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空っぽの自分の恋

 私の姉妹は男にはとにかく一途な人たちだった。
 毎日ライン交換をするし、休日は家に呼んで御飯を食べさせる妹に、旦那さんの体が弱いなら私が養うと言わんばかりに、給料のいい仕事につき、庭付きの家のローンを組んだ姉。
 ある時ラインをしているとさらりと告げられる二人の「男性とのおつき合い」の年数に、あっけにとられてしまった。かるく数年、姉は十五年以上も一人の男の人と一緒にいる。

 そんな二人がうらやましかった。
誰かとともに歩こうとする二人の姿がまぶしかった。私には無理だと思った。
 空っぽの心の中におびえた子供がいる私には無理だと思った。

 ミネラルウォーターを一口飲む。渇いたのどの奥に水はするりと流れ落ちる。
 東京は今日梅雨入りした。でもその前から湿度が確かにあがっていた。真夜中に会話をしていると、頭の奥が鈍ってうまくは話せている気がしない。そもそもいつも眠気が強くて、夜はしっかりと寝なくてはいけないのに、私は夜更かしを繰り返す。人と話すのが好きで、しゃべらないと物足りない気分になる。
 外から風が吹く音がする。猫は喧嘩する。消防車のやかましいサイレンが聞こえる。にぎやかだ。数人と行う夜の会話もにぎわっていた。
 そんな中でこんな話があった。

 自分は東京からずいぶんと離れた場所、西の田舎にいた。
 成人式の前に飲む習慣があって、友人がひどく飲んでしまった。それの看病で真夜中ずっと病院にいて、翌日の成人式はさんざんなものになった。
「あんな目にあうのなら、行くべきじゃなかったのかと思うんですよ」
 男は苦そうな笑いを含んだ声で言った。

 その言葉で私は急に寂しい気分になった。
自分の中は言葉や感情でいつもおぼれそうだ。しかしその言葉を聞くと自分の中が空っぽになってしまった。
 そんなことをいうなと言う自分と、そうかもしれないねと思う自分が同居していた。 
 私は自分に空洞を感じる。すぅすぅと冷えた風が吹いた。
「そんなことないよ。行って良かったんだよ」
 私は口に出した。寂寞が私を包む。
 口に出して、ひどく苦痛を覚えた。
あぁ余計なことを言っていると思った。こんなことを言うべきではないのに。
 そうだねと、どうでもいい話として、過去へと押し流すべきだったのに。
「静さんはどうしてました。成人式」
 そうして自分にとってまずい話になるのだ。
ずいぶんと良くしてもらっている連中だったし、そのことがあったのはもう十年近く前だ。もう時効の話である。ただそれをうまく語れない。
 私の中ではいつまでも傷が乾かない。生々しい肉色がむき出しのままだ。その傷の上にはあの子がいる。
 私は力のない、どこかふわふわとした声で言った。
「行って、ない……あのころにはもう、家がなかったから」
 私は強く目をつむった。
「殴られても何をされてもしょうがないことをしたから……」
 そこでさぁと空気が冷え込んだのを感じた。それはそうだろう、なんて話だ。ちっとも楽しくない。私のパーソナルの話なんて、それだけで人を傷つけると分かっているのに。
「なんてね。くだらない話だね」
 あの子はまた一段と深く顔を伏せた気がした。

 私は、昔とうまくつながっていない。
明白な理由がある。私は一度死んだのだ。死んだからこそ、ここにいれるのだ。お前は命を落としかけたのか、何か大病でも患ったのか。
 いやいやそんなことをはない。
ただ、わずかなつながりを残して、失っただけだ。家も本も、私をいじめた友人も。
 今まで生きてきた時間をすべて否定したのだ。
すべてが間違いだった。本来なら私が生まれたことすら間違いだったのだ。
 娘がいるから母は父のそばにいた。人を死なせても人をだましても、ただ我欲と見栄に踊らされる、キチガイの遊び人だった父親の後始末をした。父親は爆弾だった。死にかけたとき、導火線に火がついた。爆弾のそばには私たちがいた。本来は私たちは巻き込まれて死ぬはずだった。
 一番の問題は父親が築き上げた借金だった。
 父親のそれで脅迫や恐喝をしあう親族や、怒り狂う父親の知り合いや浮気相手。皆誰しも主張を譲らず、蟲毒の呪いのようだった。誰しもが間違えていた。そう思えた。
 私自身も間違えていた。父親にお金を出して、帰ってこないことを分かっていても、金を出さなければ家族の生活は脅かされると聞いたら、出さずにはいられなかった。それなりに出された大金はどこにいったのか、父親と最後にあったときには父親は物言えぬ姿で生きていた。あぁ殺さなきゃと思った、そして死ななきゃと思った。
 こんな間違えてしまった私の一族は、皆が死ななければいけない。蟲毒の呪いは、最後はすべてを不幸にするのだから。少しでも被害を押さえるには、少しでも殺さなきゃ。農薬でも飲ませなきゃ。
 父親は死んだ。私が最後の決断した。病院の医者はよくしてくれた。投薬された薬で父親は死んだ。一人目と思っていると、母は私や姉妹に言った。
「お前たちはこれでスタートが切れるんだよ」

