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お気に入りの評論――前田英樹「水のない泳ぎ」①(2014年9月11日)

 先に私はメルマガを発行していたことをお知らせしましたが、廃刊にしたメルマガの中で、もう一度みなさんにも読んでほしいと思う情報をウェブリブログにて再録していました。
 教科書に採用されていた評論の解説もそのひとつでした。しかしながら、それらの閲覧数が他の記事をはるかに上回っていることが大変気になり、いくつか思い当たることがありました。

 noteにもそうした危険のある記事を収録するか、収録するにしても有料にしてしまうかで悩みましたが、結局そのまま掲載することに決めました。学校での宿題のためにこのページにたどりついた方は、どうか上で紹介した記事も合わせてお読みください。よろしくお願い申し上げます。

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 発行人は古典が専攻ではありますが、評論についても古典と同じくらい(自分で読むのも、教えるのも)好きです。そこで、これまで扱ってきた評論の中で、気に入った作品を紹介し、考察してみたい――という考えがきっかけで始めたコーナーです。

 新しく取り上げるのは、前田英樹氏の「水のない泳ぎ」です。

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 子供のころには、いつもだれかが釘を打ち、棚を直してくれる。その間、自分は勉強だかなんだか、棚を直すより大切だと言われていることをやったほうがよい。親も子もそう思っている。けれども、そういうことの積み重ねは、必ず子供から重要な成長力を奪っていくだろう。

 前田氏の「水のない泳ぎ」は、何を言っているのかまったくわからないという生徒、あるいは反感を覚える生徒が多いのではないかと考えています。口調は物静かではあるものの、冒頭からかなり挑発的な内容であると私は感じています。かくいう私も、都会育ちで、家事や手作業が不得意な人間です。前田氏の主張を本当に理解できているのか不安になることもあります。

 前田氏は「もちろん、大事なのは棚に釘を打つことそのものではない」と続けます。

 釘を板の外に飛び出さないように打つには、「朴(ほお=モクレン科の落葉高木。細工しやすい材質で、版木・建築・器具・木炭などに用いられる)や釘や金槌(かなづち)の性質をよくわきまえていなくてはならない。」とする。「これらの性質は、釘を打つ、という私の行為にとって実に厄介な抵抗物である。だが、この抵抗物のおかげで、私は釘を打つことができる。」というのは、物理的な現実をありのままに述べているに過ぎません。

 ここでは何もかも私の思い通りにならあいものばかりだという、そのことが、私に釘を打つ意味を生じさせている。抵抗がなかったら、棚は全然使い物にならないだろう。

 物理的な問題が、心理的な問題へと転換されていきます。

 この後、「畳の上の水練」という過激な言葉が登場します。しかしながら、私たち人間の世界ではこの「架空の泳ぎに拍手喝さいする人々が生まれる」というのです。それはおそらく、釘を打つことを「どうでもよいと思っている。あるいは、思わされている」人たちなのであす。――その病理はいかにして起き、何が問題となるのか。

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 次号をお楽しみに!

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