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わたしたちは言葉で世界を創る

息子の担任の先生から、ある日メールが届いた。

このメールを受け取った保護者の皆さんには、ご自宅でお子さんたちと話し合ってください。

どうやらメールは複数の保護者に送られたようだった。

担任の先生からのメールは短く、休み時間担当の別の先生が、もうお子さんたちを担当したくないと言っている、静かにするよう指導しても指示を聞かず大声で歌を歌っているため、もう関わるのが難しいといったことが書かれていた。

これはまずいと思ったわたしは、学校から帰ってきた息子に、担任の先生の書いてきたことを伝えた。すると息子から返ってきた答えはこうだった。

R(休み時間担当の先生)はひどいんだよ。ぼくらと一緒に遊んでいたS(女の子)に、「あなたは男の子みたいな女子だ、男の子は言うことは聞かないし、うるさいし、じっとすることもできない」って言ったんだよ。そういうのってひどいと思わない?Sに対してもひどいけど、ぼくら一緒に遊んでいる男の子たちに対してもひどいと思う。

学校で大人の指示を聞かないのはだめだよね、というつもりで話を振ったわたしにとって、この息子の言葉は予想外だった。一瞬戸惑ったわたしは、担任の先生から来たメールの件に話を戻し、先生から静かにしなさいと言われたら、静かにしないといけないんじゃないかと返した。

すると息子はこう答えた。

Rはぼくらが何を言っても聞いてくれないんだ。休み時間に、外で子どもを見ているRにぼくらが何を聞きに行っても、今、他の先生としゃべってるのがわからないの?黙れ!ってぼくらを追い返したり。昨日は外を移動中に歌を歌ってただけだよ、静かにしなきゃいけない場所でも、授業中でもない。Rが聞きたくないから黙れって言ったんだ。でもそういう言い方っておかしくない?ぼくらはRから怒鳴られてばっかりなんだ。男の子が嫌いなんだよきっと。

10歳の息子の説明を聞いた限り、わたしにはR先生を援護することが難しくなってしまった。息子の話だけを信じてはいけないというブレーキをかけつつも、やはり息子の話を聞く限り、彼の感じたことに同意できてしまう、それがあまりに多すぎたためだ。

息子とは、その後30分ほど話し合い、R先生の思いはわからないけれど、その言葉遣いも、子どもへの扱いもやっぱりおかしいと思うと伝えた。そして、担任の先生にはそういうことでメールしてみるとわたしは言った。息子は特に、男の子はうるさいものだと言われたことがとても嫌だったらしい。

その夜、担任の先生へメールの返事を書いた。ただ、ここでわたしは自分の子どもの言い分だけを信じるクレーマー、日本でいうモンペだと思われたくないという見栄から、結果的に遜り過ぎた内容のメールを書いてしまったらしい。書いたものを見せたところ、夫にこれじゃ全然Rのひどい言葉遣いへの批判が伝わってないとダメだしされてしまった。

夜9時を回っていたにも関わらず、担任の先生からはすぐに返信がきた。その後また、具体的な言葉遣いについて言及したところ、先生からは自分もその場にいなかったこと、R先生のこともよく知らないため、クラスで話し合ってみますと返ってきた。

男子はうるさい

息子のこの言葉を、わたしはその後しばらくの間、何度も思い返していた。この言葉は、実は「冬は寒い」ぐらい、学校で働いていた時に当たり前に聞いていた言葉でもあったからだ。実際に自分でも体験としてそう感じていたこともあったと思う。家で同じような意味の言葉を発したとき、娘から秒速で「それは性差別」という言葉が飛んできたこともある。この言葉が事実なのか、いや、むしろこの言葉で自分にとって都合の良い事実を作っているのか。っていうか明らかにこれは偏見ですよねと言われたら、やっぱそうだよねとも思う。息子が言われて嫌だったと聞いて、正直わたしははっとした。何も考えずに使っているこういう表現は他にも山ほどある。そして、自分も自分の属性と絡めて何かを言われるのが嫌だと感じながら、実際にはこうして無意識に使っていた言葉もあった。それに気づいた。

言葉が創り出す、ものの見方

日本でも最近、ジェンダーに関わる発言がよくネットで取り上げられているけれど、デンマークでも同様のことは時々起こっている。一昨年、ある女性テレビキャスターが担当している番組を、批評家で文学・文化評論家の男性が新聞で評した際、番組とは必ずしも関係のない、女性キャスター自身の行動について評した言葉があり、それを当事者である女性キャスターが厳しく批判したという出来事があった。この女性は批評家に対し、あなたが番組を気に入らないことと、わたし自身とを結び付ける必要はないはずだ、また女性を卑下するような表現でわたしを評するのはいかがなものかと、同じ新聞紙上で批判。彼女の批判には、女性から多くの支持もみられた。