 あぁそれこそ、呪いだよ。お母さん。
 私は幸せにならなければいけないじゃないか。
皆で死んですべてを終わらせたかったのに。

 母は爆弾から私達をありとあらゆる手段で遠ざけた。それで帰る家を失ったけれど、私は東京で何の憂いを見ることなく暮らせることになった。
 もう十年近く昔の話だ。
 でも私が自分の中がどうしようもなく空っぽになったことを知っていた。過去の私が、いない。
 あの子を、あの家に置き去りにしてしまった。
心の中には座り込んだあの子がいる、でもその子は、ただの幻影だ。

「大丈夫?」
 うとうととしてしまった。やはり真夜中は苦手だ。意識がフェードアウトしそうになる。声をかけてくれて助かった。
「大丈夫」
「なんか、意識がおぼつかなかったよね」
「大丈夫だよ」
「そう、それならいいけど」
 すべてを見透かしたような笑いを含んだ優しい声に、私は恥ずかしくなった。

 恋人が出来たのはつい最近だ。彼は優しいし、愛されていると感じている。
 好きだと思うし、好きだと伝えてるし、それは順風満帆だ。でも私は優しくされると、身構える。そんなことないと言うし、彼がどうして自分が好きなのか分からなくて、人に不思議だねと言ってしまって窘められる。正直持て余してるのかもしれなかった。好きという感情に。
 こんな欠落を持った私を好きになっては、ひどくこれから面倒が増えるだろう。そう思うと申し訳なさを覚える自分がいた。
 いつかのお別れを、祈るような気持ちで遠ざけたいのに。別れられたら、彼は少しでも楽になるのではと思ってしまう自分がいた。
 私じゃない誰かが、彼を幸せにしてくれるのでは。
 人にはきっと人を幸せに出来る力がある。姉は旦那を救ったし、妹は彼と手を取り合っている。でも私にはその力があまりに足りなさすぎる気がした。実際私は体が弱くて、会社もたびたび休むようなていたらくだったから。
 好きと言う感情で胸の奥が掴まれているだけだから。
 そんな自分に何が出来るのだろう……。
 そう思って私は自分の唇を透明な糸で縫った。

 空っぽの私の声。
 彼にも届けたくなかったのだ。

 私は幸せにならなければいけないのに。
母はそう願ったから。私達を助けたのに。
 本当の意味で人生をはじめられるようにと。
 私はそれに従わなければいけない。疑問を感じてはいけない。
 それだけじゃない。借金問題から逃れるためにたくさんの人を傷つけた。そう例えば借金を父親や私達の代わりに請け負うことになり、そのことがきっかけで私の父親との浮気がばれた女がいた。その女には多感な年頃の息子がいた。女には罪がある。でも……子供には罪がなかった。 
 親の背徳を知るということの苦しさを知っている私が、顔は知らない子供に、自分ですら嫌だった苦しみを与えている。地獄だった。
 幸せにならなければと思った。謝ることも出来ないし、謝っても取り返しがつかなければ幸せにならなければと思った。
 私が幸せになればそれだけ人の怒りを招くだろう、その怒りはある意味において生きる力になる。父親の罪で、私の人生は終わりのないトンネルを生きているみたいだった。そのトンネルをくぐり抜けられたのは、怒りだった。

 幸せにならなければ。

 分かっている。なんて傲慢だ。分かっていても傲慢をやめられない。そう思っていたのに、優しい言葉をかけられると私は身をすくませる。
 そうかと思った。
 結局のところ私は不幸であり続けたいのだ。

