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フォントに見る現代社会(2008)

フォントに見る現代社会
Saven Satow
Mar. 04, 2008

「1つ1つの活字とは、じつはわれわれ1人1人なのではないだろうか。グーテンベルグが発明した活版印刷のシステムとは、人々が群れ集う市民社会の縮図であり、その暗喩としての役割をも果してきたのではないだろうか」。
杉浦康平『活字礼讃』

 この春、多くの新聞で活字が変わります。2008年3月31日から読売新聞と朝日新聞が活字を大きくすると発表し、地方紙も相次いで同様の方針を打ち出しています。2007年12月10日から毎日新聞が活字を拡大し、それが好評なことに刺激を受けたと見られています。

 毎日新聞の決断には、少子高齢化に伴う読者層の高齢化が影響しているのでしょう。老人にとって小さい字の新聞を見ると、どうも若い頃に比べて、腕が短くなったような気がしてしまうものです。

 人口構成の高齢化傾向は新聞だけでなく、携帯電話などさまざまなメディアで活字全般に再検討を促しています。それは活字の拡大だけではないのです。

 活字、すなわちフォントには、2008年3月2日付『朝日新聞 be life & science』によると、「視認性」と「通読性」の二つの機軸があります。視認性は見やすさ、通読性は読み続けやすさのことであり、両者は異なっています。見やすいからといって、読み続けられるというものでもないのです。

 携帯電話のフォントは視認性を中心に開発されています。三菱電気が携帯電話事業から撤退を決定したように、少子高齢化により日本の市場規模は縮小していく一方ですから、高齢者に受容される製品開発は各社にとって死活問題です。企業は認知心理学などの成果を踏まえ、判別しやすい「ユニバーサルデザインフォント(UDフォント)」を研究開発しています。

 小さな画面でまぎらわしく感じられないように、明朝体と比べると、字のバランスは少々崩れ美的というわけではありませんが、認知の点で実用的です。見間違いを誘う部分をデフォルメして識別しやすくした文字ですから、ジーッと見ていても気持ちのいい文字ではないのです。もちろん、携帯電話の基本的な用法を考慮すれば、このフォントの方が効果的です。

 このUDフォントは携帯電話だけでなく、預金通帳や駅の通知版など見間違いがあっては特に困る場面で採用されています。預金通帳をジーッと見ているのを誰かに見られでもしたら、守銭奴扱いされてしまいますので、この方がいいのです。

 じっくり読んで考えるのに不向きなフォントですから、それで見られるケータイ小説は視認性が偏重されます。内容も、登場人物も浅く、軽くならざるをえないのです。ケータイで記述しようとすれば、おそらく、小説に限らず、ブログも熟慮するものにはなりにくいでしょう。

 昔流行った丸文字やギャル文字で、イマヌエル・カントの『純粋理性批判』やレフ・トルストイの『戦争と平和』が記されているのを想像することはできません。フォントが思考を規定する、もっと言えば、フォントが思考を具現している面もあるのです。

 佐藤清文という批評家が非常に技巧的で読みにくく、重たい長々とした自作をオンラインで公開しているというのは、その意味で、狂気の沙汰だと言えます。視認性という点ではまさに最低です。おまけに、弱視のせいで特大のフォントにしたまま公表していますから、見にくいこと極まりません。これでは読者が増えるわけもないのです。

 ネット社会の浸透により、文字に限らず、あらゆる場面で視認性が支配的になっています。それは、言ってみれば、「わかりやすさ」です。テレビの普及の際にも、その傾向はありましたが、さらに顕著です。テレビは絵の部分にとどまっていましたけれども、ネットでは文字も含まれます。

 視認性が社会で増しているにもかかわらず、議論や書評などに早とちりや早合点、早飲み込みが目立つようになっています。視認性はこの字とその字が違うことを識別できる機能的差異です。受け手にいかに負担をかけないかという観点から工夫されています。緊急時に高層ビルの非常口がどこにあるかを伝えるときには、視認性が欠かせません。

 しかし、本をじっくり読んで考えることは受け手が積極的にそれに向かわなければなりませんから、視認性と違う認識が必要です。それが通読性なのです。意味を理解するために、いかにしたら見続けられるようにできるかが発想の出発点です。

 ものの見方を広げることでもありますから、通読性が常識的な社会で、視認性が追及されることには意義があります。けれども、今は視認性が支配的です。ケータイ電話でケータイ小説に目を通すだけでなく、実際に本を手にとり読むというのは、フォントの特性から言っても、別の認識を体感することでもあるのです。読書は知のスロー・フード運動だとも言えます。見やすいことは大切だとしても、それがすべてではありません。

 じっくり読み続けられるとは再読ができるということです。ろくに噛まず、急いで飲みこむだけでなく、しっかり租借したり、何度も反芻したりするには別のフォントが必要でしょう。

 携帯電話にそれを求めるかどうかはともかく、通読性をそろそろ再考すべきところにきていることは確かです。古典の復権はその一つの表われです。とは言うものの、小さな顎と弱い消化器官には難儀ですから、知のスロー・フード運動は一朝一夕にはいきません。それこそ急がば回れです。

 フォント一つからもそれをじっくり見続けることで、現代社会の意味を読み取ることもあるのです。
〈了〉
参照文献
杉浦康平、『活字礼讃』、活字文化社、1992年

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