北緯35度42分─ヘンリー・ミラーの『北回帰線』(12)(2007)
12 リテラシー
思いつきと思いこみで作品を書く小説家の代表として村上春樹が挙げられる。自分は考えていると思っているが、実際にはそうではない人のための文学だ。彼の小説は始まり=終わりという円環構造を持つ「ロマンス」(ノースロップ・フライ『批評の解剖』)である。最初に結末が提示され、個々の要素は目的論的にそれに到達すべく奉仕している。このロマンスは、そのため、作者の願望を最も反映しやすい。登場人物はしばしば超人的な力を持っていたりするものの、精神的な厚みに乏しく、作者の操り人形の印象をぬぐえない。精神性の点では期待すべくもないが、現実界と言うよりも、それを揺るがすような創造界を示す効果があり、世界の多層性を示すときに用いられるジャンルである。
ロマンスは、極めて意識的に、方法論的姿勢でパロディとして執筆されなければならない。ただし、多くの場合、特に長編では、村上春樹の主人公は「ぼく」、つまり一人称である。三人称であっても、実質的には、一人称と言える。意味=無意味さの拮抗において、無意味さをアイロニカルに選び、自意識の優位さを確認する。人にとってかけがえのない人やもの、数字、出来事、思い出などは、一般的な評価基準にあてはまる場合もあれば、一部の熱狂者の間で認められている場合もあれば、内輪でのみ共有されている場合もあれば、ただ個人的にそう思っている場合もあるだろう。それこそ千差万別だ。けれども、村上春樹は自意識の優位さを確保できる選択肢を選びとる。空想的な物語であっても、主人公が混乱した状況に置かれながらも、最終的に自意識の優位さが獲得される。
作者は作品を通じて読者の共感を獲得する。村上春樹の読者は自意識の優位性を作者と共有する。自意識の優位性は社会的問題ではない。この主観的問題に共感できるものが彼の愛読者である。それは言語によって共通理解されるものではない。そうした説明を求めるものに対する反措定として愛読者はアイデンティティを確認する。この暗黙の了解のために、村上春樹の読者は熱狂的になる。無意味なものを選ぶ村上春樹に「え?なんでなんだろ?でも、面白いよね」とか「よくわからないけど、そういうことってあると思うし、なんとなくわかるなー」とか言い、深く考えてもいない。自分が見えていないだけだ。
村上春樹の作品に共通しているのは固有名詞の忌避に要約できる。固有名詞は、金田一秀穂が指摘しているように、命名の瞬間に立ち会える。それには、最初こそ偶然であったとしても、何らかの歴史や経緯がついてあり、任意ではない。
かりに村上春樹の作品にサルが登場してきたとしても、それに意味はない。別に、ヘビだろうとネズミだろうとかまわない。とりあえず使ってみただけで、そこに謎はない。文化放送のアナウンサー水谷加奈は、『よっぱらい』の中で、ある飲み会で記憶をなくすほど泥酔したとき、「もしも今だれかに生まれ変われるとしたら、だれになりたいか」という問いに対し、「みんなが、松阪大輔だとか、宇多田ヒカルだとかいっている中で」、「加奈だけ、”私、わき毛の生えないわきの下になりたい~”」と答えたと記している。謎とはこういうものだ。そこに何らかの固有性が感じられるとき、謎は生じる。
何かと言うと、村上春樹は、名古屋の地下街のような意味ではない「地下」を描き、口にする。しかし、俺には水道局に勤めていた50代の親戚がいる。法事くらいしか会うこともないが、酔っ払うと始める水道の話にいつも心奪われる。水源、上下水道システム、水道管の口径、蛇口の数、水の質、地下水、汚水処理など水道というアンダーワールドの状況がとどまるところを知らない。「あそこの坂のところに、ポツンと一軒家があんだろ?あれは勝手に建ててんだけど。水道使ってなかったんだよ。そんでさ、あそこに水道通して、俺、市長に感謝されたんだぜ~。あのあたりはさ、地下に水がいっぱいあっから、掘りゃ出るんだよ。