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君の手をとるその日のために(第3話)~2つの条件~


 終わったと思うことがある。
酒の席の失敗に、思わぬ失言、その他諸々。今、秋山に訪れたのは、逮捕するべき人物の前で盛大に腹を鳴らしたこと。
女は目を瞬かせる。
「今の音……」
「ぁ……」
「秋山殿は本当に空腹なのですね」
「違う、そんなことはない!」
「ここにきて否定するとは……あなた、相当に頑固ですね」
「はあああ、犯罪者が私を分析するな!」
「私は別に悪いことをしたつもりはありませんわ おかしいのは国の方よ!」
「なんだと……!」
 秋山は思わず前のめりになって女を睨んだ。秋山にとって今の余裕のある生活をもたらした国は、命の恩人と呼ぶべき存在だ。それを愚弄されたのはあまりに信じられないことだった。やはり犯罪者は頭がおかしい。
 女だってそれに負けないくらい秋山を睨んでくる。
「当たり前でしょう! ただ……愛してる人が戦場に旅立つことを嘆いた詩を読んだだけで、反逆者にならなきゃいけないのよっ……」
「それは国が悪いと言ったから、しょうがないだろう!」
「じゃああなたはどうなの あなたの心ではどうなのよ……!」
「それは……」
 うまく、答えられるわけがなかった。秋山はろくに本を読んだことがない。国が定める悪を信じて戦ってきただけである。それによって得られる幸せのために、たくさんの人を逮捕してきたのだ。自分の心で何が正しいのかなんて考える必要がなかった。ただ、兄が反逆者として、テロリストとして連行された日のことを思い出した。
 兄は何か詠っていた。ぶつぶつと呟きながら楽しそうに。いろんな言葉が聞こえてきて、当時の秋山では理解できなかった。しかし楽しそうな兄は、唐突に連れていかれ、二度と戻らなかった。あの絶望感はなんといえばいいのだろう。喪失感を、悲しみを、心配を、言葉で、文で表現して……それは、悪なのか、善なのか。それとも……。
「……答えられないのね。そう、やっぱり、皆おんなじ顔のロボットなのね」
 女は眉間にしわを寄せて、深くため息をついた。
「すこし、作りすぎたので……台所に食べるものがあります。適当にどうぞ」
 秋山を女が置いてくように去っていく。
秋山の心はなぜか、そんなことを感じなくてもいいはずなのに、ぎゅっと締めつけられるように、苦しくなった。

 いつまでも立っていてもしょうがない。秋山は台所に向かう。
すると海苔のまいた握り飯と、冷汁、それから芋の煮っころがしがあった。
台所の脇で居心地悪そうに置かれている机と椅子で食べることにした。
 梅の入った握り飯をもくもくと食べながら、冷汁をかきこむように喉の奥へと流す。よほど腹が空いていたのだろう。
体は入ってきたものにたいして大歓迎と言わんばかりに受け入れていく。だが秋山の心は浮かないばかりだ。
 あの女の言葉が気になって、しょうがない。
 同時に、秋山はこうも考えていた。
自分は、あの女と打ち解けるとまではいかないが、もう少し歩み寄りが必要なのではないだろうか。
女に無理やり作らせるのは難しいだろう。電気をつかっても、余計に話をこじらせるだけかもしれない。
 もう少し気分良く、ここでの時間を過ごしたいのだ。
 秋山はようやく、ほんの少しだけ息を抜いた。
 そのまま、最後に残していた芋の煮っころがしを食べる。もっちりとした食感を何度も噛み砕きながら、味を舌で感じた時、思わず橋の動きが止まった。どうしてと思ったのだ。
 秋山はこの味に覚えがあった。これは……兄が作ってくれた芋の煮っころがしと味がそっくりだ。
甘じょっぱくおいしいこの味が、あまりに懐かしかった。
 だが何故その味がここで食べられているのかわからない。もしかしたらお腹が空きすぎて、勘違いしているのかもしれない。箸を動かして、芋の味を何度も確認する。だが味は変わらない。このご馳走は、たしかに兄が作ってくれた味そっくりだった。
「なんで……」
 秋山はひとり呟く。
しかしその言葉に、誰も返すことがない。ただその言葉の音だけが、台所にぼうぼうと響いた。

 さて……さてだ。秋山は客間でうつうつと考え込んでいた。
幸い今日はなんとかなったが、女の気まぐれで食事を出されてもたまったものではない。
とにかくなんとか、安定的に食事をとれる環境を作らないといけない。
 だがしかし、どうすればいいのか。秋山はまったくわからなかった。
なんとかして、女と会話をしなければいけないと思う。しかしどう話かければいいのか、まったく分からない。
 なんせ顔を見せれば言い争うのだ……難しい、あの女の心がとても難しい……。
「ん……」
 秋山はふと不穏な音に気がつき、雨が入らないように気をつけながら、細く窓を開けた。
すると白い光が目に入った。雷が近くで落ちたらしい、不穏なゴロゴロとした音が暗雲から聞こえてくる。
 早めに風呂に入らなければいけないかもしれない。
「ああ……」
 着替えなんて、持っているわけがない。
着れる服がないのかも、女に聞かないといけないだろう。なんてこったな話だ。
 秋山は難しい顔で、眉間にこれでもかと力を込めたが、やがて諦めたように立ち上がった。

