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「鬼滅の刃」を〝見てはいけない〟という人たちの理由—―作者の思いはどこにある?(2021年1月8日メルマガ)

写真は、「鬼滅の刃」のキャラクターの折り紙。後ろの男性が学童保育で子どもたちに指導して作っているそうです。子どもたちの笑顔になごみますね(2020年12月11日午後4時9分、兵庫県丹波市氷上町で(丹波新聞社))。

 新年が始まりましたが、「鬼滅の刃」人気は衰えそうもないですね。映画の興行収入ランキングも歴代1位になったということです。

 私はと言えば、絵があまり好きでなくて原作を読むのもアニメを見るのもしていなかったのですが、周囲の人があまりに評価するので、妹にアニメをDVDに焼いてもらって見たところ……ハマりました。映画も初日の初回で見ました(原作は残念ながらまだ読めていません)。

 主人公の炭治郎と伊之助が特に私は好きです。炭次郎は心がとてもきれいだし、伊之助はとても正直だと思います。フィクションだから描ける人物だとしても、そうありたいと願うのは否定されないと思います。

 偽りても賢をまなばむを賢といふべし。(『徒然草』第八十五段)

 この作品を見ないからダメだとかいうのはありえませんし、見たけれども好きでないというのももちろんあると思います。鬼の姿や殺戮の方法のグロテスクさ、剣で首を切り落とさないと鬼は消滅しないといった場面はやはり怖いと思います。

 炭治郎の家族が鬼に惨殺されて始まるアニメの第一話には正直、呆然としました。しかし、その悲しみを胸に秘めて鬼に対峙する炭治郎の強さと優しさに、私は彼に斬られた鬼同様救われる気がするのです。

 ↓ この記事もぜひ参考にしてくださいね。

https://article.yahoo.co.jp/detail/d794db998f7ba924dbf70f1d42e4ebお86e73a424a

 スピリチュアル界には、描いているテーマなのか絵柄なのか、見ると地獄に落ちる作品だとか言って、自身のブログの読者や動画の視聴者数を増やしている人もいるそうです。

 ーー何を考えているのだか。

 手前勝手な都合で作品の本質を歪め、人を不安にさせているとしか思いません。自分ではない存在がそう言う(?)のだとかいう輩もいるらしいのです。確かに、仏教には「順縁」「逆縁」という考え方があります。まっとうな救済の方法もあれば、ショッキングな見聞や出来事、望ましくない自身の体験から誠の道へと向かう人もあるというものです。「鬼滅の刃」の作品そのものが「逆縁」になる人はあるとしても、見も知らずの不特定多数の他人まで不安にさせることは、相手にとっての救いになるのでしょうか?

 (冒頭の写真、折り紙のかわいいキャラクターと子供たちの笑顔が物語っています。)

 そこで思い出したのが、ずいぶん前のことにはなりますが、比叡山で僧侶をしている友人との会話でした。

 アメリカの有名なモダンアート作家が、比叡山で展覧会をしたいというオファーを受けるべきか否かについて、新聞記者の友人と私とで何気なく相談をされました。どんな作品なのかと二人で聞いたところ、遠くから見ると普通の絵なのだけれどもそれはすべてハエの死骸で構成されていたり、アクリルの透明なデカい箱に使用済みの注射器が入っていたりだとかで、ニューヨーカーは熱狂しているし、いいかな……と。

 私は "それ、ゴミじゃないですか?" と言い、新聞記者の友人は "比叡山の神聖な地を汚すという邪悪な野望があるだけだからやめとき" といった主旨のことを言いました。私たちが反対したからではないと思いますが、その展覧会は実現していません。

 「鬼滅の刃」が、鬼のグロテスクさを興味本位で描いたり、炭治郎が単なる復讐者であったら、私も作品を支持しませんし、こんなにたくさんの人が映画館に足を運んで涙しないと思います。

 醜悪な鬼の多くがかつては人間であり、切実な願いや報われない思いの中で鬼となってしまった。対する炭治郎は家族を鬼によって失いながらも、鬼のその悲しみにも気持ちを通わせる。だからこそ、私たちは状況は違えども困難な時代にあって、彼らに共感を覚えるのだと思います。

 「鬼滅の刃」については、他にも興味深い記事や自身の考えもあるので、またお話できればと思います。

 「物語」は時代の写し鏡です。日本人(だけではなく)のこれだけ多くの人が熱狂する作品には、信じられないほどのたくさんのメッセージが込められていると私は考えます。

〔原題「「鬼滅の刃」のことも話してみたい。(そして、比叡山の友人からかつて聞いたモダンアートの話を思い出す。)」〕


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