だから、水道引いてなかったわけよ。金もったいねえとかってよ。だけどさあ、感染症なんかその水からだされっると、そのうちだけの問題じゃなくなんのよ。うちの勝手ですじゃすまねえのよ。またさあ、違法に建てるからって、水道通さないってわけにもいかねえんだわ。水道って社会的なもんだからさ。だから、水道料金って、あんだけ安くさ、抑えてんのよ。で、俺、そこんち行ってよお、いろいろしゃべってさあ、何とか通したのよ。それで市長から感謝されてさあ、あんときゃあ嬉しかったなあ。21世紀はなあ、水の時代。水!日本は水に不自由してねーと思ってんだろ?でも、そいつは違うんだ。食糧自給率低いだろ?てことは、食いもん輸入してんだ。食いもん育てるにはよお、水が要ったろ?な?ってことは、食料輸入してるってことは水輸入してんのと同じってことなのよ。ヴァーチャル・ウォーターってんだぜ、これ。俺、水好きなんだよ。水は大切だぜ~。人間はよお、ずーっとガソリンなしで生きてきたけどよお、サルのころからよお~水なしじゃあ生きられんもんな~あ」。
水道には、固有のリテラシーがあり、それに従った認知の優先順位がある。アンダーワールド自身ではなく、それが俺には興味深い。こんな社会的他者と接するのは快感だ。村上春樹にとって、「地下」は自分本位の願望にすぎない。
前年の昭和35年11月3日、戦後最大の争議となった三井三池炭鉱のストライキは終わった。ボタ山の上でハチマキ姿の向坂逸郎さん(故人)が炭労の組合員に、涙ながらに「われわれは負けたのではない」と、なおもハッパをかけていた姿を、これまた取材に行って見ていた。石炭にかわる石油の時代はもうそこまで来ていた。これ以上がんばれ? 何をがんばればいいのだ? と問いたい気持ちで聞いていた。
(岡崎満義『スタンカ』)
私は、三池闘争の敗北のあと谷川鴈が指導していた大正炭坑の労働組合に対して、吉本孝明が次のような意味のことを書いたのを印象深く記憶している。彼は闘争の展望などについて何いわずに、ただ、君たちのところにはまだ「快楽」が残っている、それがあるうちになめるように味わっておくがいいと書いたのである。私は当時その意味がよくわからなかったが。六〇年代の高度経済成長のあとで、私は「快楽」の何たるカをやっと理解した。
漱石にとって”地底”は市民社会から排除された者が行くところであり、従ってたんに「苦痛」の場所である。だが、視点を変えれば、そこはまさに「快感原則」の世界なのだ。
(柄谷行人『階級について』)
地底の消失は地上の町が消えることも意味している。閉山により、多くの人々がそこを去らざるをえない。地方は人手を失い、都市に人口が集中していく。
村上春樹はオウム真理教による地下鉄サリン事件をめぐってインタビュー『アンダーグラウンド』を発表している。サブウェイで起きたからそのタイトルにしたわけでもなかろう。前々から村上春樹は地下がことのほか好きなようだから。でもね、オウムは荻窪駅の北口駅前広場で歌って踊る選挙活動をしてる。彼らは地下じゃなくて、太陽の下、杉並住民の前に姿を見せている。地下にいたなんて無関心の言い逃れだ。
石油の時代になっても、石炭は依然として使われている。石炭の火力発電所も少なくない。その上、石油価格が高騰すれば 石炭を含めたほかの化石燃料の重要度が増すのは自然の成り行きである。しかし、スタグフレーションは石油時代でなければ、起きない。スタグフレーションには、社会の石油への依存が進んだ結果、生まれた現象だとも言える。石油というのは、労働や資本と同様の生産要素であると同時に、最終財という二面性がある。石油はプラスチックや電力となって間接的に購買されたり、自動車や暖房の燃料として直接的に購入されたりする。原油価格の高騰は限界費用を上げるため、総供給曲線を上昇させ、所得効果を通じて総需要曲線を下降させる。原油価格の急激な高騰は景気後退とインフレを同時に進行させてしまう。地下の実在をさまざまなデータによって正当化しようとすることは、スタグフレーションが何たるかを理解していないだけである。