 女の部屋にノックをしたが、何も返答はなかった。寝ているのかと思ったが、襖に耳を当てて中の気配を察してみると、そもそも部屋にいないようだった。ならばどこにいる……便所だろうか。秋山は未だにどうしたらいいのかわからない心持ちを引きずるように足を進めた。

 女の部屋を出た時、どんっと、部屋を震わすような雷の音が聞こえた。ざわざわと風で勢いを増す雨の音も聞こえた。
よほどお天道様は機嫌が悪いらしい。その時、秋山の声にか細い女の悲鳴が聞こえたような気がした。
 雨の中を彷徨い続ける龍の化身でも出たのだろうか。いやいや昔話のようなことはあるわけがない。秋山は声の元へととにかく向かった。
「あ……!」
 それを見た瞬間は驚いた。声がもれたほどである。
湯上りらしき女は、長い髪をまとめず、白い肌着をまとわせて膝をついていた。
 女からは湯の匂いがした。風呂から上がったばかりなのか、しかしろくに体を拭かなかったのだろう。
拭き取れなかった水滴で、肌が雷光の下、透けて見えた。
 それに硬直しそうになるのが秋山であるが、女が体を震わせて怯えきっているのを感じ取るとさすがに気が引き締まった。
「どうした、何があった!」
 駆け寄り女に訊すと、女は返答ができないといった様子で目を震わせ、肌を強張らせている。
どうもここには置いていけないようだ。一人ではどうにも出来まい。秋山はとっさに女の腕を取った。
 そして肩を貸す。
 女は突然の秋山の行動に心底驚いたように目を見開いた。とっさに行動を起こしたが、女の視線に自分はとんでもないことをしているのではと思った。肩にあたる女の肌は柔らかくしっとりしてる。
 秋山は言葉を早まらせて言った。
「ち、違う。被疑者が、動けなくなってしまっては困るだけだ!」
 そう、それだけなのだ。女が震えていることに気がついた瞬間、頭なんて真っ白になっていない。
とっさに手を差し伸べようと思ってなんかいない。そう、そのはずなのだ。
 言い訳を頭の中で並べたてながら秋山は女を部屋まで連れて行った。女を部屋の畳の上に座らせる。
女は震えながら、とっさというべき動きで、近くの浴衣を羽織った。体の線は見えるが肌はもう透けて見えない。
 そのことに秋山はほっと胸をなでおろした。

 女は濡れた髪をかき分けず、秋山を見上げる。
「何故、助けたのです? 放っておいても良いでしょう。だって私は……」
 その言葉を継ぐように秋山は言った。
「ああ、そうだ……お前は私の、国の敵だ。助ける義理はない、むしろざまあみろと言ってしまうだろう」
「なら、何故……」
「放ってはいけないと思ったのだ」
「え……」
 女は目を丸くする。水晶玉のような透明感のある黒い瞳で見られては秋山はいよいよ、女の顔を見られない。
そっと、目を伏せながら言った。
「わ、私たちは……しばらく強制的にだが一緒だ。だから……その、本当にしょうがないのだが、協力関係を結ばないといけない。この家のこと、家事などでは、私はお前にかなわない」
「秋山殿、それは……」
「ああ……うん……つまりだ、つまり……」
 奥歯を噛み締める。こんなに心が磨り減りそうなほどに緊張しているのはなんでだ。
今まで一人でなんでもできる気がした。でも、それはあまりに儚いまやかしだと気付いてしまった。
だから威張って、気を張ってばかりもいられない……。この頭が燃えてしまいそうな恥の感覚だってきっと一時だ。
 勢いよく秋山は頭を下げた。
「私を、助けてくれ……!」

 間があった。女は秋山の行動に動揺を隠せないようだったが、やがて表情を改めて、秋山に顔を向けた。
その目にはさきほどの雷への怯えもなく、ただ一つの強い光が宿っていた。
「いいでしょう。この雨に閉じ込められている間、私はあなたを手伝いましょう。でも条件が二つあります」
「それは、なんだ」
 秋山は女の言葉を待つ。女はまるで神託の巫女のように、凛とした声で言った。
「私を、女ではなく、名前で呼んでください。凛子、私の名前を」
 秋山は重石を飲み込むように、女を、凛子に向かって言った。
「わかった、いいだろう。凛子、さん……。さてもう一つはなんだ」
「もう一つは」
 凛子は意を決したように言った。
「秋山殿、この平屋にある本を一冊読んでください」
 秋山はその言葉に息を強く飲んだ。本を一冊読むだと……それはあまりに信じがたい話だった。

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