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君の手をとるその日のために「第7話」~生きて~

 昨日と今日、秋山のやることが多くなっている。
その原因は簡単なことだ。雨が止んだためである。
黒電話はそれまでと打って変わって頻繁に鳴り、山に登れるよう、作業が随時進行していることが伝えられた。
もう少しですよという蓮河原の真面目で明るい声が、胸に棘のように刺さった。
「はい……ありがとうございます。待ってます」
 蓮河原へ伝えた言葉に、うまく感情が乗っていただろうか。
自分の本心を悟られずに済んだのだろうか。

 とんとんと小刻みな音が聞こえてきた。
電話を終えてみると、凛子が昼食の準備をしていた。包丁で胡瓜を切っているようだ。
「ああ、おかえりなさい……今、胡瓜の塩もみをつくろうとしてて」
「そうか。もう、そんな時間なのか」
「そうですよ……もう昼時です。雨の時は時間感覚がわからなくなりそうだったけど、太陽が出ると分かりやすいわね」
 秋山は台所にある椅子に、どすっと腰を下ろした。その勢いの良さに凛子は胡瓜を切っていた手を止める。
「どうしたの?」
 秋山は言葉を探すために宙を見たが、どうあがいても上手い言葉が見つからなかった。
そして単刀直入で言葉を紡ぐ。
「明日……橋が回復するそうだ。昼過ぎの到着を目指していると連絡が入った」
 凛子は瞳を大きくしたが、すぐに軽やかな声で言った。
「そうですか、速い動きですね」
「まぁ、それだけ凛子さん、あなたの存在を注視しているようだ」
「そうですか、そうですか……そうですね、私は、結構な大罪人ですから」
「凛子さん」
「事実じゃありませんか、秋山……いえ、慎次郎君」
 それは昨日から凛子が言い出した秋山の呼び方だった。
「ああ、そうだな」
「そうでしょう。ね、慎次郎君。今日の昼餉を見てくださいな」
「うん、わかったよ……」
 秋山はこれからの未来を振り払うように頭を横に動かした。

 現実が差し迫ってきている。それを感じる度に心が締め付けられる。真綿で首を絞めるというのは、なんて適切な表現なのだろう。今すぐに未来は来ない。けれども確実に近づいている。
「さすがに保存しているのも少なくなって……」
 凛子はそう言って困ったような顔をしていたが、それでも十分すぎる食事だった。豚肉と厚揚げの味噌しょうが炒めが、秋山の中では一番の好みだった。甘辛く、コクのある味が口に広がり、気を抜けばずどんと重くなりそうな心持ちをほんの一瞬楽にした。秋山は不器用に笑った。
「おいしい、おいしいですよ」
「そう、良かった」
 彼女と笑い合うこの時間が、永遠であれば良かった。

 昼食後、橋の修繕行為をしている治安警察側で見られないように、橋とは反対側の平屋の縁側で休息をとった。濡れた地面もこれだけ日差しが強ければ、すぐにでも乾くだろう。こちら側の縁側にはほとんど立ち寄っていなかったが、見ると小さいながらもしっかりとした庭があり、木々もかなり切られていた。凛子を住まわすためにここまで支援者が手をほどこしたのかと思うと、彼女への敬意の深さを感じ取れた。
「住めれば十分と話したのですけどねぇ」
「納得できなかったんだろなぁ」
「良い人たちでした、私の物語を楽しいと言ってくれて」
「そうか……」
「あなたは読んでくれませんね」
「凛子さんが、最後のお願いというからだよ」
「そうですか……そうですね」
 凛子はうちわで自分を扇いでいた。秋山も自分のことをうちわで扇ぐ。そよそよとした風を感じていた。熱い空気が満ちている中で、さほど冷たいとはいえないのに、風は気持ちよく感じていた。
「あそこに、紫陽花がずいぶん咲いている」
 秋山はふと庭の端で、山肌に一連となるように咲いている紫陽花を見た。
「ああ、あそこは……小川が流れていて。その脇に紫陽花が咲いているの」
「へぇ」
「あの奥には小さいけど洞穴があって、何かあったらそこに避難することになっていたわ。救援を呼ぶことが出来たの」
 秋山の瞳はみるみると大きくなった。勢いよく凛子を見る。
「なら! あそこに逃げ込めば……!」
 凛子は頭を横に振った。
「無理よ……私にはこの首輪がある」
 秋山は凛子の首元に光る銀の輪を凝視した。
「これがつけられる前なら、まだ逃げられたかもしれないけど……それにここで逃げたら、捕まえたとしているあなたに迷惑がかかる。反逆者としての嫌疑がかかるかもしれない」
「そんな……」
「だからいいの、気にしないで」
 凛子は秋山の頬を軽く撫でた。
 秋山はぐっと奥歯を噛みしめた。

 子供の頃の話だ。遠足が楽しみで、遠足の前日はとても寝付けなかった。そんな時起き出した自分に対して、兄は温かい飲み物を作ってくれた。それは牛乳だったこともあったし、白湯の時もあった。はちみつをいれた薄い紅茶が一番大好きだった。だけど、今はそんなことをしてくれる兄はいない。こんなに大きく大人になったのに、それを思い出すなんて……自分は想像以上に子供なのかもしれないと思ってしまった。ああ……今日で最後の晩だ。

