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落語の濫觴(2024)

落語の濫觴
Saven Satow
Jul. 22, 2024

「長生きするのも芸の一つ」。」
三遊亭圓朝

1 落語協会100周年記念
 『落語の濫觴《らんしょうう》』という噺でございます。これは落語事始めと申しましょうか、え-、まあ、落語の歴史でして、 三遊亭圓朝の作でございますが、こういう話もやり手が近頃はおりませんで、6代目三遊亭圓生師匠が『紫檀楼古喜《したんろうふるき》』という狂歌師の噺の中で触れておりますが、落語がどういう具合に生まれ育ったかって噺ですから、そりゃ継いでいくというのも大切なことでございます。

 ただ、えー、落語の歴史と申しましても、圓朝が江戸の人《しと》でありますので、三都のうち、つまり江戸・大坂・京都のうち、江戸が中心になりますし、んー、落語の歴史というものも随分と研究されておりますので、異論もございましょうが、まあ、あくまで延長にとっての落語の事始めですから、つまり圓朝が自分の立場を落語の歴史に位置付けるという、自分につながる噺家の系譜を示しまして自身の落語の正統性を語るというものですので、ご了承をお願い致します。

 えー、なぜ、んー、このような噺をするのかと申しますと、今年、つまり2024年はー、えー、落語協会100周年にあたりまして、まあそれに便乗しようというわけでもないのですが、そういうことでもありませんと、こういう噺をする機会というものもございませんで、もちろん、長く続いた方がめでたいわけでもありますから、えー、100周年より101周年、101周年よりも102周年の方がそりゃあめでたいのですが、やはりきりがよくありませんと、この手の噺はしにくいものでして、まあ、そんなわけでございます。

 落語協会の話もしておきますと、ん-、きっかけは1923年、つまり結成の前の年に起きました関東大震災でありまして、震災で寄席が焼失いたしましてこれではおまんまの食い上げだと、大阪に移る東京の噺かも出てまいりまして、えー、このままでは東京の落語の火が消えてしまうと、まあ、震災ですから火は消えた方がいいでしょうが、それはともかく、ん-、このままではいかんということになり、噺家が集まりまして、1924年2月25日に落語協会を設立したということでございます。

 んー、この噺のタイトルは、先ほど申しました通り、『落語の濫觴』と言いますが、「濫觴」は近頃ではあまり耳にしない言葉でありますので、少し説明致しますと、物事の始まりや起源、起こりなどを意味する言葉でして、えー、この漢字を口で説明するのも骨ですので、意味だけ申し上げますと、「濫」は「ひたす」とか「あふれる」とかいう意味でして、んー、「觴」は「さかずき」という意味の館でございます。つまり、「濫觴」は」大河も水源にさかのぼれば、盃を浸せるほどのわずかな水量だというのが元々の漢字から言える意味でして、「落落語の濫觴」とは落語という大河も始まりは盃1杯程度の水だったということでございます。

2 落語前史
 喜怒哀楽と申しますように、笑いは人間に欠かせない感情でございますから、遠い昔から滑稽な噺を楽しんでいたでしょうが、んー、記録がございませんので、いつ頃のことかはわかりませんけれども、今にまで伝わっている面白おかしい噺と申しますと、平安時代に、まあだいたい今から1100年位前でしょうが、成立したとされます『竹取物語』や『今昔物語』、『宇治拾遺物語』辺りに収められているものになりましょう。

 また、「落首《らくしゅ》」というものもございまして、これは「落ちる首」と書いて「らくしゅ」と読むのですが、平安時代から江戸時代まで流行した諷刺の狂歌というものでございまして、辻や河原といった人の集まる場所に世相を風刺した狂歌を書いた立札を立てるというのが落首という、その昔は今と違いまして表現の自由などございませんから匿名でしたので、だれが書いたかはわかりませんが、えー、読み書きのできる人は今より随分少のうございますから、僧侶や貴族といった教養のある人たちが始めたのでしょう。いくつか現代にまで伝わっている落首もございまして、例えば、関ケ原の戦いの毛利輝元を諷刺した「輝元と 名にはいへども 雨降りて もりくらめきて あきはでにけり」 というのがございまして、「もり」と「毛利」、「あき」と「安芸」をかけておりましてこれはなかなかの出来栄え、他にも二条城の落首というものがございまして、「御所柿は 独り熟して 落ちにけり 木の下に居て 拾う秀頼」という、「御所柿」に「徳川家康」をかけておるのですが、そううまくはいかなかったこことは皆様ご承知の通りでございます。

