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君の手をとるその日のために(第4話)〜竜の涙は落ちる〜

「本、本を、読む……」
 秋山は意を決せないまま、客間であぐらをかいていた。
とりあえずどの本を読むのかは今日中に決めることになり、先に凛子が自分に協力してくれることになった。
お陰で湯浴みをした後の着替えも確保することができた。布団の場所も教えてもらった。最初凛子は一人で布団を引き出しをしようとしていたが……。
「結構重いじゃないか、女の手では余る」
 秋山はそう言って自分でやることにした。時間の節約だった。そう、ちまちまと時間のかかる作業を見るのは、神経がイライラしてくる。凛子は「これくらい私が!」と言っていたけれど、秋山はあっさりと。
「だったら、別のことをしてた方が時間は有効活用できるだろ」と言った。
 それに凛子は目を見開いて、合点した様子になった。どうも一つのことに集中しすぎるきらいがあるようだった。
なんだろう、そこは意固地とも言えるのだろうが。反逆者と言えど、秋山はそこが妙に嫌いではなかった。
 立場に違いはあれども、凛子が一人の人間として見てしまうと……どこにでもいる女に見えた。
それだとしても犯罪者には違いないのだけど。
 罪状は国家反逆罪とはなっているが、実はその詳細は秋山は知っていなかった。
この手の犯罪を犯したものは大方表現に関わっていたことが多い。だからそれがらみなのだろうとしか思わなかった。
 その現状に何か思ったことはない。悪い奴は悪い。それだけで済んでいたからだ。
「国の在り方に反逆する! これ以上の悪はあるだろうか!!!」
 警察学校時代の教官の強くたくましい声を思い出す。
「じゃああなたはどうなの!? あなたの心ではどうなのよ……!」
 凛子の言葉も思い出す。
自分がどう思っているのか……そんなこと、望まれることはなかった。
「私は、何を思うのか」
 それは直面したことのない問いだった。

 木綿の寝間着に着替えていた秋山は、湯の火照りが引いた頃、物置を見に行った。
蔵書は凛子の部屋と物置に置かれているそうだ。
さすがにこんな雨の夜更けに凛子の部屋で本を探すわけにいかない。
ただでさえ、あそこは甘い香りで息が苦しくなる。急に雷が勢いよく落ちていた時に触れた彼女の柔らかさを思い出して、
秋山はあわてふためいた。
「いやいや……なんでもない、なんでもないことだ……」
 そうだ、自分だって女に触れたことはある。一応付き合ったこともあるのだ。二度会ったきりで、終わってしまった恋だったけれど。そう思いながら秋山は物置の戸をぐっと引いた。
 時折ちかちかと光る懐中電灯を片手に、本の背表紙を見る。しかし背表紙を見たとして、どんな本なのか見当がつかない。小説が多いようだが、図鑑もあるし辞書もある。もっとよく見たら、きっと多種にわたる本があるのだろう。頭がくらくらする。ここまで禁書が自分を囲うようにあるのかと思うと……あと純粋に文字だらけの空間にいるのに慣れてもいない。
 それでも心が惹かれるのはあるのだろうかと探し続ける。ダメなら図鑑にでもしようと思っていると、ふととある背表紙が目に入った。
「竜の涙……?」
 思わず手に取る。竜の涙は豪雨のことをさすのだが、その謂れはとある民話からだった。子供の頃、兄に教えてもらうことがあった。秋山はふっと息を抜くように笑った。
「懐かしいな……」
 表表紙、裏表紙を見る。随分と古い本のようだ、表紙が色あせている。
 秋山は息を吸った。表情が固まる。あることに気がついてしまったのだ。こわばって動かせない頬の代わりに、瞳が揺れる。
……本の裏表紙の隅に、名前が書かれていた。

ーー自分の名前。

ーー秋山慎次郎と。

 その字は、どこかで見覚えのあるものだった。そうだ、もう随分と前だが覚えている。
この人の字で、いろんなものに名前を書いてもらったのだから。秋山はかすれる声で呟いた。

「にい、さん……?」

 竜の涙はとある悲恋を描いたものだ。
暁善の国には三つの湖がある。
 紅陽湖(こうようこ)、蒼月湖(そうげつこ)、黄光湖(きこうこ)
 紅陽湖の主である竜は元は、クレナイという人間だったが、自分の美しさが老いでなくなることを恐れ、湖の精霊に不老不死を願った。結果代償として、竜神になったのだ。竜となっても美しさが変わらないクレナイはある時、黄光湖の主であった光仁坊に追われ、蒼月湖に落ち着いた竜神、孤月と恋に落ちた。二人は仲睦まじかったが、その幸せは長く続かなかった。光仁坊と孤月は神の領域を争い、とうとう孤月は負けてしまったのだ。孤月はクレナイを守るため、蒼月湖と紅陽湖に魔法をかけて、けして光仁坊が近寄れないようにした。クレナイの腕の中で孤月が亡くなった時、クレナイは果てのない人生のなかでいちばんに泣いたと言われる。竜の涙は豪雨となり、地上に降り注いだとも。それ故に、豪雨のことを竜の涙と言った。