「凛子さん……」
 ふすまを軽く叩く。夜分も夜分、しんとして、鳥の鳴く音だけ聞こえてくる。
凛子はとうに眠っていておかしくなかった。こんな時分に声をかけることの方がおかしいのだ。秋山は二度、叩いて……それから踵を返した。やはり眠っているのだろう。無理をさせては……と思っているところでふすまが開いた。
「慎次郎君、どうしたの?」
「起こしたら、すまないと思ったんだけど、顔が見たくて」
「顔が見たかったの、昼間も寝る前もあんなに見たのに」
「……見たかった。これで、最後と思ったら……」
「秋山君……」
「凛子さんの顔が見られたら、覚悟が決められそうな気がする」
「……そう」
 凛子は秋山に抱きついた。
「私も。同じ気持ちよ」
 凛子の声は少し震えている気がした。

 凛子の部屋にまともにいたのは初めてだった。
最初に入ってからかわれた時以来で、彼女に許可をもらわなければ居続けることはなかっただろう。
 白粉の残り香のある部屋。布団にも彼女の匂いがあった。甘いミルクのような匂いだった。彼女の布団の上で、お互いに手を伸ばし抱き合っていた。
 出る言葉は名前やら睦言ばかりだ。もし未来でこの夜のことを振り返ったら、お互い顔から火が出る勢いで恥ずかしがるだろう。だけど今日で最後だと思ったら、お互いから羞恥心なんてあっという間に消え失せた。
「ねぇ……凛子さん」
「どうしたの?」
「抱きたい……凛子さんをもっと、感じたい……」
 凛子は秋山を一際強く抱きしめた。
「うん、私も……」
 凛子の唇が秋山の首筋に落ちる、つぅとそれは胸まで下がっていた。
「あなたが欲しい……」
 そうお互いに覚悟を決めていた。二つの覚悟を。
けれどもその想いを明かすことはなく、二人は互いを求め合った。
 まるで砂漠で雨を求める巫女のような真摯さで。この感触を己に刻みたいと言わんばかりに。鳥の音が遠くに聞こえ、荒い息と密やかな嬌声が、狭い部屋に響いた。

 あと二十分で治安警察の数人がここに来ると連絡が来た。
凛子は観念した様子で着替え終わり、客間で正座をしていた。秋山が手錠をかけるのを待っているのだろう。秋山は治安警察の制服のネクタイを着けて、息をついた。ここから自分がどうなるのか分からない。けれども、覚悟は、決まっていた。
「凛子さん、ちょっとお願いがあるんだけど」
「何かしら」
「目を瞑ってくれない?」
 手錠片手にお願いをする秋山に少し不思議そうな顔をしたが、凛子は「いいわよ」と頷いた。それから目を瞑る。
「ありがと」
 秋山は膝をつき、目を瞑った凛子の顔をじっと見る。
「ちょっと、びっくりするけど……」
 秋山は小さく笑って、凛子の額に口づけた。
「俺にはこうするしか出来ないんだ」
 かちゃりと音がした。
 その瞬間、凛子は驚いたように目を見開いた。
「どういうことっ」
 凛子の首輪が外れ、床に転がった。凛子は自由になった首を、驚きを隠せないまま触る。そして秋山を凝視した。
「このまま紫陽花のところから、洞穴へ行くんだ! 君は生きて、逃げろっ」
「そんな……そんなことをしたらあなたが! それにすぐに追いかけられたら……いくら逃げ込んでもたどり着かれてしまう」
「大丈夫だよ、それには策は立てている」
「策って何を……」
 凛子はハッとした様子で息を飲んだ。秋山の顔があまりにもすがすがしいものだったからだろう。何を考えているのか察しきれなかったが、それはとんでもないことだけは分かった。
「嫌……嫌よ、あなたに何かがあって欲しくない!」
「お願いだ、逃げてくれ。もう首輪を離した以上、引き戻れない」
「だけど……!」
「お願いだっ!」
 秋山は凛子の肩をぐっと強く掴んだ。あまりの強さで凛子は顔をしかめたが、震える瞳で秋山を見る。秋山は目を細めて凛子を見返した。
「どうか、生きて」
 凛子の口から漏れるようなうめき声が聞こえた。悔しそうに顔を歪める。彼女に秋山の心は届いていた。この人はどんなことがあっても自分を逃がす気だと。
 分かってしまったから、もう何も言えなかった。自分は逃げる気しかない。そうするしかない、だけどその現実があまりに悔しかった。心が振り絞れそうなほどに悲しかった。
 凛子は震える口で言った。
「生きて……絶対に生きて! 私はあなたの手を取りに、また会いに行くから!」
「ああ……期待してる」
 そんなからっぽな言葉を吐きながら、秋山は苦笑した。
 凛子の頬に一筋の涙が流れる。彼女はそれを拭うことなく、部屋を出て行った。いよいよだ……秋山の計画の最終章だ。凛子を逃がしたとしても、何かしらの理由で治安警察の足止めをしなければいけない。だから秋山は決めていた。台所から包丁もとってきていた。

「被疑者の女に刺されて、首輪まで外された、治安警察の恥さらしになるだろうな」

 秋山はそれでも満足そうに笑い……自分の腹に、包丁を突き立てた。

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