 最初の噺家と言われておりますのが、んー、「御伽衆《おとぎしゅう》」でありまして、、太閤殿下の御前で、安楽庵策伝《あんらくあんさくでん》という人《しと》が、小さい桑の見台《けんだい》の上に、『宇治拾遺物語』などを載せましてお噺をしたという、噺のネタ元として使いましたのは他にも『竹取物語』や『今昔物語』辺りだったと言われておりますが、これは皆様もご案内のことでしょうが、その時、大公のご寵愛を受けました鞘師《さやし》の曾呂利新左衛門《そろりしんざえもん》という人が、このことを聞きまして、私も一つやって見とうござると言うので、おかしなお噺しを致しましたところ、策伝《さくでん》の話より、層御意《ぎよい》に適《かな》い、つまりこれまでの人よりも面白かったわけでして、まあその後、何度も何度も御前に召されて新左衛門が、いろいろな滑稽雑談を演じたと申します。

 安楽庵策伝《あんらくあんさくでん》という人は浄土宗の僧侶、まあお坊さんでして、曾呂利新左衛門は実在したかどうかはっきりしないのですが、こちらは実在が確認されておりまして、江戸時代の初めに笑い話を『醒睡笑《せいすいしょう》』という本にまとめたんでございますが、この中には、『たらちね』のように今でも演じられている落語の元の形も入っております。えー、その後、寛文や延宝といった頃、西暦で言いますと1670年代を過ぎる頃から噺家のような人たちも登場して参りまして、ほぼ同年代に京都に露の五郎兵衛、大坂に米沢彦八、江戸には鹿野武左衛門という人が現われて、ちょっとした小屋をこしらえて「辻噺」をしてお客様からお代を取ったとされておりますが、この人気は一時的なものでして、落語の系譜はここで途切れるのでございます。

 実を申しますと、圓朝はこの辺りに触れておりませんで、曾呂利新左衛門から江戸の中期に話は飛びまして、えー、落語によく狂歌が出てまいりますが、落語の復活にはこの狂歌、さらにその前に登場致しました川柳が影響しております。えー、落語は狂歌師の間から生まれたものでして、昔、狂歌師が狂歌の開きの時に、え―、お互いにこう手を束《つか》ねまして、まあ、手を組んでですね、ツクネンと考え込みまして気が屈します、もやもやした感じで意気が上がらないわけでして、そこでその合間に世の中の雑談を互いに語り合って、一時《いっとき》の鬱《うつ》を遣《や》ったのが、つまり気晴らしをしたというのが濫觴《はじまり》でございます。

3 落語の復活
 落語にはよく使われますのが狂歌や川柳でして、この落語・狂歌・川柳の三つは関係がございまして、えー、川柳が中でも古いものでして、柄井八右衛門《からいはちうえもん》が初代の点者でして、「川柳《せんりゅう》」という名をつけ、宝暦と言いますから、西暦で言いますと1757年頃、この方が40歳《しじっさい》くらいの時に、点者として、おいおい頭角を現わしてきまして、この人は名主だったことはわかっているんですが、どういう俳諧師だったのかははっきりしませんで、後に川柳の選んだものは真に優れていると評判になりまして、『柳多留《やなぎだる》』というものが残っております。これは川柳の方では大変なものでして、えー、これを選んだのが川柳で、いつかこの『柳多留』のことを「川柳」と言うようになっております。

 それまでは「前句附《まえくづけ》」や「萬句合《まんくあわせ》」とも呼ばれ、いろいろなものがあったんでございますが、えー、前の句、つまり5音だけこしらえておいて、その後に7音・5音をつけたというものでして、んー、「さあことだ」という題を考えまして、その後にちゃんと続く文句を考えるという、「さあことだ 下女ハチマキを腹に絞め」なんていう、昔は下女が山出しの時などに、その踏ん張って力仕事をする時に、こう頭にハチマキをしてエイやヤッと重たいものを持ち上げるというなかなか勇敢なことをしたものですが、これがいつか妊娠を致しまして、ハチマキを頭にではなく、下腹に絞めたということで、「さあことだ 下女ハチマキを腹に絞め」。んー、「さあことだ 馬が小便渡し船」なんという、これは乗合船では馬も人間も一様に乗っけて向こうに渡ろうというのですが、その中頃まで来ると、お馬《んま》がジャージャー始めたというんで、船の中じゃあ逃げることができない、周りの者がえらい迷惑を被ったという、「さあことだ 馬が小便渡し船」、そういったものがございます。

