃんは鮮烈に赤い紅葉だ。一度見てしまったら見離せないのに、彼女は風を恋人にしているから、あっという間に私の視界から消えてしまう。
のんちゃんはそれはそれはもう大事にしている恋人がいて、またそれに応えるよう、のんちゃんのことを大事にしている恋人がいた。
 のんちゃんは大ジョッキでビールを飲み干した。
「いい飲みっぷりだー。のんちゃん、次ウイスキー飲もう」
 みぃちゃんは、げらげらと笑った。みぃちゃんは笑い上戸でいつもげらげら笑っている。笑いながら、昔彼氏に傷つけられた腕を振り上げる。皮膚が引き攣り突っ張ってお世辞に綺麗とは言えない肌を、家族と私たち以外に見せない。
 皆色々ある。あって当然の歳になっている。
 たばこを粛々と楓ちゃんが吸い始めた。ほんのり甘い花の香りがする。楓ちゃんは人の話をよく聞いている。よく黙っている。私たちより五歳も年下だというのに、私たちより腹がすわっている気がする。でも、私はあまりこの子のことが分からない。表情があまりなくて、何を考えているか分からない。でもたばこを咥える唇がきれいでぷっくりとしている。そこがやたら目を惹く。
「二人ともあんまり飛ばしすぎないでよ。そんなに若くないんだからね」
「あんただって、若くないでしょうに。憂さの晴らし方を、酒以外で見つけたの?」
 みぃちゃんが意地悪を言った。
「ないわよ、そんなの。でもさぁ実際酒が残ってしょうがないのよ。最近。年、かもと思う」
 人生八十年だとしたら、私の年で体の衰えを感じるなんて若すぎるかもしれない。それでも二十代初頭の時のように徹夜で酒はもう飲めない。
「私も、もうこれから。あんまり飲めないかもしれない」
 のんちゃんの言葉にみぃちゃんが耳をピクピクと器用に動かした。
「え、ウイスキー頼んじゃったわよ」
「いやウイスキーは飲むんだけど。これから先の話よ。そう、いつまでも飲めないかもって最近思って」
「のんちゃん、それどういう意味?」
 私は胸の底が不快になって、顔を上げた。
 のんちゃんは私とみいちゃんに見つめられて、それほどに酔っていないのにも関わらず、耳の裏側まで真っ赤になった。
「えぇと」
「うーんと」
 言葉が頭の中からすっぽり抜けたのか、のんちゃんは困ってしまった。私はその普段は愛らしいと感じていることが、今日に限ってはムカムカとした。消化不良を起こした時のようだった。
 そこに冷酒を飲みだしていた楓ちゃんが言った。
「結婚でも、されるんじゃないですか? 望美先輩」
 ひゃっとのんちゃんは背筋を伸ばした。
「なんで分かるの!」
ぱんと、感情の爆弾が一つ落ちた。
 一瞬みいちゃんは人を殺しそうな目をしていた。きっと許せなかったのだろう。みいちゃんは男に傷物にされ男が大嫌いだけど、私みたいに女の子に惹かれたりもしない。自分を幸せにしたいと思いつつも、誰かに頼りたい。でもそれは女でなくて、男でもない。第三の性が必要なんじゃないかと思うような難しい話だった。だから友達が、結婚するなんて、嬉しくて喜ばしくて、何よりも憎らしいのだろう。みぃちゃんの一瞬の殺意を私は胸の中にそっとしまいこんだ。
 のんちゃんはきょとんとしていた。自分に向けられた感情の意味が分からなかったのだろう。のんちゃんの無垢で純粋な、ある意味馬鹿な目に、みいちゃんは乾いた笑みを浮かべた。そして目を逸らす。
 みいちゃんは猛烈に自分を恥じた。
 私はのんちゃんにおめでとうと言った。
 声がかすれてしまわないか不安だったけど、意外としっかり言えてしまった自分がショックだった。
 しばらくぶりの恋だと思ったのに、こんなにもあっさりとおめでとうと言えてしまうのか。これも年のせいなのだろうか。勝手に傷ついて、言葉をうまく吐けなくなるような初心な私は、とっくにどこかに行ったのだろう。
 楓ちゃんもおめでとうございますと言った。
 のんちゃんはよく結婚するって分かったねと誉めると、何故か冷酒をぐいっと飲んで。
「女の勘ってやつですよ……」とぼそりと言った。
 まるで人になびかない野良猫の背中のような寂しさがあった。

