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『一遍聖絵』を何度でも読んでみる④「同七郎通広 出家して如仏と号す」〔巻第一・第一段〕

 『一遍聖絵』冒頭での「一遍ひじり」の紹介では、祖父・通信に続いて父・通広の名が次のように示されます。

 「一遍ひじりは、……(=河野七郎通広出家して如仏と号すが子なり
 ※( )は筆者挿入。〔 〕は割注。

 『一遍辞典』(今井雅晴編、平成元年九月、東京堂出版)によれば、「通信には、七人の男子があった」とされています。承久の乱で、「河野一族は通信をはじめとして、そのほとんどが朝廷方に味方した」のですが、母(北条時政の娘であると言われる)とともに鎌倉に住んでいた通久だけが幕府側に参加して手柄を立て、「河野の名を残すことと、その家督を継ぐことが認められ」ました。
 そして、「いったんは捕らえられたが、のち赦免された」のが、通信の四男(一説に三男)で、一遍の父である通広でした。通広は、「すでに出家していたのか、あるいは何らかの理由で戦いに参加しなかったとも考えられる」とあります。

 『一遍読み解き事典』(長島尚道ほか編著、二〇一四年五月、柏書房)には、「西面の武士であったが、病弱のためか承久の乱以前に帰国していて難を免れ、宝厳寺ほうごんじ前の塔頭十二坊中の一つに隠棲し、如仏にょぶつと号していたという」と、さらに詳しいことが記されていました。
 私は、研究を続ける上で様々な事情や障害が生じて、修士論文執筆以降は十年おきくらいに研究を再開していたような状態でしたので、その間にも、真摯に一遍や河野氏の研究に向き合っていらっしゃった宗学と歴史学の研究者の方々には感謝しかありません。

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