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石橋湛山の小日本主義(1)(2008)

石橋湛山の小日本主義
Saven Satow
Jan. 07,. 2008

「つまり石橋湛山は日本人は西洋列強の真似をするのをやめて、植民地や勢力圏を放棄することを主張したのです。そうすれば軍備も不要になるという注目すべきことも述べています。それはとても小さな声で当時はほとんど無視されましたが、こうした主張があったことも忘れてはならないと思います」。
駒田和幸『NHK高校講座日本史 第34回第一次世界大戦』

第1章 『大日本主義の幻想』の背景
 石橋湛山の全作品の中で『大日本主義の幻想』は、おそらく、最も知られていると同時に、最も考察されてきたテキストである。石橋湛山の思想がしばしばこの小日本主義にのみ還元されるのも、そのためであろう。帝国主義戦争反対や植民地放棄、軍備不要など広く知られる湛山の主張はこのテキストに由来する。

 『大日本主義の幻想』は、1921年、すなわち大正10年7月30日・8月6日・13日号の2号に亘って東洋経済の社説として発表されている。これは、いわゆるワシントン体制が成立する前夜である。

 第一次世界大戦の終結後、民族自決や平和主義、公開外交などそれ以前には空想と斥けられてきた理念が希求され、それに基づく国際秩序が構築されるようになる。これはヨーロッパでは「ベルサイユ体制」、アジアにおいては「ワシントン体制」と呼ばれている。

 1921年11月、アメリカがワシントン会議を提唱した際、日本は関係改善のチャンスとして応ずることにする。日露戦争、さらに第一次世界大戦と日米関係が悪化するばかりである。原敬首相が一にも二にもなく日米協調路線を選択したのは、国際情勢から見て、至極当然である。大戦後、アメリカは世界最大の債権国であるだけでなく、唯一の大国として君臨している。帝政ロシアは崩壊して国土が内戦に突入し、大英帝国はいまだ戦争の傷跡が生々しい状態である。

 この会議において、アメリカは門戸開放の原則と海軍軍縮を提案する。日本は権益放棄せざるをえない場面が続いたものの、満蒙問題においての要求はそこそこ容認される。満蒙を勢力圏と主張する日本と門戸開放の原則を貫徹しようとするアメリカとの間で、結果として、現実的な利益配分をめぐり妥協が生まれる。ソ連も中国も国内の混乱が続き、弱体化していたため、その地域において日本が権益を確保することになる。また、米英日の主力艦のトン数を5対5対3とするアメリカ提案に対し、日本は対米7割を主張する。しかし、経済力・造船力の面でアメリカに太刀打ちできない日本は、国家的見地を優先し、その案を受け入れる。

 また、この年には大連会議が開催され、シベリア出兵によって引き伸ばしになっていた日ソ交渉がどうにかこうにか進められる。1918年から始まったシベリア出兵は、他国が撤兵した後でも日本だけ続け、最終的に撤退するのは1924年である。その翌年、北京で日ソ基本条約が締結されている。

 『大日本主義の幻想』が発表されたのは国際協調へ向かう前夜であり、国際緊張が高い時期にあたる。第一次世界大戦後、日本政府は二つの理由から軍縮へと政策を推進する。一つは、言うまでもなく、財政の健全化、もう一つは国内外の世論である。国外からは、国際連盟を中心にして国際平和が模索され、不戦条約の締結や軍縮会議の開催が勧められる。一方、国内からは大正デモクラシーが軍拡反対を訴えている。原敬内閣から始まる政党内閣は軍縮路線をたどっている。しかも、1919年には、朝鮮の三・一運動と中国の五・四運動の大規模な抵抗運動が起き、植民地経営の方針も再考を促されている。ところが、大陸の権益に固執する姿勢はなかなか改まらない。そういった現状に対し、シベリア出兵や満蒙権益への厳しい批判が示している通り、国際協調を訴えたのがこの作品である。

第2章 小日本主義の系譜
 湛山の小日本主義は歴史の中に孤独にあるわけではない。日本思想との関連で言えば、明治中期の自由民権運動に見られる小国思想や社会主義者の「小日本」論、内村鑑三の小国主義などの先行する議論を無視することはできない。しかし、湛山の小日本主義は宗教性やイデオロギー性が見られず、功利主義的傾向が強く、経済的自由主義の系譜上に位置づけられるだろう。それは市場経済の拡大に伴い貿易量が増加し、国家間の相互依存が進み、戦争が抑制されるという思想である。貿易の増加は経済的利益にとどまらず、戦争を選択する合理的な根拠を希薄にさせる。

 国家を経済的に発展させようとするなら、貿易を拡大することが望ましい。ところが、戦争になれば、交戦国との貿易はとまってしまう。両者の間の貿易規模が大きければ大きいほど、交戦した際の損失は増大する。合理的に判断するなら、このようなリスクを犯すよりも、戦争を回避したほうが国家にとって有益である。これがスコットランド啓蒙のアダム・スミスに始まり、マンチェスター学派へと至る古典的リベラリズムの論拠である。