男性の評論家は、女性側の指摘はもっともだと受け止め、すぐに謝罪。この件はこれで収まったのだとわたしは思っていた。でも、それから約一年後に書かれた記事を読むと、この男性が選んで使う言葉と、その言葉によって彼が描きだそうとする世界には、やはり偏りがあるのではないかとも思うようにもなった。

適確に表現することとその言葉に含まれる偏見

例えば、"Blondine"という言葉。ブロンドの女性、という意味をもちながらも、言葉自体のなかに性的なニュアンスや、頭があまり良くないという意味も兼ね備えている言葉だ(デンマーク語辞書: Den Danske Ordbogの記述より)。そしてもうひとつ、"Tøsedreng" という言葉。意味は、弱々しい男(子)で、なんと同上の辞書によると、卑下する言葉であり、女性(tøsは女子、女性という意味で、場合によっては否定的なニュアンスも含む)へのステレオタイプに基づいた表現として問題だと感じられることもある、という注釈までついていた。

この2つの単語を今後も使い続けたいというこの評論家。その理由は、これらの単語が男女の性を的確に、多面的に表現していて、そして想像力をかきたてるからだと語っている。

もちろん、こういった単語は、従来の男性的な視点に偏ったものであり、現代のジェンダー観から見て問題であるということも彼はよくわかっている。彼自身、自ら炎上を体験しているのだ。そして自分を「群れから離れた象」という表現で、白人の高齢男性として自分の時代はもう終わったという認識もあるという。それでも、これらの言葉が使えなくなるということは、表現というものを、ある意味非常に貧しくする行為だと彼は語っている。

気取った言い回しについては、もう少し気を付けなくてはいけないと思っている。ユーモアは使いづらくなり、特にジェンダー、性的なもの、そして人種的なことについてはそうなってしまった。 Bo Tao Michaëlis

男性的な視点で選ばれる言葉、それがいくら対象を「的確に表現している」と発話者側が思っていたとしても、その言葉に発話者自身の、あるいは社会的に作られた偏見が上乗せされていれば、受け止める側はその両方を同時に受け止めることになる。言葉はいつも中立的であることは難しい。言葉を介して、わたしたちは同時に意味を形成していく。交わされる言葉に多様性が含まれなければ、多様性を肯定した世界を構築していくことは難しくなる。

言葉は永遠に変化していくもの=世界もそうなのかもしれない

言語研究者のMarie Maegaardは、ジェンダーバイアスのある言葉遣いが社会にどのような影響を与えるのかという質問に対して、以下のように答えている。

そのような言葉を使うことで、わたしたちは男性や女性のステレオタイプを受け入れるようになるかもしれません。そして、男性とは女性とはこうあるべきだという見方をするようになる。わたしたちは、言葉を通じて世の中のことを学び、話し合い、意味を作っていくのです。ですからそのためにどんな言葉をどのように使うかは非常に重要です。
今日から突然、男女の違いについてステレオタイプ的な見方を止めるということはできないでしょう。わたしたちは人間であり、互いをカテゴライズして、それぞれのカテゴリーにいる人々の特徴とは何かといったことを考えることもあります。だとしても、この構造を無視して良いということではありません。
言語というのは決して中立ではありえないということも無視できません。だからこそ、注意深くあるべきなのです。言葉は、意図せずともそこに含まれる別の意味があること、そして自分が言ったり書いたりすることが、どのぐらいジェンダーバイアスを含んでいるかについて、意識的でなくてはいけません。時にはその歪みをはっきり指摘する声も必要ですし、それによって、許容できる範囲はどこなのかと議論することもできます。言語とはそういうもので、永遠にわたしたちが駆け引きしつづけていくものなのです。

言語とは、永遠に人々の駆け引きによって変化させていくもの。わたしの中に無批判的にあった偏見も、息子との対話によって光が当たり、そのジェンダーバイアスに改めて気づいた。

ジェンダーについては、兎角自分が女性であるために、子どもの頃から受けてきた様々な考え方や言葉の影響について考えることが多かったけれど、改めて自分自身の言葉にももっと意識を向けようと思う、いや、向けているつもりだったけれど、もっと意識的になりたいと思う。自分の言葉が自分の周りの世界を創っていくのだとすれば、それは意識次第で、小さくても今日から少しずつ変えていけることなのだから。


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