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君の手をとるその日のために(第2話)~腹が減っては戦は出来ぬ~

女は手錠で手首が痛んだらしく、濡れタオルで手の赤みを引かせようとしていた。
秋山と女の間に会話はない。当たり前だ、話すことなどないし、何より相互の立場はあまりに違っていたのだ。
片や反逆者で片や反逆者を取り締まるもの。しかもこの女は五年も逃げ続けてきた人間だ。
 秋山からすれば同じ人間だと思うのも厳しい。女も秋山を話す必要のない人間だと思っているのだろう。
貝のようにむっつりと黙り込んでいた。六畳間の部屋で、秋山は腕を組んで立ち、女は座り込んでタオルで冷やしている。
このままではいけないのは火を見るよりも明らかだった。

ーーそういえば、まだこの屋敷について何も知らないな。

秋山がいるのは女が根城にしていた平屋建ての家屋だ。玄関から入り、指示を受けていた部屋に入ると、引き継ぎの警官と女がいた。それからずっとここにいて、ときおり廊下の電話をつかっていたのだが……他の部屋も覗いて見ることにした。
 部屋は三つ、あとは風呂と便所だ。今自分がいる、おそらく来客用に向けた造りの座敷、そして大きめな台所、台所は土間になっており、軽く見ただけで一週間分の野菜や保存食があるように見えた。どうも協力者がずいぶん手厚い援助をしていたようである。だが何より女一人にしてはりっぱすぎる台所だ。かまどには木の燃えかすが残っており、先日までよく使われていたことが如実にわかる。水がめには水も残ってた。まだ飲めそうだったので、ぐいっと杓子ですくい、口をつける。するすると喉に落ちていく山の水は、中央区の水に比べ、滑らかで飲みやすかった。そこではっとする。定鳳山は今回のような自然災害を起こす山だとしたら、ここを拠点にして、山の工事なども出来るかもしれなかった。もしかしたらそのために電話の通信網をいじったのかもしれない。いやいや、そんなことを考えている場合じゃない。秋山は次の部屋に向かった、そこはただの物置だった。いろいろな道具が入っている。あと、箱に詰められた蔵書も。禁書なのだろうか、そう思ったら気分が悪くなった。そしてさらに次の部屋……と手をかけて驚く。
最初に赤い花もようのかけ布団が見えた。壁を見ると星座の早見表。タンスや化粧台などもあり、さすがの秋山もぎょっとせざる得なかった。そうだ、考えてみれば女がここに住んでいたとしたら、女の部屋があって当然である。部屋にはあまい匂いがした。きっと夏に汗の量をおさえるために用意していたのだろう。蓋の空いた白粉があった。女が使っていたのだろう。この部屋だけ妙に、背筋を撫でられたようなぞくっとした感覚に陥る。
「女の部屋をじろじろと見回して、秋山殿はそんなに女と縁がなかったのですか?」
「な、何を……私とて、女との縁はあった」
「どうせ、花街とかそんなものでしょう」
「そんなことは……」
 言葉と裏腹で、女の言葉に間違いはない、間違いではないが、そんな斬りつけるように言われるのも不快だ。
秋山は苦々しく言った。
「女、いい加減にしろよ。私に逆らうとすれば……」
「痛めつけられたとしても、屈服しません。どうぞ如何様に」
「な……」
 あまりにすがすがしい物言いだった。この女は何も怖くないのだろうか。もはや女というものを捨ててるような気さえする。秋山はふうとため息をついた。一瞬、ポケットに手を入れ電流を流す。女は目を剥いて、膝をついた。
 汗を流し、はぁはぁと荒く息をつく。
「これで、なんとかなると思ってるのかしら……!」
「国に楯突くものに人権などあるものか」
「ふっ、あんたって、ううん、あんた達って鏡を見たことがある? 治安警察様は」
「あるにきまっているだろ」
「へぇ、それでも気づかないのね。その顔」
 女はにやりと笑って言った。
「皆、同じ表情(かお)をしているのよ、個性のない面みたいな顔を……」
「ふん、くだらんことを」
 秋山は鼻で笑った。女は痛みのせいだろう、それ以上言葉を出さなかった。秋山は女を捨て置き、台所へと向かった。

 さて、これからどうすればいいだろうか。
女に対して強気を見せていたが、秋山は頭をひねるしかない沙汰になっていた。
雨が降り続く以上、家の外に出られない。
幸い、台所には塩漬けしたらしい肉や、干した川魚、藁を被された野菜などがあった。
雨が降る前にこの平屋に来た時、確か小さいけれどしっかりとした庭があって、赤く塾れたトマトが見えた。支援をされていたとはいえ、女は自力でも相当自家生産に勤しんでいたらしい。つまりモノはある。モノはあるのに、秋山は石のように固まっていた。
眉間にしわを寄せ、丸々とした茄子を見ている。紫がかった黒光りする茄子に対し、暁善の国の治安警察が恐れをなすような感情を覚えていた。別に茄子に対して、恐ろしく心の傷が残るようなことがあったわけではない。この野菜を、どうやったら食べられるのかが分からなかったのだ。秋山の知っている茄子は、その厚めの皮が丁寧に剥かれて白い身になり、その白い身が煮たり焼いたりされたものだった。すでに料理されたものしか秋山は見たことがないし、食べたことがない。寮暮らしの秋山はあらゆる家事が出来なかった。調理なんていずれ結婚した時も妻がやるものと思っていたし、包丁なんて握る日が来ようとは思っていなかったのだ。