 後ろの句を決めていて、前に文句をつけるのもありまして、例えば、「切りたくもあり切りたくもなし」という題で、えー、「盗人を捕らえてみれば我が子なり」というのをこしらえて、「切りたくもあり切りたくもなし」とくるそういうものから17音が独立してそれだけでちゃんとりっぱにわかるというものを川柳だと申します。

 それから15年ほど経ちまして、狂歌というものが出て来るのですが、狂歌と申しますのは、和歌、つまり短歌の川柳版でして、五七五七七の三十五音に笑いを織りこんで詠むというものでして、川柳は今でも広く愛好されておりますが、狂歌の方はそこまでではありませんで、ただ、江戸時代には大変な人気でして、落語にもよく出てまいりますし、狂歌̪師を主人公とした『紫檀楼古喜』という噺までございます、

 えー、川柳と同じように、狂歌にも名人がおります。蜀山人《しょくさんじん》という人が出まして、それから狂歌が盛んになるのですが、この人は号を大田南畝《おおたなんぽ》、本名を大田直次郎と申しまして、えー、この人はとにかく機知にとんでおりまして、こしらえる狂歌が実に鮮やか、日本全国に見る見るうちに狂歌が広がったという、蜀山人のこしらえた狂歌が伝わっておりまして、蜀山人が初めて京都に参りました時、名代の五条橋を見物したのですが、昔ここで牛若と弁慶がしのぎを削ったという有名なところ、どんな見事な橋なのかと見るってえと、これがすっかり荒れ果てて方々に穴が開いている、こいつに木を打ち付けてある、四角いのもあれば細長いのもある、そこで蜀山が早速狂歌を詠む、「来て見れば 流石都は歌所 橋の上にも色紙短冊」とまあ随分口の悪い人もあるもので、蜀山という方はただ狂歌を詠んだだけではないんだそうで、漢学の方も非常に長けておりまして、何でも塾を開いていたそうで、弟子も随分いたということです、なかなかどうも偉い人なんですが、この蜀山人が落語の会の回状の文句をこしらえたということでして、狂歌というものができてから10年、天明6年、西暦で言いますと1786年に落語が再び世に出ることになります。

 狂歌師は狂歌の開き、つまり会をします時、先ほど申し上げました通り、お互いに手を組んで、考え込みますと気がめいって参ります、そこでその合間におかしな噺を互いに語り合って気晴らしをしていたのですが、何回かやっているうちに、やはり判定する人がいないと面白くないから、判者を置いて落語の会を開こうということになります。

 判者に選ばれましたのが本所立川に住みます立川焉馬《たてかわえんば》、あるいは烏亭焉馬《うていえんば》、「烏亭」は「からすてい」と書きますがこの人は大工の棟梁をしておりましたので、鑿釿言墨曲尺《のみのちょうなごんすみかね》という号も持っておりまして、他にも談洲楼焉馬《だんしゆうろうえんば》などいろいろとごうがあるという、狂歌師だけでなく、浄瑠璃作家でもありまして、ん-、有名なのが『碁太平記白石噺』で、芝居も書き狂歌も詠むという、この人が一時廃れていた落語を復活させることになります。

 落語の会の会場には向島の武蔵屋《むさしや》、ここ当時一流の料理屋でして、その奥座敷が静かでよかろうとなりまして、その回状を文人や作家といったこういう面白いことに興味のある面々に回したのですが、この披露文《そのちらし》の書き方が変わっております。

 「這囘《このたび》向島の武蔵屋に於《おい》て、昔話《むかしばなし》の会が権三《ごんざ》りやす」

 会の場所は書いてあるにですが、いつ開かれるのか日にちがどこにも見当たらない、はて、忘れたのだろうか、いやいやそうではあるまい、狂歌師のことだから何かこの中に記しているに違いない、まてよ、「昔話」と書いてある、この「昔」という漢字を縦に伸ばすと「廿一日《にじゅういちにち》、」になる、ことによると21日にやるんじゃないか、とにかくその日に行ってみようということになりまして、連れ立って行くと向こうはちゃんと支度がしてあったという、昔はこういう風に人に考えさせる謎かけておいて、集まった方も、どうだい、私の言う通りだったじゃないかと鼻を高くしたという、この時、焉馬が披露した落語に皆が喜んで、こいつは何とも愉快なものだ、この次の会には今度は私が何か拵えて効用、名に、それじゃあ私もということになりまして、大勢がどんどん落語をこしらえて会で披露するという、これからおいおい落語というものが盛んになって行くのでございます。

