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『一遍聖絵 』―名場面ハイライト3「一遍はいたって真面目」―(2013年8月26日)

 本ブログでン先に、『徒然草』の第百五十段および第六十八段についてのミニプリントを掲載し、プリントの下半分では、それぞれ国宝『一遍聖絵』のワンシーンを掲載しています。

 さて今回は、「『徒然草』―名言ハイライト3 第百五十段―」下の『一遍聖絵』の絵について解説を加えたいと思います。

 一遍は、伊予(現在の愛媛県)・道後の生まれです。
 先日、一遍上人立像が誕生寺である宝厳寺(ほうごんじ)もろとも焼失してしまったニュースをご覧になった方もあるかと思います。正岡子規の「色里や 十歩はなれて 秋の風」という句でも有名なお寺で、もう何年も前になりますが私も実際訪れてみました。安い酒と香水の匂いが漂ってきそうな“昭和な”雰囲気漂う坂道(「ネオン坂歓楽街」が一応正式名称のようです)を抜けたところにそのお寺はありました(また、そういう怪しげな土地に誕生寺があるということが、一遍のイメージダウンにつながっているとも言えるでしょう…)。

 本ブログで初めて『一遍聖絵』について触れた時にも記しましたが、“一遍=踊り念仏=普通でない”といったイメージは、日本史を一通り勉強した人たちの持つイメージとして定着してしまっているかのようなところがあります。

 しかし、そのイメージは本当に正しいのでしょうか(我が国の歴史の教科書に載る人物なのですよ!)。――『一遍聖絵』を読んでみましょう。

 十歳で母と死別した一遍は「父の命をうけ、出家をとげ」ます。そして、十三歳になった時に「僧善入」と連れだって九州への修行に出て、「大宰府の聖達上人」のもとへやって来ます。それが、プリントの左の絵です(「15歳」と書いてあるのは、私のとんだ間違いです。「13歳」が正しい年齢です)。

 その時、聖達上人は「学問のためならば、浄土の章疏文字よみをしてきたるべきよし」を示したため、一遍は「ひとり出て肥前国清水の華台上人の御もとにまうで給き」とあります。
 一遍は、華台のもとで「一両年研精修学」するのですが、一遍が大変聡明であったために華台は、「法機のものに侍り、はやく浄教の秘賾をさづけらるべし」と判断し、十六歳の春、一遍はまた聖達上人のもとに送り返されます。それから「首尾十二年、浄土の教門を学し、真宗の奥義をうけ」、父の死をきっかけに伊予に戻ります。

 聖達、華台は、ともに証空の弟子とされています。証空とは、法然の有力な弟子の一人です。実は、一遍の父・河野通広(こうのみちひろ)も出家名を如仏(にょぶつ)と言い、一時期、京都の証空のもとで、聖達や華台とともに学んでいました(一遍が華台を訪ねた際、最初は一遍に“何しに来た”という態度であった華台でしたが、一遍が事情を話したところ「さてはむかしの同朋の弟子にこそ」と言い、喜んで一遍を迎えています)。

 これでわかるのは、一遍が経典を解釈するための基礎的な学問(いわゆる座学ではないかと思います。華台はこちらが得意分野だったのでしょう)を修め、さらに浄土の教えの真髄となる部分(体得するようなものではないかと思います。一方の聖達はこちらが得意分野だったのでしょう)を極めているのです。
 伊予に戻ってからの一遍には紆余曲折があり、果てに「踊り念仏」に至ったという衝撃ゆえに私たちは見落としがちですが、一遍は法然の教えをしっかりと受け継いだ弟子を師として、完璧とも言える教育を受けているということです(しかも、一遍自身が相当に優秀な人物でもあったのです)。

さ て、右の絵に話題を移したいと思います。
 一遍は伊予で何らかの事情があって八年ほど「半僧半俗」のような生活を送っていたのですが、ある時、思い立って善光寺に参詣、伊予に戻って窪寺にこもり、その後、「予州浮穴(うけな)郡」の「菅生(すごう)の岩屋」で厳しい修行を行います。絵は「菅生の岩屋」での一遍を描いています。梯子の真ん中あたりに、一心に頂上を目指す一遍がいます。

四国八十八ヶ所霊場会公式ホームページ 愛媛県(伊予)の霊場 海岸山 第45番札所 岩屋寺


 残念ながら私は岩屋寺を訪れた ことがないので写真を見比べた限りということなのですが、上記のホームページの写真だと、岩肌のごつごつした様子が絵と一致しているのがわかると思います。個人のホームページなどを検索してみると(個人所有の写真等を許可なく掲載するのはいけないことなので掲載しませんが)、この絵を思わせるような山の険しさが際立つ写真もいくつか見られます。(「四国八十八ヶ所霊場会公式ホームページ」の写真は、一般人でも行けるそれほど危険ではない所のみ紹介しているのでしょうか?)

 「このところは観音影現(ようげん)の霊地、仙人練行(れんぎょう)の古跡なり」とあり、一遍は『一遍聖絵』の筆者である聖戒のみを供として、一途に修行に励みます。「霊夢しきりに示して感応これあらたなり」という一遍は、この後、教科書にも載せられている(はずの)「遊行」「念仏札」といった布教を行い始めます。

 ここでわかるのが、一遍は独りよがりの修行を行ってはいないということです。由緒のある修行場で、古来の修行者と同じように自分を律して修行を行うゆえに、一遍は宗教者としてのレベルアップを遂げているのです。そして、これは私の研究の課題の一つでもあるのですが、一遍の布教の方法はおそらく、日本の土地に根ざしながらも(歴史的に何らかの由来を持ちながらも)一方で、一遍の生きた時代の人々の感性に合うようなものではなかったかということです。それらについて、一遍は修行を経て何らかのインスピレーションを受けている(「霊夢しきりに示して感応これあらたなり」)ようなのです。

 “一遍=踊り念仏=普通でない”というイメージが我々の思い込みでしかないのがわかっていただけたでしょうか。一遍を理解する正しい図式は、“一遍=真面目な修行者=「感応これあらたなり」=遊行・念仏札・踊り念仏といった布教法”ではないかと私は考えます。


『一遍聖絵』本文からの引用は、聖戒編・大橋俊雄校注『一遍聖絵』(岩波文庫/2000年7月)による。


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