 東洋経済は、1910年から、日本における中国系視の態度を戒める論調を打ち出し、翌年、辛亥革命が勃発すると、それを大陸の明治維新と捉え、不干渉と民族自決を呼びかけている。湛山が入社したのは1911年のことであり、以前からその方向性を持っていたことは確かであるけれども、小日本主義的傾向は彼のオリジナルと言うよりも、社の方針でもある。それには天野為之からの影響がある。ジョン・スチュアート・ミルの経済思想を日本に紹介・応用に専心した天野は、アダム・スミスならびにそれを継承・発展させたマンチェスター学派の「小英国主義(Little Englandism)」を弟子の三浦銕太郎に伝えている。三浦銕太郎は、1912年、東洋経済第4代目主幹に就任し、それを「小日本主義」へと置き換え、論説などで主張していく。

 三浦銕太郎は、1913年4月15日号から6月15日号までの連載論説『大日本主義乎小日本主義乎』において、「大日本主義」をスン日を優先して商工業を後回しにする「大軍備主義」であると批判する。その上で、「小日本主義」を領土拡張・保護貿易に反対し、生活に関する経済を改善し、個人の自由を認めて意欲を起こさせ、国民福祉を増進する思想であり、日本はこの方向へ向かうべきだと提唱している。この三浦銕太郎が自分の後継者としていたのが湛山である。湛山は、1924年、彼の後を継いで第5代主幹に就任している。

 マンチェスター学派とは別に、ジェレミー・ベンサムは、『永遠平和の構想』(1832)の中で、非常に大胆な主張を展開している。英仏関係から戦争の脅威をなくすために、戦争のもたらす市民生活への影響を強調し、秘密外交の禁止や植民地の放棄などを訴えている。これはアダム・スミスの経済的自由主義とイマヌエル・カントの平和論を受け継ぎ、両者を融合したと言える。

 ベンサムの理論は現代の相互依存論のプロトタイプである。湛山の『大日本主義の幻想』も、次の引用が示している通り、マンチェスター学派だけでなく、このベンサムの基本線に沿っている。

 我が国が大日本主義を棄つることは、何らの不利を我が国に醸さない。否ただに不利を醸さないのみならず、かえって大なる利益を、我に与うるものなるを断言する。朝鮮・台湾・樺太・満州というが如き、わずかばかりの土地を棄つることにより広大なる支那の全土を我が友とし、進んで東洋の全体、否、世界の弱小国全体を我が道徳的支持者とすることは、いかばかりの利益であるか計り知れない。もしそのときにおいてなお、米国が横暴であり、あるいは英国が驕慢であって、東洋の諸民族ないしは世界の弱小国民を虐ぐるが如きことあらば、我が国は宜しくその虐げらるる者の盟主となって、英米を 膺懲(ようちょう)すべし。この場合においては、区々たる平常の軍備の如きは問題ではない。戦法の極意は人の和にある。驕慢なる一、二の国が、いかに大なる軍備を擁するとも、自由解放の世界的盟主として、背後に東洋ないし全世界の心からの支持を有する我が国は、断じてその戦いに破るることはない。もし我が国にして、今後戦争をする機会があるとすれば、その戦争はまさにかくの如きものでなければならぬ。しかも我が国にしてこの覚悟で、一切の小欲を棄てて進むならば、おそらくはこの戦争に至らずして、驕慢なる国は亡ぶであろう。今回の太平洋会議は、実に我が国が、この大政策を試むべき、第一の舞台である。

 この相互依存論は、国境が低くなり、グローバル化が進んだ現代社会において、さらに重要度を増し、進展している。ロバート・コヘイン=ジョセフ・ナイは、『権力と相互依存』(1977)において、このリベラリズムを発展させ、「複合的相互依存」を展開する。彼らは、人・金・物・情報が国境を超える状態の進展が各国政府の決定にいかに影響を与えるかを解き明かしている。その後、ナイはこの複合的相互依存を「ソフト・パワー」論へと昇華させている。これは、すべてを軍事力に翻訳して捉える伝統的な一元主義に対抗する多元主義の最も説得力ある理論とされている。

 こういった系譜を踏まえるならば、大日本主義を大国主義、小日本主義を小国主義と区別するのではなく、前者を一元主義的思想、後者を多元主義的思想と理解するほうが適切であろう。以下では、この観点に立って、湛山の小日本主義を再構成することを試みる。ソフト・パワー論の先駆としての小日本主義は依然として未開拓である。
 湛山の小日本主義を考える際に、思想形成をたどり、それを整理・解説するだけでなく、こうした系譜と関連付けて論じるべきである。そうするとき、湛山を過去に閉じこめることなく、その現代的意義が明らかになる。

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