『一遍聖絵』を何度でも読んでみる⑧「僧善入とあひ具して鎮西に修行し」
『一遍辞典』(今井雅晴編、平成元年九月、東京堂出版)によれば、「|「|善入《ぜんにゅう》」の項目には次のように記されています。
生没年未詳。建長三年(一二五一)春、十三歳の一遍を大宰府の|聖達《しょうだつ》のもとへ連れていった僧。『一遍聖絵』第一巻第一段に出る。
つまり、善入はここにだけに登場する人物です。『聖絵』の絵にも描かれています。名前と絵を記しているあたり、いわゆる「モブ」ではないという考え方もできます。絵巻の享受者には必要な情報であった可能性は高いのかもしれません。
また、「鎮西」という語については、2020年の『時宗教学年報』にて、石塚勝氏の大変興味深い論考を拝見しました。
「西海道」は、京から西に向かう海路または海道、主として瀬戸内海の海路もしくはその沿岸の陸路の意であることを確認し、「鎮西」は、従来の理解通り九州として穏当であるが、新たに浄土宗鎮西義の意味を想定し、特に博多や九州北部に限られるのではないかと推測した(「一遍聖絵」所見の九州の地名」)
鎮西義(ちんぜいぎ)
専修念仏を唱導した法然房源空の教えをうけた聖光房弁長は、北九州を中心に布教伝道した。その弁長の主張した浄土宗義を鎮西義といい、教団を鎮西流と呼んでいる。鎮西義は、『四十八巻伝』(『法然上人絵伝』)巻四十六に「当世筑紫義と号するは、かの聖光房の流にて侍るとなむ」と記しているように、筑紫義と同意に用いられている。弁長から法燈を伝えられた良忠は、関東を中心に布教し、その門流は白旗・名越・藤田・一条・三条・木幡・一向の七流に分かれ、このうち白旗派の祖寂恵良暁が鎮西流の正統を継承したため、浄土宗の正流を鎮西白旗流と呼ぶようになった。教義の特色とするところは、源空の教えをもとに念仏行者の心のもち方を安心、修行の内容を起行、実践修行する方法軌範を作業として分け、安心に三心を、起行に五種正行・五念門・助正二行を、作業に四修と三種行儀を配当し、六重二十二件の法数を立て、それらがことごとく口称念仏の一行三昧に結帰すると説いていることである。鎮西流は、良忠ののち寂恵・定恵・蓮勝・了実と次第し、了実の弟子聖冏(しょうげい)は多くの著述をものして破邪顕正につとめるとともに、諸所に檀林を設けて学徒の教養に従事し、さらには伝宗伝戒の規則を定めて教団制度の確立に力をそそいだ。聖冏の弟子聖聡は江戸に増上寺を創建して講学の根本道場とし、五重伝法を創始して、今日の浄土宗教団の基礎を定めた。〔国史大辞典〕
前掲の石井氏の論文の中では、「聖達とともに一遍の師であった華台と鎮西義とのつながりを暗示する所伝」を示したり、「鎮西に修行し」の「「修行」とは旅の状態と解釈」する先行研究を踏まえたりことで、一遍が「聖達に入門するまで善入とともに九州北部に展開していた鎮西義の寺院の巡っていた可能性」をもとに、「鎮西」が限定された地域を表す語であったことを考察されています。
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