見出し画像

記憶とメイドと写真

 メイドのマリアは古風な木造屋敷でバラの剪定をしていた。
その表情は、苦虫をかみ切ったように歪んでいる。
それを見て主人であり、恋人であるヨハネスは困ったように微笑んだ。
「マリア、その顔じゃ写真映えしないよ……」
「別に写真なんて映えなくて結構です。全く何を考えているのですか、ヨハネス様」
「いやいや、マリアは可愛いよ。美人だと思うんだけど」
「へぇ」
「そんな憎々しげに言われてしまうと、こっちが困っちゃうなぁ」
「じゃあ、撮影しないでくださいませ」
 そういうマリアはすねたように目をそらせる。
 ヨハネスはそれに困ってしまう。どうしてマリアはこんな表情を浮かべるのだろう。
ヨハネスは記憶が一日しか持たない。マリアとは出会った記憶がないのだが、どうも日記によると、彼女は自分が愛した人らしい。
 文字だけの記録を読んだだけでは、普通であれば、とても信じられないだろう。実際彼女は仕事は完璧でも態度はかなり悪かった。
だけどヨハネスはそんな彼女が愛おしい。何というか、とても見ていて心が温まるのだ。
それは確かに「恋」と呼ぶべき感情だった。
ヨハネスは部屋の奥にあったカメラを引っ張り出し、マリアに向ける。マリアを被写体にして、撮影しようとした。しかしマリアはすねる。
不細工な表情をする猫のように、態度を悪化させていた。
「僕たち、ほんとに付き合っているんだよね」
「……それをお疑いになりますか?」
「うーん、いや……付き合ってなかったってことはないな。僕は君が好きだし」
「貴方って人は、普通に、そんなことを言い出しますね」
「こういうのは素直の方が、話はこじれないからね」
 中座になって、本の整理をするマリア、ヨハネスも中座してマリアの顔を見た。
「やっぱり綺麗だよね」
「……」
「君が笑ってる所見たいなぁ」
「……」
「にこー」
 マリアは冷めた笑みを見せた。
「一回、水かけましょうか?」
 完全に怒りのスイッチが入ってしまった。
ヨハネスの顔もみるみる血の気が引く。まるで急速に冷やされた温度計のようだ。
「あ、ゴメンナサイ……」
 ヨハネスはずずずと言わんばかりの勢いで後ろに下がった。
 
「……どうしたら、いいのかね」
 自室のソファで腰掛けながら、ヨハネスは深々と溜息を吐いた。
ヨハネスがマリアの写真を撮りたいのには一つ訳があった。
日記の存在だ。
 日記には日々のマリアの様子が書かれている。基本的には不機嫌なのだが、時折こっそりと見せる表情の美しさが愛おしそうな文章で書かれていた。

――――家の裏でマリアは猫を見て、目を輝かせていた。猫が好きらしい。

――――洗濯物の温もりが気持ちよかったらしい、思い切り抱きしめていた。微笑みがこぼ
れていた。

 どうしても、見てみたい。自分の記憶が今日一日しか持たないのなら、なおのこと、このカメラに刻みたい。
彼女の笑顔を。
 だけど、どうしたらいいのだろう。道化のように振る舞ったとしても、あの調子ではとてもうまくいきそうにない。
しかしあれだ、彼女はどうして写真を撮るだけで、あんなに嫌そうな顔をするのだろう。
色々と悶々考えつつ、カメラを弄っていると、急にカメラのシャッターが降りなくなった。
「え?!」
 ヨハネスは目を見開き、慌てふためく。やがて原因がフィルムが噛んでしまっていることに気がつき、ゆっくりとカメラから抜き取った。
「危ない危ない……明日の僕に丁寧に現像するように頼まないと」

 ヨハネスはフィルムの様子を見る為に、フィルムを透かした。
そこには、写真があった。日付は、記憶を失う前だ。そこには、二人の男女の写真が写っていた。一人は自分、もう一人は……。
 ヨハネスはあっけにとられたように呟いた。
 
「……綺麗だ」

 だけど、その二人が写っていた時の記憶は、欠片も残っていなかった。
 
 それがあまりに、哀しかった。

ああ、なるほど……ヨハネスは目をつむる。自分は罪を犯していたらしい。
 
          ***

 四本のバラの花の意味は、死ぬまで気持ちが変わらない。
その言葉を、何度その日の記憶が死んだとしても、ヨハネスは持ち続けている。
それはまるで呪いのような奇跡で、その奇跡に身を刻まれながらも、マリアは離れることが出来ない。
愛してる、愛してるからこそ、愛されるのが、たまらなく辛い。
その愛はその日につぼみをほころばせたもの。そして日付が変わる頃には萎れてしまうもの。
マリアへの愛が生まれ、死にゆく姿を何度も見てきた。そして朝になれば「君は誰?」となる。
最近になって、日記の力で、自分はただのメイドという存在では無いことは理解したようだ。
それでも自分が置いていかれる立場だということは変わらないのだ。

