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『一遍聖絵』を何度でも読んでみる③「河野四郎通信(みちのぶ)」〔巻第一・第一段〕

 一遍は「河野四郎通信が孫」です。その河野通信は、『国史大辞典』にも項目が立てられているほどの有名人です。

 鎌倉時代前期に活躍し、伊予国河野氏の素地を築いた武将。一遍の祖父。通称は四郎、出家して観光と号す。保元元年(一一五六)生まれる。父は通清。源頼朝が平氏討伐のため挙兵すると、養和元年(一一八一)通信は父通清とともに本拠の伊予国風早郡高縄山城(愛媛県北条市)によって呼応し、まず平維盛の目代を追放した。しかし伊予国内外における平氏の与党の総攻撃をうけ、通清は同城に敗死した。通信は体勢をたてなおし、侵入していた備後国の西寂をたおし、阿波国の田口成直(則良)を伊予国喜多郡比志城(大洲市)に撃破して、主導権を握った。源義経が西下した時、通信は軍船を率いて屋島に赴き、海上から平氏を攻撃した。さらに壇ノ浦の戦では通信の軍船が中堅となって活躍した。鎌倉幕府の成立後、通信は御家人となり、頼朝の奥州征伐にも従軍した。源氏の将軍が三代で断絶し、執権北条氏の権勢が強大となると、通信の心は幕府から離れ、その子通政・孫通秀らは西面武士として院庁に仕えた。後鳥羽上皇の召に応じて上京していた通信は、承久の乱(承久三年(一二二一))に広瀬の戦に参加したが、京都側は大敗した。通信は通政らとともに帰郷し、高縄山城によって反抗を続けた。しかし幕府の遠征軍の包囲をうけて陥落し、通信は負傷して捕虜となり、奥州平泉(岩手県西磐井郡平泉町)に配流された。通政は斬られ、所領の多くは没収され、その勢威は衰えたが、通政の弟通久がひとり関東側に与したため、同氏の命脈がようやくつながった。通信は貞応二年(一二二三)五月十九日配所で没した。六十八歳。大正五年(一九一六)贈従五位。

 父・通清とともに源頼朝の挙兵に呼応、父が戦死するも源氏方として戦いを続け、屋島や壇ノ浦では軍戦を率いて源義経に加勢しています。鎌倉幕府の成立に功績のあった通信でしたが、承久の乱では後鳥羽上皇側につき、河野氏は没落します。

 『一遍辞典』(今井雅晴編、平成元年九月、東京堂出版)によれば、「通信は北条時政の娘・やつを妻としたといわれ」、この谷の子が、承久の乱の際に幕府方についた「通久」だということですが、「北条氏側の史料や系図には、谷の名は全く出てこない」ために、「谷の素性について多少の疑念がないわけではない」としています。

 通信と一族が「後鳥羽上皇へ接近していった」理由としては、「河野氏はもともと朝廷との結びつきが強かったこと」と「通信の幕府のあり方への不満感」(北条氏の独裁体制への不同意)の二つが『一遍辞典』にはあげられています。 
 後者については、小説『死してなお踊れ 一遍上人伝』を書いた栗原康さんが、鎌倉の地で一遍が「おじいちゃん」の思いを胸に北条家に激情をぶつける場面があったりと、そうした通信の動機(や一遍の思い)を一遍関係の本でいくつか目にした気がするのですが、果たしてどうなのでしょうか。

 私は史学科出身ではないので、なんでもかんでも〝史料を出せ〟とは言いませんが、疑り深い性格ではあるので、一方でそうだろうなと思うし、一方でどうなのかな(河野氏みたいな武士はたくさんいたのだろうから、一遍が自分の一族ばかりのことを思って行動したのかな…?)と思ったりするのです。
 ただ、河野一族をめぐる問題を抜きにして『一遍聖絵』を読み進めるのはできないのだろうというのを、ここ数年で強く感じています。なんといっても、この絵巻の制作者も河野氏出身の聖戒(一遍の異母弟)なのですから…。

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