 幸せなんて自分にはふさわしくないのだから。罪を踏みつけるから。それが苦しくて怖くて、私は困りながら呟く。
「甘やかさないでください」
 わずかに息をのむ音。まったく空気が読めていない、分かっているのに彼を傷つけていく。
「困るんです、そういうの」
 ひどい女だ。好きなのに。
 でも自信のなさが私の口を勝手に動かしていく。
「私の次の人は、きっとあなたを本当に幸せにしてくれますよ。その人に、そういう言葉をかけたほうがいい」
 声がかすかに震えた。
「私よりずっと、素敵な人ですよ」

 デートをすることになった。彼は忙しいし、私も仕事をしていたので、そんなに出かけられるチャンスがなかった。
 電車に一緒に乗っていると、格安旅行を企画している旅行会社の広告が見えた。私の視線に気付いたのか、彼が言った。
「旅行で行きたいところってある?」
「え」
「なんでそんなに目を丸くするの」
「いや、あんまり旅行って考えたことがなくて。あんまり遠出すると体調が悪くなるし」
「しずかは体がなぁ。でもこういう場所に行きたいって思うことはないの。現実は無視してさ」
「ううん……そうだね」
 現実を無視して行きたいと思うなら、私はあの家のある地元に帰りたかった。でも地元に帰っても、家に帰っても、もうどこにも居場所がないと言うのに。私はどうして帰りたいのだろう。よく、分からなかった。
 私は言った。
「箱根に行きたいですね」
「箱根?」
「黄金のお風呂があるそうですよ」
「そりゃスゴい」
「少しお金持ち気分が味わえそうです」
「ふぅん」
「じゃあいつか行こうか」
「え?」
「だから目を丸くしない」
「そんないいですよ。旅行とかお金かかるし」
 私は彼と絡めた指を見た。軽くではあったけど、しっかりと絡んでいた。それが胸を締め付けた。この幸せを、苦痛に感じる自分のおかしさに嫌になった。

「いったい、ここで亡くなった男性はどんな思いだったのでしょうか。ブランド品の時計と大金を持って、首を吊った男性の過去とは……!」

 テレビは謎の死を迎えた男性の特集を組んでいた。彼はお風呂に入っていた。先に入っていた私は下着姿が頭を乾かしていた。
 どうして男性は死んだのだろう。お金があれば生活には困らないはずだったのに。病院でも自宅でもなく、こんな人気のない雑木林で死んだのだろう。自殺したのだろうとぼんやりと思った。
 この人も帰る場所が無くしてしまったひとなのだろうか。心がひゅるりと冷えた。