「それでも私は……」

 マリアは呟く。
「とても馬鹿ね」

          ***

 ヨハネスは走っていた、写真屋に行き、現像してもらったその写真を抱えて走っていた。
往来には人が多い、ぶつからないように急いでいたが、あまりのヨハネスの急ぎように、訝しげに見る人は少なくなかった。だがそれでもヨハネスは急がないといけなかった。
自分の記憶は一日だけ。時刻は夕方だ。太陽は下がり、空はあかね色に染まっている。
 マリアは夕食後のひとときを過ごしたら、明日もあるからと帰ってしまう。だからその前に、その前に、この写真を現像しなければいけなかった。
 彼女にこの写真を届けなければと思った。
家に戻ると、マリアは取り込んだ洗濯物をたたんでいた。
息を切らしてきたヨハネスに驚いた様子で目を丸くしている。
まるで不意打ちに現われた人間に驚くウサギのようだった。
「どうなされたのです、ヨハネス様」
 ヨハネスは息を整えながら、声を上げた。
「マリア、君に見せたいものがあるんだ!」
 マリアはヨハネスの言葉に怪訝な表情を浮かべる。
「私に、見せたいもの……?」
 ヨハネスは大きく頷く。
「ああっ」
 ヨハネスは封筒を差し出す。
マリアはヨハネスの興奮ぶりに戸惑いながら、封筒の中を見る。
「あ……」
 マリアは小さく声を漏らした。
目が見開き、写真を見ていたが、やがて唇を震わせながらヨハネスを見た。
「これは一体……」
 それは白い百合が雨に打たれて小首をかしげたような、重い衝撃を受けたようだった。
ヨハネスはマリアに渡した写真。
 それは、かつて記憶喪失でなかった頃の、ヨハネスとマリアの写真だった。
紅いバラを持って寄り添い笑い合う二人。白い壁を背に、窓からの日差しを光源にしている二人に、その後訪れる悲劇の予兆など、かけらもなかった。
「君との写真だよ、いつかに撮ったんだね」
「ええ……あなたが事故に遭う前、記憶喪失になる前のもの」
「そっか、渡せて良かった」
「どうして、これを……」
 マリアの問いにヨハネスは小さく笑った。
「君との大事な思い出だから」
「え」
「……でも、この顔を見てすぐ悟ったよ。僕たちのつながりが」
「……」
 マリアは写真をまじまじと見つめた。
そしてその指で、愛おしげに、写真を撫でた。
まなじりに雫が浮かんでいる。
「そうね……これは大切な写真」
「うん……」
 頬にすべり落ちる涙を止めず、マリアは微笑んだ。
「でもあなたは……」
「そうだ、覚えてない……」
 マリアは手の甲で涙をぬぐう。
「そうね、その通りよね」
 マリアの何もかも諦めたような顔。
 ヨハネスを拳を握った。
どうか、マリアに言葉が伝わりますように。
祈るように言葉を紡ぐ。
「馬鹿な僕の話を聞いて欲しい」
「……ヨハネス?」
 マリアは小首を傾げる。
 ヨハネスはマリアの手を取った。
白磁のような白い指先に小さく口づける。
「僕は何度も、君を置き去ってる」
 その言葉にマリアの視線はヨハネスに吸い寄せられた。
「忘却という罪を繰り返している。それを感じたくなくて、君は写真を撮られたくないんだよね」
「っ……」
 ヨハネスの言葉に、マリアの表情は苦悶のものへと変わる。
ヨハネスはそれでも言葉を続けた。
「それでも僕は君といたい……この罪を背負っても、君と歩みたいんだ」
「ヨハネス……」
 ヨハネスは小さく微笑んだ。それはまるで、天から落ちる羽根をそっと手のひらで包み込むような、柔らかな微笑みだった。
「僕は忘れないなんて言えないけど、それでも、この一瞬が何よりも愛おしい。君が大事なんだ」
 マリアは震える声で「馬鹿ですね」と言った。
「あなたが、どうだとしても……私はそばにいますよ。私は、私……は」
 それ以上の言葉をマリアは紡げなかった。とめどめない涙が、彼女の言葉が封じ込めてしまったからだ。
ヨハネスはマリアの頬に触れ、目元をぬぐう。彼女の心を労るように、何度も何度も。
 ヨハネスはマリアに囁いた。
「一緒にいよう……マリア、ずっと、ずっとだ」

 時計の針は時を刻んでいる。
「また写真を撮るなんて……」
 マリアは少しぼんやりとした声で呟く。
 ヨハネスもその肩を優しく抱く。
 その日、白い月が出ていた。
月の光に照らされた紅いバラを前にして、二人は写真を撮った。
二人の優しい笑顔が写っていた。
その記憶は残らなくても、写真は残る。思い出は、マリアによって語り継がれる。
「じゃあ、撮るよ、マリア」
「ええ」
 マリアは小さく頷く。
 寄り添う二人の手のひらは、緩やかに、けれども確かにつながった。

小説を書き続けるためにも、熱いサポートをお願いしております。よろしくお願いいたしますー。