あらためて問う、学びの意味(2020年4月1日)
5日前、22年間の教員生活にひとまずピリオドを打ちました。本心から望んだことではありませんでしたが、とうとうこの日が来たのかと、思ったより冷静に受け止める自分がいました。
三年間何かと面倒を見てくださった先生が私の荷物を車で運んでくれると申し出てくださり、本や書類を入れた段ボール箱3つと、大きなビニールバッグ1つに最後にロッカーから出したものだけ入れて、学校をあとにしました。
学校のあるベイエリアを一望し、桜の咲く多摩川を渡ってあっという間に地元に戻って来てしまいましたが、私はこの日を生涯忘れることはないでしょう。
しかし、世間はそんな私の感慨はよそにして、不気味な静けさを保っています。
何も起きないに越したことはないのです。先日、私の友人の僧侶が全山あげて祈祷したという記事をFacebookで見ましたが、誰かが誰かを思う祈りの力は、日本の国にとって大前提です(上皇陛下、天皇陛下も常におっしゃっていることです)。
その上で、多くの人がこの事態を冷静に受け止め、備えていてほしいと思うのです。パニックを起こして買い占めたり、ましてや高い値段で転売するなどというのは、もっての他だと思います。
民主主義は愚かなシステムだという人もいます。ルールを守らずに行動する人間が"利益"を得ることが可能なシステムだからです。とはいえ、教育の力で多くの国民が自分を律して、他者を思ってふるまうことができれば、システムは有効かつ多くの国民の利益に帰するものとして機能するのです。
コロナウィルス後の世界はこれまでとは違う価値観で進む世界になると予想している人は多いです。私もそう考える一人です。
その価値観は、わかちあいや共存・共栄の価値観であってほしいと思っています。思いやりの心である「仁」を説く孟子の思想は、個人の時代である現代にこそ必要であると、私の高校生の教え子は試験の答案に書いていました。次の世代を担う子どもたちは、真剣にそういう世界を望んでいるのです。
私も備蓄しておけばいい、免疫力を高めて感染しなければいい、などとだけ考えているわけではありません。仕事や収入、貯蓄、年老いた両親――心配がないわけではありません。ただの一(いち)日本国民ですし……(ただ、日本には古来より、困難な状況にも柔軟に生き抜く身体感覚や智慧が多く存在しているとは思っています。だから古典を学び、教え続けているわけです)。
世界中のひとりひとりが"生きる"ということに同じように向き合うことになった今、何が起きてもそれを受け入れて、しぶとく生き抜いていこうということを決めているといったところでしょうか。
そこで問われるのが学びの意味です。本当に子どもたちに必要な学びとは何なのでしょうか。あらためて問い直す自分がいます。――でも、ひとりです(もともとオタクですし、ひとりで思索するのは小さい頃から好きなので苦にはなりませんが、PCの前にひとりです)。
先生方は学校に仲間がいらっしゃいます。地域があります。お力を合わせてこの難局を乗り切れると信じています。
※ウェブリブログのサービス終了(2023年1月31日)のため現在、noteに記事を移行中。
※廃刊とした公式メルマガ「超一の国語教育」に連載していた記事の改訂・増補版。
※メルマガ「鳥取寺社縁起」に連載していた記事の改訂増補版(「因州摩尼寺縁起」は第16回で完結)。現在、メルマガは休止(廃刊予定)して、noteにて「因幡堂縁起絵巻」を連載中。
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