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『一遍聖絵』―名場面ハイライト1「正しいからといって」―(2013年7月29日)

 先に、『徒然草』の第八十五段についてのミニプリントを掲載し、段落の内容を論じました。

 プリントの下半分は、国宝『一遍聖絵』のワンシーンです。

 一遍といえば、「踊り念仏」です。踊っちゃったゆえに有名で、同時に、踊っちゃったゆえに日本史上あまり重要視されない…どころか、〝キワモノ〟扱いの人物です(ある生徒が一遍のことを〝踊っちゃって残念な人〟みたいに言っていたのが印象に残っています。しかし、一遍は〝キワモノ〟どころか日本思想史上の〝キレモノ〟であった(もちろん、踊ったことも含めて)というのが、『一遍聖絵』を読んでの、私の偽らざる思いです)。

 『一遍聖絵』といえば、長大な絵巻の絵の中から一部一部が、日本史の教科書を始めとする様々な場面で、〝一遍の伝記〟という本来の目的とは違う形で用いられ、有名になっています。確かに、『一遍聖絵』が描く、当時の人々の生活の様子の詳細さには驚くばかりです。しかし、『一遍聖絵』の詞書の筆者である聖戒(しょうかい)の訴えたいところはそこではないのです(と言いつつ、見るだけでもいいんだ!という切なる思いも、この絵巻には込められています。本ブログにおけるこの新シリーズで順を追って見ていくうちに、詳しく触れられることもあるかと思います)。
 聖戒という人は、一遍の異母弟とされている人なのですが、文章がとても上手です。鎌倉時代の文章でそんなのがわかるのか!?という人もあるかと思いますが、わかります。彼は、一遍を描写するのに当時の様々な文章を引用し(引用した文章の豊富さ、引用の使い方も絶妙)、引用以外のところ(これらが聖戒自身の文章に相当します)は、実に無駄のない、テンポの良い筆致です。私個人としては、絵のみならず文章もまさに国宝級と信じて疑いません。…が、文章ではなく書かれている内容が難解です。なんたって、念仏唱えて踊っちゃった人の伝記ですから(笑)。
 しかしながら、我々読む側に一種の偏見や思い込みがあって、正しい読みを困難にさせている可能性も強いです(どうかみなさん、古文を読む時は、現代の価値観は一度捨て去って下さい。聖戒だけでなく、多くの古文の筆者が泣いているかもしれません!)。

 さて、前置きが長くなりましたが、プリント1枚目の絵に戻りたいと思います。左の僧が一遍で、柄の悪そうな三人が一遍に対峙しています。

 一遍の究極の教えは、信じる必要もないから「南無阿弥陀仏」と一回唱えればいいというものです。これについては、熊野に参詣をした時に、熊野権現からお告げを受けて、以後、揺らぐことのなかった一遍の思想の核となるものでした。
 熊野成道後、一遍はまず、熊野に同行していたわずかの者たち(出家して一遍に付き従った妻子と言われています)も捨て、自分の身内を救おうと単身、故郷・伊予へ向かいます。伊予中巡った後は、九州へ渡ります。九州にかつての師がいました。伊予と同じく、九州中も人々に布教して回ります。
 しかし、どうも『一遍聖絵』を読む限り(ずばりは書いてないのですが)、身内にも、かつての師にも、一遍は理解されなかったようです。身内や師に理解されないのですから、一般の人々であればなおさらです。ことに九州での布教活動は悲惨でした。着る物もなく裸同然でいたのを、一遍とすれ違った僧が気の毒に思って破れた袈裟をくれたので、一遍はそれを腰に巻いて、ただもう念仏を勧めて先へ先へと急いだようです。
 ――ちょっとこわくないですか。「鬼気迫る」と言えば聞こえがいいのですが、どうみても〝いっちゃってる〟感じの僧が、自分たちの村をうろうろして、「南無阿弥陀仏」とか言っているのを想像してみて下さい。

 ここで大事なのは、いくら正しいことでも、その方法が正しいのかを振り返ってみる必要性です。おそらく、熊野で神秘的な体験をした一遍は、これで人々を本当に救えると信じて疑わなかったのでしょう。急がなきゃと焦りもしたのでしょう。その余裕のなさ、そして、良いスタートが切れず、理解されないままにますます内にこもっていく様子、熊野権現にお告げを頂いた時の明るく、まっすぐな気持ちをも失っていただろう様子、想像に難くありません。

 そんな一遍でしたが、九州を出ようとした時に、土地の有力者の帰依を受け、さらに(聖戒以外の)初めての弟子である他阿弥陀仏・真教(たあみだぶつ・しんきょう)と出会います。私はいつもこの記述を読むとほっとしてしまいます。――よかったね、一遍。間違ってなかったんだよ!
 ここで真教以外の弟子も七、八人続きます。そうして九州を出て、厳島を経てやって来たのが、「備前国藤井」という所でした。この土地で一遍は、「吉備津宮の神主の子息」の「妻女」に念仏を勧めたところ、一遍の話に感動した彼女は夫が留守の間に出家してしまいます。やがて夫が帰宅し、穏やかな顔をして尼姿になっている自分の妻を見てビックリ!
〝クソ坊主、殺す!〟とばかりに家を飛び出し、「福岡の市」で念仏を勧めていた一遍に追いつきます。――そうです、プリントのシーンです。

 「備前国藤井」「吉備津宮」「福岡の市」は、いずれも現在の岡山県内です。


 しかし、一遍に「汝は吉備津宮の神主の息子か」と一言尋ねられた彼は、そのままへたへたっと怒りも力も失せてしまい、一遍のもとで出家します(聖戒は〝昔の僧侶の中にも、殺されそうになったのに逆に相手が出家を遂げたという例があって、一遍も今そういう事態になっている〟ということを述べます)。
 おそらく「吉備津宮の神主の子息」事件で一遍の評判は高まり、「二百八十余人」が、この地で出家をしました。――九州での一遍とまるで様子が違うのがわかりますか。身内や師にですら理解されなかったものが、時が経って、いまや自分を殺そうとしてやって来た人間までをも救い、導いてしまったのです。

 正しいことでもそれを伝えるふさわしい方法があるのと同時に、時を待つ必要があることを『聖絵』はより強調しています。正しいことであれば、焦る必要はないのです。
 もう一度、『一遍聖絵』の絵を見て下さい。「吉備津宮の神主の子息」たちに向き合う一遍の姿・表情は、殺気立つ彼らとはまるで対照的です。殺されるかもしれないという恐怖ですら入り込む余地もないほどに、一遍の全身全霊は、念仏の真実に満たされ、揺らぐことがなくなったのでしょう。


 『一遍聖絵』本文からの引用は、聖戒編・大橋俊雄校注『一遍聖絵』(岩波文庫/2000年7月)による。


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