「羽振りは良かったんですけどねぇ。いつしか事業がうまくいかなくなって、家族関係も崩壊してね。安いホテルを転々としたようですよ」

 金ですべてが崩壊したのか。まるでうちのようだ。私は番組を変えた。気分が悪くなってきた。
 彼の家に泊まっているというのに。楽しい時間が汚されていくような気がした。
 彼はしばらく私とは会えないらしい。仕事が本当に忙しいんだと難しい顔をしていた。
 そうなんだ、平気だよと言った。
お仕事をがんばりなよと言った。
 肩を落としそうな自分を必死にこらえた。
 この後のことを考えると、何も考えない方が良かった。気持ち良いと思えることに従順になるべきだった。
「気持ち良かったー」
 のんびりとした声が聞こえた。
 私は彼の方を見て、立ち上がろうとしてよろけた。たまにめまいが起きて、足取りがあやしくなる。それがいつもよりひどかった。
 彼が慌てて駆け寄ってくれて、私は彼に抱き留められた。
 彼の熱を不意に感じて、身を縮ませる。
「あ……ごめん」
「急によろけるからびっくりしたよ」
「いつもよりめまいがひどかったみたい」
「そうなのか」
「私は大丈夫だよ」
「ならよかった」
 彼は私の体を離さなかった。私は疑問に感じると、彼は気持ちよさそうに目を細めておいた。
「いや、柔らかくていいもんだ」
「は」
「そんな怪訝そうにしないでくれよ。いいと思っているんだから」
「私なんてぷにぷにすぎてだめですよ」
「まぁぷにぷには否定しないけどさ、抱き心地がいい」
「は、はぁ」
「気持ちいいよ」
「はぁ……」
「どうしてそんなに沈むのかなぁ」
「だって」
 だっても何もないのに。私は唇をかんだ。
彼は私をしばらく見つめていたが、やがて何かに思い至ったのか、仕方なさそうに立ち上がった。
 彼と体が離れる。その瞬間寂しさが急に心に忍び寄った。今日が終われば彼とはしばらく会えないと思うと寂しさは加速して、私の首を絞めた。
 私は彼を抱きついていた。心臓がばくばくと鳴っていた。なんてことをしているだと思う余裕がなかった。ものわかりよく、事実を受け入れるべきなのに。今胸の中にあるのは彼が離れていくことへの、どうしようもない苦痛だった。
「静……?」
「いかないで……」
 私の声はどうしようもなく震えていた。彼が離れていくことが、ただ単純に離れていくことが、未来の別れを想起させた。私と別れて、次の人へと向かう姿を勝手に思わせた。それは妄想だった。彼は何もしていないのに。私はもう限界だった。私の傷の上にいる子供が怯えて、泣いていた。
「いかないで……おいていかないで……!」
 過去のあの日。生きるという権利の代わりに家を失ったあの日。私は過去の自分を置き去りにした。置き去りにされた過去の自分の痛みだけが、心の中に残った。もうたくさんだった。
 もう、置いていかれたくなかった。大事なものをなくしたくなかった。何年も大事なものをつくらないようにしていたのに。不意に落ちた恋で、得てしまった大事なものに置いていかれたくなかった。
 私は「私」になっていた。
過去の自分が一番に望んだことが渦潮になって、心を揺らす。あぁ、ずっとこの子はこんなことを考えていたのか。私はひしひしと感じた。
「そばにいたいよ。ずっと、そばにいたいよ」
 つないだ手をほどかないで。
 ずっと先へと歩いていかないで……
 もう嫌だよ。
 この心の空洞は。もう、嫌だよ。
「うん……」
 彼は私を抱いた。半円をかくように、私の髪や背中をなで続けた。彼は都合のいい言葉や甘い言葉を吐かなかった。彼のその不器用さが私には嬉しかった。彼の温もりがあれば、言葉なんていらなかった。この肌で、この手のひらで感じれるものが全てだったから。
「好きなの……」
 この想いが届くのなら、私は何度でも贈り続けるだろう。過去の自分もそれに同意していた。
 贈れなかった想いが、私達の中には山のようになって廃棄物のようになっている。

 誰かに伝えたかった。この寂しさを。
 誰かに伝えたかった。この痛みを。
 誰かに伝えたかった。小さな願いを。

 家族も親族も、誰もかもが……泣かずに笑えたらいい世界があればいい。そうして安らかに笑えられたらいい。

 その願いが打ち破れた世界になった。
何もない私は、生きて死んでいくはずだった。
だけどそうならなかった。
 信じたいものが出来た。
 この手につながるものを信じていきたかった。
 被害妄想じみた恐怖に打ち勝つために。
これからを生きるために。

 痛みを抱えたあの子は消えた。私には傷だけが残された。許されたわけではない。
 あの子は本当に家に戻った。私の記憶の中の家に。私はこれから、本当の意味で傷を見なければいけないのだろう。

 そう例えば、今いるこの場所が……私の居場所なのだと。まずはそれを知らなければ。

 私はひそひそと噂話をする農作業服の人の姿を見ながら、旅行バック一つを持って、あの青い屋根の家の前にいた。家に戻ってきた。
 コンクリートのたたきには草が伸びだし、家の正面にあった畑は荒れて、私の身長ほどに伸びた草が揺れていた。奥の小屋からは猫が見えた。何匹も飛び跳ねて、異邦者の訪問に警戒していた。日差しがじわりと意識を焼く。
 ここにはかつての生活は見えなかった。ここにあるのは私の家という遺物だった。
 ……もう私はここには住めない。
その事実に直面するのに、十年近くかかった。
 不思議と喪失感はあまりなかった。ただ、確認出来て良かった。

「しずか。大丈夫?」
 彼が言った。私はしっかりと頷いた。
「墓参りに、いこう。父の墓が近くにあるの」
「いいの?」
 私はもう一度頷いた。
「私は父がいなきゃ、生まれなかったから」
 続けて言った。
「ちゃんと挨拶はしなくちゃ」
 私は彼と絡めた指にきゅっと力を入れた。
「家族だもの」
 私は小さく笑った。
 歩き出すと風が吹いた。
草のにおいを含んだ風はひどく熱く、私達の背中を勢いよく押した。それは誰かの、手の温もりのようだった。

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