「落ち着け……たかが飯を作るだけじゃないか……簡単、簡単だ……」
 心を落ち着けようと軽く一息をつく。
とりあえず見つけ出した包丁で茄子の皮を剥くことにした。
だが、どうすれば正しい剥き方なのか……へ、ヘタをまず落とすものなのだろうか。
どこまで切り落とせばいいのか。浅くでいいのか……迷いながら包丁を落とすように振り下ろす。ストンッ……ヘタが身から綺麗に離れた、だが秋山が驚いたのは、包丁の切れ味だ。
よく研がれていたのだろう、切れ味はよく、いや、凄まじく、あまりに軽い感触で野菜は切れてしまった。これでキャベツの千切りなんてものを作ってしまったら、キャベツの前に自分の指が刻まれてしまうのではないか。ただでさえ野菜をおさえず、片手で包丁を振り下ろすように切っているのだ。危ないの極致としか言えなかった。
 喉が渇き始めてきた。水瓶から杓子ですくって、ゴクリと一気に飲む。
熱くなりそうな頭が少しでも冷静になればと思ったが、そうはうまくいかなかった。
自分の無力さを感じるのは、あまりに恐ろしい。それと同じくらい、自分はしばらくまともな食事をとることができないのでは……。
「秋山殿は、手先が不器用すぎやしませんか……? いや、家事をむしろしたことがないのですか?」
 秋山は汗がダラダラと流れ落ちそうな心持ちになって、勢いよく声のした方向を向く。濡れた手ぬぐいを首に当てた女と会った。秋山は軽く後ろに下がる。逃げ出したくなるような思いにかられながら、それでも表情は強気を装った。
「お前……一体いつから……」
「お前じゃありません、凛子です。……それと恥ずかしがらなくても、問題ないですから」
「何を言って……」
「何も習ってない子供の包丁さばきを見ているようでした。ヘタと茄子の実が、あんなに勢いよく離れるところは見たことがないですね……」
「それは……そんなこと」
 すると女は急に膝を屈めた。なんだと思ったら、床に転がる茄子のヘタを拾う。
ほんの少し口角を上げて、ニヤリと笑う。
「ここまで飛んできてますね」
 全身が頭の先から足のつま先まで恥で染まり上がるような思いだった。かあああと熱くなり、目が剥きそうになった。自分は自分はなんというところを見られてしまったのだ。
「うるさいうるさい!」
 秋山はドシドシと強く足音を立てて、女の横を通り過ぎた。
女は。
「あら、もう台所は良いのですか?」
 そう、何でもないように言ってくる。
その余裕さと言えばいいだろうか。秋山はまた腹ただしさを起こして、客間の座敷の襖をぴしゃりと閉めた。
正直、今日はメシなどいらぬ! と言ってもいいくらいだ。
こんな恥ずかしい思いをして、空腹など大した問題ではなかった。
そう、その時は本気でそう思っていたのだ。

 時計の針の音だけが耳を通り過ぎる。
あれから数時間が経っていた。秋山は時折水を飲んだり、便所に行きながら、客間で過ごしている。
水でなんとか抑えられているが空腹だった。
 空腹なんて大したことがない。たしかにそう思った。数時間前までの自分は思っていただろう。
だが実際動くのも億劫になり、だるさが体を支配するようになると、とても我慢がきかない。
そうなってから、自分でなんとかするのではなく、女を動かせばいいのではと思った。
しかし女は素直に頷かないだろうし、聡い女のことだ、自分がいなければ秋山は何もできないと気づいてしまうだろう。
自分の弱いところなんて、見せられるわけがなかった。自分は天下の治安警察なんだから。

「……腹が、減った……」

 こんな風にぼやくのはいつぶりだろう。
治安警察の教育校に入った十二歳以前の時だ。
十を迎える頃に生活を支えて面倒を見てくれた兄が、国家反逆の罪で逮捕された。
さすがに当初はそんなことをしたわけがないと思っていたが、実際に犯罪者の生活支援をしていたことが分かると
その思いはあっけなく消え入ってしまった。飲んだくれの親父との貧しい生活にも秋山は耐えきれなかった。
 法律の改正で幼く貧しい自分にチャンスができた。それに秋山はすがるしかなかったのだ。

「はあ……水でも飲もう」
 そう思って部屋を出ると、凛子が立っていた。
びっくりしたようにこっちを見ている。いきあうと思っていなかったようだ。
秋山は自分の気持ちを押し隠すように威勢良く言った。
「なんだ、なんの用事だ」
「あら、意外と元気ですね」
「当たり前だ。これくらい……」
 その言葉の途端、腹の音が、のぼりあがるように鳴った。

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