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お気に入りの評論――前田英樹「水のない泳ぎ」②(2014年12月6日)

 先に私はメルマガを発行していたことをお知らせしましたが、廃刊にしたメルマガの中で、もう一度みなさんにも読んでほしいと思う情報をウェブリブログにて再録していました。
 教科書に採用されていた評論の解説もそのひとつでした。しかしながら、それらの閲覧数が他の記事をはるかに上回っていることが大変気になり、いくつか思い当たることがありました。

 noteにもそうした危険のある記事を収録するか、収録するにしても有料にしてしまうかで悩みましたが、結局そのまま掲載することに決めました。学校での宿題のためにこのページにたどりついた方は、どうか上で紹介した記事も合わせてお読みください。よろしくお願い申し上げます。

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 発行人は古典が専攻ではありますが、評論についても古典と同じくらい(自分で読むのも、教えるのも)好きです。そこで、これまで扱ってきた評論の中で、気に入った作品を紹介し、考察してみたい――という考えがきっかけで始めたコーナ」ーです。

 前回より取り上げているのは、前田英樹氏の「水のない泳ぎ」です。

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 畳の上の水練がおもしろい人はいない。空っぽのプールで魚釣りのまねをしておもしろがる人はいない。これはだれでも分かるが、言葉を操るだけの仕事となるとそうはいかない。

 筆者の問題意識は、「水練(=水泳の練習)」を例にとり、「言葉を操るだけの仕事」に携わっている人間に向けられています。

 畳の上ならぬ、一般観念の寝床の上で水泳のまねをする。

 彼らについて「それ自体としておもしろくない」、実際のところ「苦しい」と述べる筆者ですが、それをやめられないのは「架空の泳ぎに拍手喝采する人々」がいるためなのだと断じます。そして、「彼らもまた、自分たちの泳ぎに一生懸命」だというのです。

 ここでは、何もかもが抵抗物のない虚構で成り立っている。泳ぎの巧拙を決める尺度は、水の抵抗でもそれに応じる身体(からだ)でもない、互いの賞賛や罵倒(ばとう)である。

 誰もが「言葉を操るだけの仕事」をする人のようになっているネット社会の〝バッシング〟であるとか〝炎上〟といった現象を思わせる恐ろしい一言であると私はこの評論を読むたびに感じないではいられません。

 この機構の中に、様々な支配や服従や憎悪や嫉妬(しっと)が生産される。するとこのことから、偽りの楽しみ、架空の快楽さえ生まれてきて、もう私たちは苦しんでいるのか喜んでいるのか、自分でも分からなくなる。

 筆者は、「畳の上の水練」において、現実や実在、あるいは具体性が持つ「抵抗物」を我々にイメージさせます。一方の「言葉」における泳ぎでは、一般観念、架空や虚構という語を用い、直接的に「抵抗物」の欠落を訴えます。

 水のない泳ぎは、架空のものだとすぐ分かる。が、外部に抵抗物を持たない思考はそうではない。共同体というプールで言葉まみれになった人間の思考は、水のない泳ぎをどこまでも競い合い、それは仲間同士の実際の殺し合いまでいく。

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 次号をお楽しみに! 《未完》

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