4 寄席の出現
 誰も彼も聞きに参ります中に、可楽《からく》という人がおりまして、えー、この人は櫛《くし》職人でしたが、至って口軽《くちがる》な面白い人でして、んー、私も一つ飛入りに噺をして見たいと申し込んだところ、狂歌師の中へ職人を入《い》れたら品格が悪くなるだろうことで拒む者もおったそうですが、何、職人だって話が上手なら仔細《しさい》ないということで、可楽を入れてやらせて見ましたら、大層評判がよろしく、可楽が出るようになってから、一際《ひときわ》聞きに来る人が増えたと言います。

 えー、当時の落語は自作自演でして、昔から伝わってきた物語や中国の笑い話集の翻訳を翻案したり、その頃に話題になった出来事や巷の噂話をヒントにしたりして噺をこしらえておりますが、消耗品でございまして、ん-、もちろん今でも上演される噺も生まれておりますが、作者については不明なものが多く、スタンダードナンバーとして語り継がれてきたということでございます。

 そこで可楽がふと思いつきまして、えー、これは面白い、近頃、落語が大分《だいぶ》流行るから、どこかで座料《ざれう》を取って内職にしたら面白かろう、ことによったらたら片商売《かたしょうばい》になるかもしれないと考えまして、んー、昼間は櫛をこしらえ、夜だけ噺家をやって見ようという、n-.、つまりそれまでは噺家は皆アマチュアでありまして、お客様からお代を頂くプロの噺家を始めようと思ったのでございます。

 広徳寺前《こうとくじまえ》、今の地名で言いますと、下谷稲荷社内の○○茶屋というのがございまして、えー、その家の入口へ行燈《あんどん》をかけたのですが、ただ「はなし」と書放《かきはな》しにして名前などを書いたものではない、細い小さな行燈を出して、いらっしゃいいらっしゃいと言っておりますと、大都会のことですからすぐにお客が一人入って来まして、ん-、「早くしてくれ」と言いますので、「ええ、もう二、三人いらっしゃるまでお待ちを。もう直《じき》始まります」と可楽が申しますと、「モウ二、三人来るまで待ってはいられぬ、腹が空《へ》ってたまらんのじゃ」――これは菜《な》めしと間違えたという噺でございまして、えー、その頃は商売ではございませんでしたので、そのくらいのものでございましたでしょうが、ん-、これが今に至ります寄席商売の始まりでして、その後に大層《たいそう増えまして、江戸の町に寄席の数は170軒以上を数えるほどの隆盛《りゆうせい》になっております。

5 三遊亭圓朝
 このように寄席落語が江戸で大変盛んになったのですが、 幕末維新を迎えまして、そこに登場するのがかの三遊亭圓朝でございまして、この人は名人の中の名人、「近代落語の父」と呼べましょう。三遊亭圓朝は本名を出淵次郎吉《いずぶちじろきち》と申しまして、お父っつあんも噺家でして、初代の橘屋圓太郎、ん-、つまり初代圓橘の息子として天保10年、西暦で言いますと、1839年、江戸湯島切通町に生まれ 明治33年、ちょうど西暦1900年に亡くなっておりますから、19世紀の人でして、20世紀の落語は圓朝の死と共に始まるということになります。

 『落語の濫觴』は三遊亭圓朝作ですから、可楽のところで終わっておりまして、圓朝の頃の落語の話は出てまいりませんが、この噺は圓朝自身が自分につながる落語家の系譜をこしらえるものですから、えー、つまり自分が落語家として正統だということを示すものですので、圓朝自身についてもお話しすることで、なぜ圓朝が『落語の濫觴』というものをわざわざ語ったのかがお分かりになりますでしょう。

 落語と申しますと滑稽噺、つまり笑い噺を思い出される方が多いでしょうが、圓朝は人情噺や怪談噺など笑いを催さない講談に近い噺を得意としておりまして、ん-。実際に講談も上手かったのですが、演目の幅が大変広い、おまけに、この方は新しい噺を随分とこしらえておりまして、今古典落語として呼ばれているものの中には圓朝作が少なくないんですが、実は圓朝が新作落語を用意しなければならなかったことには理由がございます。

 ん-、圓朝は大変うまかったものですから、他の噺家から嫉妬されまして、特に、自分の師匠の2代目三遊亭圓生から邪魔をされまして、寄席で圓朝が話します時に師匠がその演目を先に演じてしまうという、共演している噺家が同じ演目を話すことはやっていけないことでして、そういう作法と言いますか、決まり事と言いますか、カラオケでもございますね、同じ歌を歌うのは失礼にあたるから避けるようにというルール、そうなりますと、圓朝は話せる演目がなくなってしまいますから、それは困ってしまう、それならばと圓朝は自分で新しい演目を拵えることにしまして、まあこれなら他人が演ずることはできないだろうと高座で披露し始めますと、これが好評で、次々と新作落語を創生み出してまいります。

