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『一遍聖絵 』―名場面ハイライト4「他力本願の深意」―(2013年9月9日)

 かつて、熊野の信仰についての展覧会が都内の某美術館で開催されたことがありました。そこに、熊野で成道した一遍の肖像も、熊野の歴史としては当然のものとして展示されていました。…が、私の目の前でその絵を見ていた老夫婦が「一遍って誰?」「熊野に関係があるの?」と言ってお話をされていました。
 私は、一遍のマイナーぶりがあまりにも不憫に思えて、「一遍は鎌倉新仏教の教祖の一人で、熊野で悟りを得ているんですよ」と一言お伝えし、振り返ったお二人が「え!?」みたいな顔をされているうちに、ダッシュでその場を立ち去りました。
 当時の私は若かったので、恥ずかしくてそれが精一杯でしたが、今ならば相手の方が違う意味で困惑してしまうくらい、一遍について語ると思います。

 さて、熊野では一遍の身に何が起こったのでしょうか。『一遍聖絵』を見てみましょう。

 前回の本ブログで紹介したとおり、一遍は「予州浮穴(うけな)郡」の「菅生(すごう)の岩屋」での厳しい修行を終え、天王寺に出て来ます。絵巻の絵を見ると、一遍は人々に念仏札を配っています(札を配ったのは、天王寺が初めてだと言われています)。

 天王寺から高野山、そして熊野に入り、行き来する人々に念仏札を配っていたその時、「一人の僧」が札の受け取りを拒否するという事件が起きました。
 「一念の信をおこして南無阿弥陀仏ととなへて、このふだをうけ給べし」
 一遍は札を受けるよう僧にすすめます。すると僧は、こう言ってのけたのです。

 「いま一念の信心おこり侍らず、うけば妄語なるべし」

 ――この場面が、ミニプリントの『一遍聖絵』の絵に相当します。画面の左側に描かれた、少し困ったような顔(に私には見えます)をしている僧が「一人の僧」です。一遍と同行者は画面の右側です。

 「妄語」とは嘘をつくことで、仏教では大きな罪になる行為です。きっと一遍は虚をつかれた思いだったことでしょう。
 〝え…仏教を信じていらっしゃらないのですか? どうして受け取っては下さらないのですか?〟〝いや、教えを疑ってはいなくても、信心が起こらないのだから仕方がない〟
 ――〝もめごとか?〟〝俺、もらっちゃったけど返そうかな…〟なんて感じだったかと思うのですが、人が集まってきました。

 一遍、ピーンチ!! ――〝このままでは、誰も札を受け取ってはくれなくなる!!〟

 一遍は、本心ではないけれども、〝信心が起きなくても受け取って下さい!〟と言って、僧に強引に札を渡します。様子を見ていた人たちも、ぞろぞろと札を受け取って行きました。

 しかし、一遍はこの事件を「この事思惟するに、ゆへなきにあらず」ととらえ、熊野の本宮証誠殿に「冥慮」、つまり、啓示を受けようという目的で籠もります。しばらくして、「白髪なる山臥(やまぶし)の長頭巾かけて」という人物が現れます。一遍にはそれが熊野権現だとわかりました。

 権現は何と言ったのでしょうか。

 「御房のすすめによりて一切衆生はじめて往生すべきにあらず。阿弥陀仏の十劫正覚に、一切衆生の往生は南無阿弥陀仏と必定するところ也。信不信をえらばず、浄不浄をきらはず、その札をくばるべし」

 〝お前さんがすすめるから一切衆生が初めて往生するわけではない。阿弥陀仏がはるか昔に、南無阿弥陀仏こそがすべての衆生を対象とした究極の救いであると決めたのであるから、信じるとか信じないとか、浄か不浄かなんていうのは関係なく、(南無阿弥陀仏と書かれた)その札を配っていけばいいのだ〟

 阿弥陀様の慈悲は、過去も現在も未来も変わらずに、誰をも、何かもを、救うのです。だから、信心が起こらないなどというのはまるで問題ではないのです。
 一遍は、阿弥陀仏の衆生に対する絶対愛、世界と生命の全受容・全肯定ともいうべき悲願を初めて思い知ったのだと思います。この後、新宮で聖戒にあてて手紙を書いた一遍はその中で、阿弥陀仏の慈悲は秘された意志であり、我々の「智」の及ぶものではないこと、救いが理屈ではないことを訴えます。

 「信」は、我々の側ではなく、すでに仏の側にあり、ただ我々は身をゆだねればいいという世界の究極の真理に一遍は至ったのだと言えます。
 このあと一遍は同行の妻子も捨てて、一人で伊予、そして九州へ向かいます。このことはすでに本ブログで記しました。

 「智」の傲慢さに犯されている人々が、この教えがわかる…いや(「わかる」は「理解」なので「智」の次元ですから正しい語ではありません)、まるごと呑み込むのは、相当困難があったろうと思います(おそらく、現代人もです)。

 「正しいからといって」受け入れられなかった理由がわかるような気がします。


 『一遍聖絵』本文からの引用は、聖戒編・大橋俊雄校注『一遍聖絵』(岩波文庫/2000年7月)による。


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