見出し画像

【『逃げ上手の若君』全力応援!】㊱田楽と戦う女性と…そして、「素直」こそ中世最強の武器なのか!?

 南北朝時代を楽しむ会の会員の間でも話題騒然の週刊少年ジャンプ新連載『逃げ上手の若君』ーー主人公が北条時行、メインキャラクターに諏訪頼重! 私は松井優征先生の慧眼(けいがん=物事をよく見抜くすぐれた眼力。鋭い洞察力。)に初回から度肝を抜かれました。  鎌倉時代末期から南北朝時代というのは、これまでの支配体制や価値観が崩壊し、旧時代と新時代のせめぎあいの中で、人々がそれぞれに生き方の模索を生きながらにしていた時代だと思います。死をも恐れぬ潔さをよしとした武士が〝逃げる〟という選択をすることの意義とは……? 〔以下の本文は、2021年10月24日に某小説投稿サイトに投稿した作品です。〕


 『逃げ上手の若君』第36話冒頭、亜也子のリードで「田楽」に興じる小笠原の武士たち、楽しそうですね。ーーうるさいと思っているのは、貞宗と市河と赤沢だけ……。
 時行のお父さんである北条高時も夢中になったという「田楽」。どのようなものだったのでしょうか。

 平安時代から行なわれた芸能。もと、田植えの時に田の神をまつるため笛・太鼓を鳴らして田の畔で歌い舞った田舞(たまい)に始まるという。やがて専門の田楽法師が生まれ、腰鼓・笛・銅拍子(どびょうし)・編木(びんざさら)などの楽器を用いた群舞と、高足(たかあし)に乗り、品玉を使い、刀剣を投げ渡しなどする曲芸とを本芸とした。鎌倉時代から室町時代にかけて田楽能を生んで盛んに流行し、本座・新座などの座を形成し、猿楽(さるがく)と影響しあった。のちに衰え、現在は種々のものが民俗芸能として各地に残っている。〔日本国語大辞典〕

大山寺縁起田楽

〔『大山寺絵巻』田楽法師が笛や鼓、腰鼓をもって囃す様子を描く (早稲田大学演劇博物館HPより)〕

 亜也子の右手には笛、左手にはバチで腰に太鼓、編木(びんざさら)を左手首および腰か腰の太鼓かに固定しているのでしょうか(編木とは、南京玉すだれみたいな形状ですが、楽器です。南京玉すだれがもはや死語ですか(笑)。パタパタとさせて板を打ち合わせて音を出すそうです)。そして、シンバルみたいな銅拍子(どびょうし)という楽器もあるようですが、金属系の音は左ももの鈴で鳴らしているのかもしれませんね。

 上記の説明にも「現代は種々のものが民族芸能として各地に残っている」とありますが、「田楽」で動画を検索しても、おそらく今に残るものは〝毒気〟が抜かれている気がします……。人々が熱狂する要素が見受けられません。
 よって、「クラブ音楽ミュージック」にたとえるのはさすが松井先生、と思いました(あるいは、時代考証をされている方の感性だとしても、わかりやすいたとえですね)。

**********************************

 それはそうとともかく、亜也子ちゃん、かっこよくてかわいかった! 時行や小笠原の武士たちじゃなくても、思わず胸がキュンとなってしまいました。成長したら「強く美しい武将になる」と時行に思わせる彼女ーーでもなんだか、現代でそのように(「強くて美しい〇〇」などと)言われている女性とはちょっと違う……?

 作品中に次のような解説が挿入されていました。

 信濃(長野)の忠臣 巴御前ともえごぜん
 越後(新潟)の反乱の将 板額御前はんがくごぜん
 遠江(静岡)の女領主 井伊次郎いいじろう
 本州中央部の各地には戦う女性の記録が残っている

 巴御前については前々回のこのシリーズで取り上げました。

 「井伊次郎」は、柴崎コウさんが演じた2017年の大河ドラマ『おんな城主 直虎なおとら』で有名です。最初は興味のなかった私ですが、ドラマがとても面白かったので、浜松とそのゆかりの地に足を運んだくらいです。

井伊次郎法師(いい-じろうほうし) ?−1582
戦国-織豊時代の地頭。
戦国大名今川氏の重臣井伊直盛の娘。父は桶狭間(おけはざま)の戦いで戦死,跡をついだ養子直親(なおちか)も今川氏真(うじざね)に謀殺されたため家督をつぐ。「女にこそあれ井伊家惣領に生候間」と「井伊家伝記」にしるされている。天正(てんしょう)10年8月26日死去。
〔日本人名大辞典〕

 「板額御前」は名前だけは知っているくらいでしたが、辞書ではこんなふうに紹介されていました(ジャパンナレッジでは、人名での項目が立っていなかったので、「鳥坂城跡」の項目より一部引用しました)。

鳥坂城跡(とつさかじようあと) [現]中条町羽黒
平安末期以降、秋田城介の流れをくむ城氏により築かれたらしい。「吾妻鏡」建仁元年(一二〇一)五月一四日条によれば城小太郎資盛は「越後国鳥坂」に城郭を構えて鎌倉幕府に背き、幕府は上野にいた佐々木盛綱に追討を命じた。盛綱の軍勢は鳥坂口へ押寄せたが、城に拠る兵のなかでもとりわけ資盛の叔母板額御前の働きによりなかなか城は落ちなかった。そこで信濃国住人藤沢清親が背後の山から板額を射て傷を負わせて捕らえ、まもなく城は落ちた。板額は鎌倉へ護送され、のち阿佐利義遠ののぞみにより義遠へ引渡されたという(同書六月二九日条)。
〔日本歴史地名大系〕