 兄は禁書をけして手に取る人ではなかった。
竜の涙の話のルーツは、その当時暁善の国を支配していた部族の蛮行にあったとされている。
支配のために、暁善内の小さい国を滅ぼしていったのが、竜の涙の話の形成に一役をかっていると。
 それがこの本が禁書になった理由だ。悲劇は読んだものに思考を促す。
 本をろくに読まない、なぜ禁書なのかも調べない秋山でも、そのことだけは知っていた。
 物語として知ったのも、兄の口からである。本の形としては読んだことがない。
 けれど兄の字で自分の名前が書かれた「竜の涙」がここにある。
兄が反逆者だったという確かな証拠が。

「……かくてクレナイは、二つの湖を守り続ける。愛おしい人の残したものを守り続けるのだ。そして自分に起きたことが、けして誰かに起きないよう、祈るのだ……」
 時刻は夜中の二時をまわっていた。物語は読み終わった秋山はうなだれる。物語は悲しいがいい話だった。それはたしかに悲劇だったが、物語の人の確かな息遣いが聞こえるようだった。秋山は鼻の奥が痛くなる。
「馬鹿だな……」
 誰にも聞こえないであろう声が漏れた。
兄は本当に馬鹿だと思う。こんな本一冊で自分を破滅させたのだから。
でもどうして、この本に自分の名前を書いたのだろうか。そう思った時、本のあとがきのところからメモが落ちた。
 うすっぺらく、文字もかすれかけたメモだ。
 そこにはこう書かれていた。

ーー慎次郎への誕生日祝いに。あいつの好きな物語を贈って……。

「え……」
 秋山の頭の中がぐわんと揺れた気がした。
好きな物語……? 好きな物語だと……。
 強烈な頭の痛みを覚えて、秋山は頭をおさえる。
なにかを思い出そうとしていた。兄がいなくなって以来、こんなに昔を振り返ろうとしたことがない。
けれども今、過去の扉が鮮烈に開けられようとしていた。

ーーそれはあまりに記憶の片隅においやられた思い出だ。

「兄ちゃん、あの話をしてよ。竜の涙!」

「お前は本当に好きだなぁ。もう何回めなんだか」

「いいじゃんか、好きなんだから!」

「ははっ。そんな慎次郎には、もうちょっとしたら、とびきりのプレゼントがくるぞ」

「プレゼント?」

「ああ……お前にとびきりの……」
 兄の穏やかそうな笑顔が見える。しかしそこで記憶は途切れた。

「兄さん……!」
 秋山は叫んだ。声を振り絞り、手を伸ばして。
もうたまらなかった。わかってしまった、兄は自分のために禁書の本を手に取ったのだ。
自分のためだったのだ。でも自分はそれを知らず、ただ何年も、何年も兄の行為を情けない、恥だと思っていたのだ。
なんで信じられなかったんだ。兄はあれだけ自分によくしてくれたのに、どうして信じ続けられなかったんだ。
 後悔は嗚咽となって落ちていった。
「秋山殿……! どうかしましたか?」
 客間の戸が開く。寝間着に羽織をかけた姿の凛子がそこにいた。
秋山は心配顔の凛子に言葉をかける余裕がない。ただぐずぐずと鼻をならす自分の顔を、彼女から見えないようにそむけた。
「どうしたのですか? そんな子供みたいに泣いて」
 しかし凛子は秋山の様子をすぐに悟ってしまったらしい。すっと秋山に近づいていく。
「な、なんでもない……近寄るな」
「そんな顔で言われても説得力はありませんね」
「う、うるさい……うるさい」
 声がかぼそくなる。目の前に人がいる、それがどれだけ心を揺らすのだろう。
細やかな揺れはやがて大きな揺れになっていく。こんなに自分は弱かったのだろうと思うくらいだ。
 凛子は穏やかな声で言った。
まるで羽で包み込むような、柔らかな声で。
「辛かったの?」
 秋山は奥歯を噛み締めた。
「そんなこと、ない……そんなこと」
「だからその顔じゃ、感情分かりますよ」
「っ……!」
「何があったの? 言わなきゃわからないですよ」
 秋山はその言葉でおちた。
心の鍵が溶けていくようだった。秋山は、反逆者で国の敵で、自分とは立場が違う女に……告白した。
「おれ、俺のせいなんだ……兄さんが、反逆者になったのは……俺が竜の涙が好きじゃなかったら、こんなことに……こんなことには……」
 過去は覆られない。起きたことはどうにもならない。覆水盆に返らずとはうまく言い得たものだ。
それでも声をあげずにはいられなかった。現実がわかっているからこそ、どうにもならないとわかっていても。
 表情を歪め、苦しむ秋山を凛子はそっと抱き寄せた。秋山は目を見開いたが、凛子は囁いた。
「ここにいるのは二人だけ、これは私と秋山殿しか知りません……だから、いいの。泣いてもいいの……」
 秋山はぎゅっと目を瞑った。苦しさが悲しさが苦さが、目からこぼれ落ちる。
秋山は凛子を抱きしめ返し、子供のように泣いた。それはまるで、竜の涙のようだった。

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