世界を描くには、政治・経済・社会・文化を創造しなければならない。法や制度、産業、インフラ、教育、技術、宗教、習慣、芸術、建築、服飾、言語など、しかも、ただ考案すればいいというものではない。それぞれに共時的・通時的な固有の知識・技能を持たせる必要がある。法一つとっても、法の支配なのか、法治主義なのかではまるで法体系が違ってしまう。世界構築にはリテラシーとコミュニケーションに関する鋭敏さが不可欠である。むしろ、重要なのはこちらの方である。
世界の多層性を提示するのが目的であるとすれば、ロマンスの真の主役は世界であって、登場人物ではない。そういう特徴がある以上、現代のロマンスの作者は個々の登場人物の固有性に繊細となり、それを書き分ける描写力を身につけていなければならないが、村上春樹はその点に関心がないと言わざるをえない。ロバート・ロドリゲスやティム・バートンがB級映画の手法を意識的にとり入れて優れた作品を撮っている。しかし、村上春樹の不備の場合、そういった自覚的な方法はない。次に引用するのはほんの一例である。ヘンリー・ミラーは、自分にも他人にも、非常に鋭い小説家としての観察眼を示していたが、ここからはそれが感じられない。
『ノルウェイの森』の冒頭に、ドイツ人客室乗務員が登場するが、彼女が次のような態度で機内の気分が悪そうな乗客に接することはない。
飛行機が着地を完了すると禁煙のサインが消え、天井のスピーカーから小さな音でBGMが流れはじめた。それはどこかのオーケストラが甘く演奏するビートルズの『ノルウェイの森』だった。そしてそのメロディはいつものように僕を混乱させた。いや、いつもとは比べものにならないくらい激しく僕を混乱させ揺り動かした。
僕は頭はりさけてしまわないように身をかがめて両手で顔を覆い、そのままじっとしていた。
やがてドイツ人のスチュワーデスがやってきて、気分が悪いのかと英語で訊いた。大丈夫、少しめまいがしただけだと僕は答えた。
「本当に大丈夫?」
「大丈夫です、ありがとう」と僕は言った。スチュワーデスはにっこり笑って行ってしまい、音楽はビリー・ジョエルの曲に変った。僕は顔を上げて北海の上空に浮かんだ暗い雲を眺め、自分がこれまでの人生の過程で失ってきた多くのものごとを考えた。失われた時間、死にあるいは去っていった人々、もう戻ることのない想い。
飛行機が完全にストップして、人々がシートベルトを外し、物入れの中からバッグやら上着やらをとりだし始めるまで、僕はずっとあの草原の中にいた。僕はずっとあの草原の中にいた。僕は草の匂いをかぎ、肌に風を感じ、鳥の声を聴いた。それは一九六九年の秋で、僕はもうすぐ二十歳になろうとしていた。
前と同じスチュワーデスがやってきて、僕の隣りに腰を下ろし、もう大丈夫かと訊ねた。
「大丈夫です、ありがとう。ちょっと哀しくなっただけだから(It’s all right now, thank you. I only felt lonely, you know)」と僕は言って微笑んだ。
こんな失礼な物言いではなく、たとえカタコトであったとしても、”Thank you for asking me, but I’m fine now. Don’t be afraid of me, please! It has made me a little nervous”と最低限言えないのかと呆れてしまうところだが、それはひとまずおいておこう。実際、航空機の中で、そうと気づかずに、ずいぶんと無礼な言い方をしている日本人乗客の姿を見かけることも少なくない。田中康夫が指摘していた通り、ここの間違い探しをすることはたやすい。しかし、航空関係に通じた田中康夫でなくとも、誰でもこんな乗務員の態度を見たことがある人はいないだろう。
