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手段が目的になっても、メリットしかないという案件


3つ手放す(@mochizuki.sanae)☜Instagramを、数日続けていて、これはなかなか大変だぞと、今更ながら気づいている私です。
#仲間が増えてきてうれしい

が、これは、結構「手段」が「目的」になってもオッケーなパターンなんじゃない? と思いはじめています。

考え方の正しさからいうと(そういうものがあるとして)、おうおうにして「手段が目的になってしまう」ということは、だいじなことを見失っている=本質的なことを忘れてしまっている。と解釈される。

例えば、環境に優しい生活をしようと、夜の室内の照明を落とし暗い中で本を読んだりスマホを見たりしていたら、視力が落ちてしまった。。。なんていうのは、手段先行型。脱プラ生活を励みながら一方ではモノに溢れかえった生活をしていたり、夜更かしをしているのもそんな感じ。
人間は矛盾する生き物だし、そこまでストイックになることはまったくないので、だいじにしたいのは、やっぱりバランス感覚。

で、話をもどすと、モノを手放す目的は、心地よく暮らしたいであったり、風通しのいい循環する暮らしがしたいであったり、単純にスッキリ暮らしたいであったりする。
そこで、ついやる気を出してはじめてしまった「モノを手放す」。

続けることが苦しくなると、それ自体が目的と化していくのは目に見えている。

が、しかし。
それをも超えるメリットがあるとしたら。。。
手段が目的になっても、メリットしかないという事実がそこには転がっていたんです。

なので、ただただ手放しながら新しいモノやコトが入ってくるスペースをあけて待っていていいという、雑な感じ☺︎☺︎☺︎

まあ、この続ける苦しさとか、諦めとか、できないとかのネガティブな要素とどう向き合うかは別として、メリットしかないと言ってもOKな案件だなーと思った昨今です。

これって、料理なんかにも言えて、時短とか、家族を喜ばせたいとか、おいしいものが食べたいとか色々な目的があって習ったり、教室に通ったりするけれど、その技術って、一度身につけたらほぼ一生自分の腕となるし、続けることが苦痛になることもあるけれど、結局は自分とまわりの幸せのためにメリットしかない。
という案件のひとつ。

もう一言加えると、そう考えられるのは、行動したの先には副産物がちゃんと隠れているということをこれまでの人生経験で信じられるようになっているからとも言える。

この副産物については、個人差があって、そこに着目した人だけが気づけたり、恩恵を受けられたりもするので、量も大きさもさまざまだけれど。

「目的と手段と副産物」の関係。
それぞれが、自分の人生を生きていいんだ。
そんなことを考えていました。

今日も元気に!
新しくなっちゃおう〜。


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