 飲み会はのんちゃんの祝賀会と変わって、私たちは馬鹿みたいに飲んだ。残念で幸いなことに明日は日曜日だった。皆、仕事は休みだったのだ。

 のんちゃんとみいちゃんは倒れ伏した。
 酒を浴びるように飲んだ二人は、幸せそうに意識を失っていた。みいちゃんは恥じた後、いつものみいちゃんになり、酔った勢いで歌いはじめた。それは甘い結婚するカップルを祝う流行りの歌で、のんちゃんははしゃいで少し泣いていた。
 私は二人の調子に合わせつつ、自分に対する違和感でいっぱいだった。酔えないのだ。
 ちっとも。飲めば飲むほどに酒が不味い。
 どうしてか分からないのだ。いや、どうしたら分からないのだ。酔わないくせに腹の底のあたりだけは妙に熱い。熱がどんどんと昇りつめていく。
私は外の空気を吸いたいと楓ちゃんに言い残して外に出た。
 頭がどうにかなりそうだった。

 店のそばの路地裏で息を吐く。
 時計を見ると夜中の二時を回っていた。店側からすれば、オーダーストップしてからも居座る迷惑な客だろう。しかしあの二人を引っ張ってカラオケ屋まで行くのは大変だと一人思案するとなんとなく気が楽になった。しかし腹の底の熱は消えない。
 私は人の気配のない、鳥の声も聞こえない静かで怖い路地裏の奥でため息をついた。
「先輩。ここにいるんですか?」
 楓ちゃんの声が聞こえた。
「いるよ」
 どことなく投げやりな声を出す。
 するとまたタバコに日をつけた楓ちゃんが煙を吐いた。
「何だか、今日はすごい夜だと思わない。のんちゃんが結婚よ」
「えぇ。すごいですね。ショックではありませんか?」
「何でよ。無二の友人の祝い事じゃない。そりゃ、飲み会に参加しづらくなるのは、ちょっとは寂しくなるだろうけど」
 私が笑うと、楓ちゃんは私の手の甲に、灰を落とした。その熱に背筋がびくりと跳ねて、私は声を上げた。
「何するの。楓ちゃん!」
「別に。下手な嘘をつくなと、忠告したんです。体に」
 こういうのって言葉で言っても心に届きませんから。
 私は淡々と人形のような素面で言う楓ちゃんを食い入るように見た。
「嘘って、何?」
「……好きだったんですよね。望美先輩のこと」
 私は息を飲んだ。この勘が鋭い、後輩に、初めて畏怖を覚えた。
「変なことを言わないで」
 私は彼女の傍を通り抜けて離れようとした。
 彼女は私の手首を強く握った。たばこを地面に捨てて、乱暴に靴で擦り消す。
 普段から考えられない行動に私は彼女を睨む。同時に彼女の顔を見てしまって、後悔した。彼女の瞳は私が望美に向ける瞳と変わりがなかった。恋という欲望に濡れている。黒水晶のように輝いている。
 それは私の腹の底の熱と呼応している。彼女は、楓は、私をすべて見抜いていた。私は子供のように頭を横に振った。嫌だ、私の心を覗かないで。私の、私の、本当を……!

 楓は全てを知っている瞳で私に抱きつき、懇願した。
「私を見てください。好きなんです、望美先輩の代わりでもいい。望美先輩にやりたかったことをぶつけて」
 私は固まってしまった。その言葉の卑怯なまでの甘美さに、頭がぐらりと揺れた。
 望美の顔が揺れた。望美の乱れる顔が目に浮かんだ。その欲望の醜さに私は目を逸らし、目を瞑ってきたというのに。叶わぬ願いと心の底に、腹の底にしまってきたというのに。我慢してきたのに。自分の中で自分に引いてきたラインが崩れていく。
 そして何もかも崩れると、熱は炎に変わった。業火は取り繕った 私という仮面を焼き尽くした。
 
……私は目の前に広がる罠に飛び込んだ。
 
 楓という女性の唇は柔らかくて食むと確かな反応が返ってきた。想像した通り、楓の唇は触れるだけで、気持ちよかった。細かな余裕のない息が愛らしかった。何よりもスモーキーな花の香りが私の頭に酔いをもたらした。
 楓を路地裏のコンクリートの壁に押しつけて、手で行き場を失わせる。楓は目をとろんとさせて、これまで見たことのないほどに惚けている。
 狂宴は止まらない。
 舌を彼女は形の良い喉元を這わせた。
 それと同時に、少し離れたところから、私と楓を呼ぶ望美と美衣子の声が聞こえる。
 この位置なら中に入り込まない限り、気づかない。でも何か物音がすると言って、気づくかもしれない。
 楓は唇を開けて、私の舌をねだる。
 私は背筋をゾクゾクとさせながら、彼女に唇を重ねる。
 じごくをみせて。私は祈った。
欲に溺れながら、止められないのに、それでも迷う私に。じごくを、みせて。
 見つからないじごくでも、見つかるじごくでもいいから。迷いを殺して。望美が欲しかったのか、女が欲しかったのか分からなくなるほどに、溺れている。ぐちゃぐちゃの感情の海に。

 私の心の波を悟ったかのように、唐突に楓が背中に強く爪を立てる。
 つぅと蜘蛛の糸のように、唾液が口の端からこぼれた。

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