ちょっとした専門的な分野というのは、まんがの中に入れると、特色が出てきておもしろいものです。ただし、よく知らないで描くと、ウソっぽいものになって、お話がういてしまいますから、資料を集めてリアリティを出すことが大切です。
(さいとうちほ『さいとうちほのまんがアカデミア』)
東京ディズニー・ランドで遊ぼうとしていた金正日の息子が強制送還されたその日、俺はクアラルンプール行きのマレーシア航空に乗っている。朝日だったか読売だったかの元記者が俺の後の席に座り、結構なペースで酒を飲み、フィリピン上空辺りにはもうすっかりメートルもあがり、マレー人女性の客室乗務員をつかまえて、英語で話しかけ始めている。ブルーに近いグリーン地にエスニック柄の民族衣装風の制服の彼女は腕を組み、小渕恵三元首相に似た彼の隣の席が空いているのに、立ったまま聞いている。三分位して、紳士としてあるべき態度にようやく気づいた彼に促され、プレイメイトのカリン・テイラーを思い起こさせる彼女は初めて腰掛けている。
客室乗務員として適性があると判断されて航空会社から採用され、訓練を受け、経験を積んでいる以上、その言動・思考には規定されている。固有のリテラシーに則って感受し、思考して、行動してしまう。彼女とは帰りの便も偶然一緒となり、あれこれ話をしたので、間違いない。「取材をしながら、自分の世界を広げてください。恥ずかしがらずに、どんどんやってみましょうね」(『さいとうちほのまんがアカデミア』)。なお、当時、マレーシア航空の出発待機時のBGMは坂本龍一の『戦場のメリークリスマス』である。あのとき、” The wounds on your hands never seem to heal…”とデヴィッド・シルヴィアンの”Forbidden Colours”を歌う声が聞こえたのは、決して幻聴ではない。
何らかの学問的裏づけに基づいているわけではなく、あくまでこれは妹の経験からだが、ドイツ人と日本人の細かさは、かりに駅を譬えに使うと次のようになると思う。前者が駅に電車が出てからのことに繊細になるのに対して、後者は駅に電車が着くまでに執念を燃やす。ドイツ人はどうすれば迷わず目的地に向かう電車に乗れるかに苦心し、日本人は時刻表通りに駅に電車を到着させられるかを美意識にしている。たとえ初めてでもドイツの駅で迷子になることはないが、日本だと妹は新宿駅でさえいまだにわからなくなり、東京駅ではもうお手上げだ。
現代の小説家は情景や心理だけではなく、リテラシーを描写しなければならない。現代小説は方法の文学である。情景・心理描写についてはさまざまな方法論が展開されてきたが、正直言って、リテラシーにおいてはまだまだ不十分である。老人介護にも特有のリテラシーがある。気持ちや根性、情熱だけでできるものではない。リテラシーへの着目は障害や病気、老いなどマイノリティーへの眼差しにもつながる。また、リテラシーが思考の枠組みをある点で決定するとすれば、すでに過ぎ去った時代の人々がどのように考えていたかを把握することにも助けになる。近代以前のテキストは心理描写に関心がないことが多く、それを知るには、むしろ、服飾や化粧のリテラシーをたどる方が有効である。また、失われたかつてのテクノロジーを再現して、当時の人々の思考や行動を探る研究も進んでいる。異民族を理解するのにも適当だ。もっとも、この服飾や化粧による心理分析は、同時代的においても描写の際に参考にする必要がある。各種データが示している傾向が直観主義的な思いこみと違うことは作家たるもの承知しておくべきだ。リテラシーの描写は社会的・歴史的他者の小説化である。そもそも、小説が演劇や映画と同じくコミュニケーションに属しながらも、区別されるのは、その固有のリテラシーを持っているからである。言ってみれば、リテラシーは共通理解であり、その領域で通時的・共時的に共有されている。固有さを描写するには、リテラシーの認識が不可欠である。
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