 巴御前も井伊次郎も板額御前も、共通しているのは、主君や家、守るべき人たちのために、自分の持つ能力を最大限生かしたという点ではないでしょうか。

 ※文中の「与一」とは「浅利与一」のこと。先の「鳥坂城跡」の引用文中にある「阿佐利義遠」のことかと思われます。

 また、大河ドラマでも直虎の切ない初恋が描かれていましたが、一方で、創作であるという面を存分に生かして、彼女の周囲には、彼女を慕う実に個性的で頼もしい男性がたくさん集まっていたのが、なかなか痛快で印象に残っています。
 板額御前も、熱烈に彼女を思って妻にした男性がいるのですね。

 現代女性の持つ権利や自由に比べたら、旧時代的だと否定的な考えを持たれる方もあるかもしれません。しかし、私はそれでも、彼女たちが不自由で不幸だったとは思えないのです。
 亜也子はこう言っています。

 「身に付けた技の全てを使って若様を護る そして」「護った後で若様の子をたくさん産むの!

 これ、計算ではないですよね。もちろん、男性目線(例えば、亜也子の父親の立場)で言えば、結婚は政治的な側面がおおいにあるわけですが、女性本来の幸せはそことは別のところにあると考えています。
 同時にそれは、〝男や家や子どものために自分を犠牲にするなんてありえない〟という次元で論じる話でもないということです。確かに、持って生まれた才は人それぞれですし、それを自分のために使うのが近現代的な人権というものなのかもしれません。
 しかし、女性が自己の資質や才能を生かして、自分が守りたいと思う人たちのために一途であること、好きな男性(好かれた男性)に添い遂げたい(添い遂げたい)と思う素直さは、現代の私たちの社会が持つ価値観をもって、安易に判断をくだすことのできないところだと思うのです。

**********************************

 先日、北条時行を長年研究されている先生のお話を伺うことができました。のちに時行が足利尊氏に挑んだ中先代の乱という戦いが起きた時、時行はおそらく六歳、小学一年生くらいではなかったかということでした(作品の年齢をさらに下回った予想!)。

 すると時行は、頼重をはじめとする諏訪氏の傀儡かいらいだったのかということに考えが及びます。しかし先生は、時行が嫌だと言えば大将に据えることはできなかったであろうということを述べられ、どの場面でも時行の意志はあったはずとおっしゃっていました。ーー私も同じ考えです

 前回、時行のピンチの際に亜也子が席を外したのは、頼重の未来予知か洞察力かどちらかはわかりませんが、しっかり策を授けられてのことだったことが今回明らかになりました。頼重は、時行VS貞宗の犬追物勝負の時もそうでしたが、策は授けるとも、自分から具体的に何かをするということはありません。時行と郎党たちを保科弥三郎への使いに出した時も、みそぎはすれども、ひたすら彼らを信じていました。

 もし、時行がさといけれどもそれゆえに疑り深い子どもであったら……?
 諏訪頼重のことを、彼自身とその一族の欲望を満たそうとするために、単に自分を操って利用しているのだと時行が疑い始めたら、どうなるでしょうか。亜也子に対してだって、単に彼女が家の栄達や彼女の虚栄心を満たすのための存在としか自分を見ていないという勘ぐりを時行が始めたらーーもう、我らが主君・北条時行ではないですよね(ここをクリアしたからこそ、玄蕃も時行の郎党になったわけですし……)。

 時行は、第一話の摂津清子については、そういう女の子だと見抜いて、距離を置いて逃げまくっていました。
 もし、頼重が彼自身と一族のためだけに時行を利用するのであれば、これほど回りくどいことをわざわざ時行や郎党に(策まで与えて)、体験させたりはしないはずなのです。ーー時行は素直な心で真実を見抜いています。

画像2

 当時の人々の純粋な信仰心を、「正直(せいちょく)」とか「素直」という語で表すことがあります。その心持ちやあり方自体が「神仏」だというのです。時行のそれについては、すでに征蟻党編で瘴奸しょうかんがその身をもって思い知らされていますが、貞宗も市河にこう言いました。

 「人を疑う乱世においてあの素直さは余りに怪しい」「だが ああも素直では疑う方が野暮になるわ

 素直な人間の心持ちやあり方が神仏にも等しいとみなされていたのであれば、その人(しかも子ども)を殺すなんてあまりにも罰当たりで、したくはないですよね。ーー「野暮」という一言には、貞宗の純粋な思いまで感じ取れる気がします。

 史実でも、最期まで鎌倉を目指した時行は、素直で意志の強い人間だったと私は思うのです。
 女性である亜也子にも、一族を滅ぼされて頼重の庇護を受ける時行にも、その時代における最大限の選択の可能性と決定する権利があり、それぞれがその意志をもって、それぞれの人生を生きたと私は考えています。
 まっすぐな心が、その人の人生の価値を、その人自身で判断することを許したとも、私は信じているのです。

〔参考とした辞書・事典類は記事の中で示しています。〕


 私が所属している「南北朝時代を楽しむ会」では、時行の生きた時代のことを、仲間と〝楽しく〟学ぶことができます!


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?