 圓朝作の噺と言いますと、『粟田口霑笛竹』や『敵討札所の霊験』、『芝浜』が知られておりまして、えー、他にも三題噺から古典落語になりました『鰍沢《かじかざわ》』もございます。んー、怪談物では、最高傑作とも言われます『牡丹燈籠《ぼたんどうろう》』、さらには『真景累ヶ淵《しんけいかさねがふち》』、どちらも長い噺でして、通して演じますと数時間かかりますので、高座で話します場合は一部だけというのが普通になっておりまして、これはいずれもネタ元がございまして、傑作『牡丹灯籠』は中国の明の『剪灯新話《せんとうしんわ》』の「牡丹灯記」を翻案したものでございます。えー、圓朝は西洋文学作品の翻案もございまして、『死神』、これはグリム童話の『死神の名付け親』、『名人長二』、これはモーパッサンの『親殺し』、『錦の舞衣』、これはヴィクトリアン・サルドゥの『トスカ』、つまりプッチーニのオペラで知られる『トスカ』でございます。

 圓朝は噺の作者として名前を明らかにしておりまして、それまでの落語は作者がはっきりとしていませんで、圓朝作はがどの噺も大変出来がよろしく、今でも高座で演じられるものばかりで、もちろん圓朝は自分一人だけで拵えたわけでもございませんし、翻案が多いことは確かでしょうけれど、、えー、譬えますと、圓朝はスタンダードナンバーを歌う歌手ではなしにた自作の曲を歌うシンガーソングライターでごして、おまけにそれを速記本で出版するという、つまり自作の曲の譜面を出版するということまでやりまして、大変な人気を博しております。

 圓朝が近代落語の父であるのはこうした新作を次々と発表したからだけではございませんで、当時はまだそう見なすことはできませんが、将来的にはマスメディアと呼ばれるものと結びついたことでして、えー、圓朝の口演が速記本として出版したことも人気に影響しておりまして、んー、速記と言われましても、今の若い人にはなかなかおわかりになりませんでしょうが、人の話す言葉をすぐさま書き取るために50音に対応する線や点でできた記号でして、それを使って落語や講談の話芸を記録した本が出版されていたんですが、中でも、圓朝の『牡丹灯籠』から速記本が始まったこともありまして、圓朝の速記本は大変な人気を博すという、それで落語は話芸ですから、記された文章も口語体なわけでして、これが言文一致運動に取り組んでおられる坪内逍遥や二葉亭四迷という知識人の方々の目に留まり、影響を与えております。

 えー、落語は話芸ですのでその場にいないと楽しめないのですが、圓朝は速記本の出版を通じましてその場を共有していなくても落語を味わえるように致しまして、もちろん出版産業は江戸時代にすでに盛んだったのですが、芸能の脚本であっても様式化された文体でして、それと比べて、話していることをそのまま記録する速記は話芸の臨場感をそのまま文字化しようというものですから、これはのちにレコードやラジオ、テレビといった媒体を通じて落語が世の中に広がりを見せて行くことになるのですが、その走りが圓朝だということございます。、

 ここまで参りますと、圓朝がなぜ『落語の濫觴』と題して落語の歴史を振り返っているのかおわかりになったと思いますが、落語では新しいことに挑戦する人が登場致しましても、最初は盃1杯程度のことしかありませんが、それが次第に大きくなり、とうとう大河へと成長するという過程をたどっておりまして、それは圓朝と致しますと、自分のやっていることがそうだと言いたいわけでして、自分の挑戦も今は盃1杯の水かもしれないが、いずれ大河になる、だから自分こそが落語の系譜の正統だと、えー、これは落語の将来についてもいえることでありまして女性の噺家がまさにそうでありましょう。ただ、杯1杯でしたらば、水よりは酔えるものの方がいいわけでして、もっとも、それが大河にまでなりますと、これは、もう、えー、落語の濫觴ではなく、落語の乱心となってしまいますので、この辺りでお開きにということに致します。
〈了〉
参照文献
榎本滋民、『古典落語の世界』、講談社、1984年
同、『古典落語の力』、筑摩書房、1988年
同、『落語ことば・事柄辞典』、京須偕充編、角川ソフィア文庫、2017年
榎本滋民他編、『落語名人大全』、講談社スーパー文庫、 1995年
三遊亭圓生、『圓生百席』21、ソニー・ミュージックレコーズ、1997年
青空文庫
https://www.aozora.gr.jp/


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