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はじめて車両広告が掲載された日、 僕は山手線に乗って1周した

2021年2月発売『マイノリティデザインー弱さを生かせる社会をつくろう』(ライツ社)
第1章「マイノリティデザインとは何か?——広告から福祉へ。「運命の課題」との出会い」より

最初は営業マン、お得意様の「お金の使い方」を決める仕事

2004年、広告会社に入社して最初に配属されたのは営業局でした。

とあるカメラメーカーのメディア担当、の中の雑誌広告を任されました。年間予算額が数千万円あって、達成したい売上目標があって、6月には『週刊文春』の表4(裏表紙)にデジカメの広告を出して、7月にはスポーツイベントがあるから『Number』に一眼レフの記事広告を掲載して……と、毎月どの雑誌にどれだけ広告予算を配分するのかを決める仕事。

目の回るような忙しい日々。でも、お得意様に身を捧げる仕事は楽しかった。先輩方にも助けられながらほうほうの体でしたが、まったく知らなかった世界にワクワクしていました。

貯金すらろくにできていなかった自分が、大きな予算管理をできることにも驚きましたし、なにより幸いだったのは、クライアントのみなさんが良い方ばかりだったことでした。ボーナスが入ると、僕はそのメーカーのデジタル一眼を買いました。はじめて「人に尽くしたい」という思いが芽生えたのを覚えています。

と同時に、コピーライターになる夢も諦めていませんでした。

僕が入社した年は、「いきなりクリエイティブ局へ」という道はなく、はじめの1年は必ず営業やPRなど、直接クライアントと接する部署に配属されるようになっていました。

第一志望は、クリエイティブ局。いつか来るその日のために僕は1年間、「言葉と感情と表現」に関する研究を続けました。「人はどうして笑うんだろう?」「このコピーはどうして人の心を打つのだろう?」。いつしか、研究を書き留めたノートの数は10冊を超えていました。

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フランスの「蝶々」で言葉の、アメリカの「海軍募集CM」で広告の力を知った

広告会社に拾ってもらえたのは、とてもラッキーなことでした。

父親の仕事に合わせて、ずっと海外を転々としていました。生後3か月でフランスへ行き、その後イギリスで1歳から7歳、小1で日本へ戻り小5まで過ごし、すこし不自然な日本語を話す僕は、「ガイジン」なんてバカにされたこともありました。

5年生からはまたフランスへ戻り、日本人学校を経て、中1からはパリにあるイギリス人学校へ。でも、4年間の日本生活ですっかり英語を忘れてしまっていたため、今度はクラスメートと会話することさえままなりませんでした。

つまり、日本では「ガイジン」「帰国子女」だし、海外では「日本人」「アジア人」という部外者だったんです。故郷がない、どこでもアウェイ状態。

鬱屈した少年時代を送った僕には、夢中になれるものがありませんでした。スポーツを観るのは好きだけど、特定のチームを応援することはない。人の人生にも自分のそれにも、どこか無関心。

ただ、少なくとも本を読んでいる間は、その重苦しさを忘れることができました。

フランスにも一応、日本の本が置かれた図書館があり、週1回出かけては上限いっぱいの20冊を借りていました。家でひたすら本を読んでは、またあくる週に新しい本を借りてくる日々。

その甲斐あってか、授業で作文を書くと、先生からよく褒められました。海外で暮らしていたこともあり、言葉とはなにかよく考えるようになりました。

たとえば、フランスでは「蝶」も「蛾」もひっくるめて「papillon(パピヨン)」と呼びます。なので、日本人からするとあまり好ましくない「蛾」のことを、フランス人は「パピヨンだよ! キレイだね」なんて、肩にとまっても気にしないんです。

「そうか、この世界は、言葉によって定めされているんだ──」。

言葉というのは、おもしろいものだな。書くことは楽しいな。そう感じはじめると、世界がすこし違って見えてくるようになりました。「この世界って、あんまり好きになれないけど……どんなに居心地の悪い世界でも、自分の言葉で、好きな世界に変えられるかもしれない」。

中3になり、今度はアメリカで暮らすことになりました。そして、渡米から3年の月日が経った頃。テレビである広告を目にしました。

船の上で海兵たちが一列に並んでいる。スーパーヒーローみたいに、みんな筋肉隆々だ。光に照らし出された彼らのシルエットを背景に、最後はこんな言葉で締めくくられます。

「君もこの国を守るヒーローにならないか?」。

海軍の入隊希望者を募るCMでした。

「う……無理」。大袈裟に演出されすぎたそのCMに「ギャグみたいだな」と思った僕でしたが、翌日学校へ行くと、男子たちが異様に盛り上がっているんです。「あのCM観た?」「超カッコよかった!」「アメリカ海軍に、俺はなる!」みたいな。そのうちひとりは、その後、実際に入隊していました。

すっかり色めきたつ彼らの様子を見て、僕はハッとしました。言葉には、世界を規定する力がある。そして、知ったんです。その言葉とタッグを組む広告には、人を動かす力がある、と。

予算をかけた派手なCMよりも、アイデアのあるCMに惹かれた

営業としての1年目を経て、2月、転局試験が行われました。受かるのは、同期180名のうち20名。試験は「写真で一言」のようなアイデア出しや、クライアントを想定した企画提案など。

研究が実を結んだのは、試験そのものよりも面接でした。「君はどのCMが好きなの?」という質問を受けたんです。帰国子女ということもあり、僕は日本のタレント事情に詳しくありません。だからタレントCMの良さがあまりわかっていない。膨大な予算をかけた派手なキラキラしたCMも、ニヒルに育った身としてはちょっとしんどい。そこで僕が選んだのは、超ニッチなCMでした。

海外のジップロック(のような)商品のCM。

白い空間に、チクタクと音を立てながら秒針を刻むコンパクトな置き時計があります。その時計をジップロックの中に入れると、「チクタク」のスピードが「チ…ク…タ…ク」と遅くなります。そこに締めの広告コピー。

「それは、時間をスローにする」。

衝撃を受けました。だって、このCMに予算なんてたぶんほとんどかかっていません。でも、「時計の効果音がゆっくりになる」という企画だけで、このCMのコンセプトも商品の素晴らしさもビビッと伝わってきました。

「うわ、こんなCMつくりたい!」。

面接でも、滔々(とうとう)とこのCMの素晴らしさを語りました。すると、審査員が言いました。

「確かに予算をかけなくても、やっぱりアイデアが大事ですよね。その通りだと思います。よくこのCMを見つけてきましたね」。

後日、営業の先輩がニコニコしながら僕の席に近づいてきました。「澤田、おめでとう!」。なんと、クリエイティブ試験に合格したのです。

クリエイティブ試験に合格。でも、花開かなかったコピーライターの才能

配属されたのは、クリエイティブ局のコピーライター職。会社にはメンター制度があり、僕はあるコピーライターの師匠のもと、経験を積むことになりました。

師匠の言葉には、場をねじ伏せる力がありました。

「つまり、こういうことですよね?」。

お得意様との打ち合わせの席上、話を1時間ほど聞いたその場で、万年筆でサラサラっとたった1行の言葉を書いてみせるんです。すると、「そうそう! そうなんです!」「うわ、これでいろんな企画ができそうですね!」と方向性が見えてきて、その場が希望にあふれてワッとみんながひとつになるような、まさに「言葉のプロ」でした。

「この1行を書けるようになりたい──」。そう思って、必死に食らいつきました。でも、師匠からは「んー、イマイチなんだよなぁ」とダメ出しばかり。自分にも他人にも課しているハードルが異常に高い方でした。

その間にも同期たちは次々にアイデアを形にして、活躍しつつありました。

広告コピーが採用されて、大看板に広告が大きく掲出されている。描いた絵コンテが全国ネットの番組でCMとして放送されている。僕も彼らと同じように、同じフロアで、同じ時間に、コピーを書いたり企画しているのに。

この雲泥の差はなんなんだろう? あぁ、表現したいこと、伝えたいことがたくさんあるのに、僕はその土俵に立つことすら許されていないんだ。

僕には、才能がなかったんだ──。

はじめて広告が掲載された日、僕は山手線に乗って1周した

鳴かず飛ばずどころか、「いたの?」レベルで存在感をなくしたまま1年が経ち……。どうしようと焦りが頂点に達していたとき、たまたまほかの先輩から声がかかりました。「ちょっとこの仕事を手伝ってもらえない?」と誘ってもらえたのは、サントリーの新商品の広告。お題は「新呼吸」という商品名の、酸素入りスパークリング飲料。

僕は当時、師匠から「1行」を認めてもらえていなかったので、逆に広告枠ギリギリいっぱいまで長文のコピーをしたためました。

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さえないビジネスマン(僕のよう)が動物園で観た「徘徊するシロクマ」に自分を投影し、衝動的にタイへと降り立つ物語です。

その長文に、「クルンテープ・マハーナコーン・アモーンラッタナコーシン・マヒンタラーユッタヤー・マハーディロック・ポップ・ノッパラット・ラーチャタニーブリーロム・ウドムラーチャニウェートマハーサターン・アモーンピマーン・アワターンサティット・サッカタッティヤウィサヌカムプラシット」という、タイの首都バンコクの正式名称を5回も入れました。

今2、3行読み飛ばしましたよね?

というわけで、広告紙面の下には「つい、読み飛ばした。そんなあなたは酸素不足かも? 酸素でスッキリ、飲む深呼吸、酸素入りスパークリング『新呼吸』新発売。」と案内文を加え、かくして2006年6月、僕のデビュー作が世に放たれました。

全国紙の新聞全5段広告と電鉄各社の車内広告。

当日、山手線に乗ってみると、いきなりジッとその広告を見ている人に出くわしました。「一生懸命つくったけど、スルーされるかな……」。その視線の行方を追ってみると、「クルンテープ・マハーナコーン……」と何度目かに出てくるあたりで、ニヤリとしている。

瞬間、「伝わった!」と震えました。

伝えるってむずかしいじゃないですか。届けるってむずかしい。

でも、その瞬間はまるで、人間社会と僕がようやく、正式に契約を結ぶことができたような感覚でした。うれしくてうれしくて、僕はその車両に乗ったまま山手線を一周しました。

2021年2月発売『マイノリティデザインー弱さを生かせる社会をつくろう』澤田智洋(ライツ社)
第一章 「マイノリティデザインとは何か?——広告から福祉へ。「運命の課題」との出会い」より抜粋




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