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銀輪エクソダス(4)(2022)

4 千のプラトー
 チコちゃんの父ちゃんは獣医です。戦前は公務員獣医として県内外を転勤していましたが、戦後、石鳥谷や新堀に住み、獣医を開業しています。電話を引いているのは、そのためです。けれども、看板も何もありません。また、診療時間も特に決めていません。当時は口コミの世界なので、宣伝など要らないのです。人々は時計に縛られてもいませんから、頼まれたら出向くようにしています。
 父ちゃんは盛岡高等農林学校(現岩手大学)の獣医学科を卒業しています。秋田県で開かれた学会において発表した新しい去勢の方法が認められて、山梨県庁に公務員獣医として迎えられます。給与は小学校の校長以上だったとチコちゃんは母ちゃんから聞いています。
 山梨県は日本在来馬の木曽馬の産地の一つです。武田の騎馬隊と言われるように、馬の飼育が昔から盛んです。ただ、戦前は軍部が西洋首の導入を進め、在来種の改良を進めたため、木曽馬の数は激減しています。
 当時の山梨県は養蚕により豊かな地域です。電話の普及率やラジオの契約率も戦後しばらくまで高く、文明化が進んでいます。ある時、母ちゃんの親戚が山梨まで会いに来たことがあります。せっかくの遠出だからとはりきってとっておきの着物を着て訪れています。ところが、当時の山梨の人は絹の下着を着ているのです。恥かしくて着物が脱げず、風呂にも入らず山梨をそそくさと後にしたという話です。
 姉ちゃんと兄ちゃんは山梨で生まれています。けれども、チコちゃんが生まれたのは岩手県の千厩(せんまや)町です。1942年にミッドウェーやガダルカナルで日本が破れた後、父ちゃんが岩手県庁に転勤になったからです。チコちゃんの誕生日は1943年2月26日、つまり2・26事件から7年後です。千厩町は岩手県一関市にありますが、平成の大合併までは東磐井郡を構成しています。
 父ちゃんは県庁の公務員獣医として千厩に派遣されています。その間、チコちゃんの家族は千厩の旧家でお世話になっています。門の両側には杉の大木があるとても大きなお屋敷です。使用人も大勢います。藏には伊達藩の武将の甲冑鎧が一式揃っています。この千厩には2、3年いて、その後は岩手県内各地を転勤する生活をしています。
 「千津子」という名前はこの地名に由来しています。母ちゃんは娘の名前に生まれた地名の「千」を入れたいと思います。「千恵子」にしようとしたら、父ちゃんが反対します。それではと「千寿子」や「千鶴子」を提案しても、これにも納得しません。考えた挙句、「千津子」を示すと、ようやく父ちゃんが了承します。そういうことで「千津子」になったというわけです。
 チコちゃんの兄妹の名前は全員が漢字二文字です。父ちゃんも漢字で二文字、母ちゃんはカタカナで二文字です。チコちゃんだけが三文字の名前です。家族で名前を書くと、一人だけ、一文字分長いのです。けれども、二文字だと、本名も「千子(ちこ)」になっていたかもしれないので、チコちゃんは三文字の名前でよかったと思っています。

 ハアアーア アアーアーエ 朝の出がけにハアアーエ
  山々アハア見ればアヨー(ハイーハイ)
  霧のハアーかからぬウーエハア 山はない
  南部片富士 裾野の原はヨ
  西も東も 馬ばかり
(『南部馬方節』)

 北上山地は古代から日本有数の名馬の産地として知られています。起伏が緩やかな準平原状の高地が広がっているため、馬の飼育に適しているからです。千厩という地名は、平安時代に奥州藤原氏がその地に千の馬小屋を建てたエピソードに由来します。まさに千厩は「千のプラトー(高地)」を物語っているのです。

 器官なき身体(Corps sans Organes 以下CsO)とは、あらゆるものを取り払ってしまった後に、まだ残っているもののことだ。 そしてわれわれが取り払ってしまうものは、まさにこの幻想、つまり「意味性と主体化の集合」なのだ。

 今ならこう言うことができる。<われわれ>とはCsOである。 有機体、意味作用、主体を構成するこれらの沖積土、沈殿、褶曲、転倒は、CsOの上に、つまりこの氷河のような現実の上に形成されるのだ。・・・ CsOは叫ぶ。おれは有機体を強いられた。不当にもおれは折り畳まれてしまった。おれの体は盗まれた。 神の裁きはCsOをその内在性からはぎとり、これに有機体、意味作用、主体をでっちあげる。
 きみは意味するもの(シニフィアン)であり、意味されるもの(シニフィエ)、解釈者であり、解釈されるものでなければならない。──さもなければ、きみは変質者に過ぎない。
 CsOは卵である。卵はしかし退行を示すものではない。それどころか、卵はまさに現在であり、人はいつも卵を、自分の実験の場として、結合された環境としてかかえている。 卵は純粋な強度の場であり、内包的空間であって、外延的延長ではない。生産の原理としての強度ゼロである。
 CsOは、大人、子供、母親の厳密な同時性そのものである。 それらの密度の、あるいは比較された強度の地図であり、またこの地図の上のあらゆる変化そのものである。
(ジル・ドゥルーズ=フェリックス・ガタリ『千のプラトー』)

 岩手県が馬の産地であったことは、北上市出身の俳人及川あまきの句がよく物語っています。あまきは石川啄木の森岡中学の同級生です。

 牧清水飲みたる馬の歩きそむ

 骨折の馬吊しあり千菜宿

 かたまりて草喰む馬や月の牧

 召され征く馬に旗立て梅の門

 野を駆くる仔馬の肢の秋天に

 木曽川を義仲青毛馬を洗ひをり

 馬くろくちらばつゐる雪の牧

 兄妹の一馬に乗りて草紅葉

 左鞭つかひ勝馬さまたげぬ

 去勢馬の菰を着て通る牡丹雪

 孫乗せて仔馬祖父ひき厩前

 あまきの前にいるのは抽象的な馬一般ではありません。それは具体的・個別的な馬です。馬が身近でなければ、これほど多様な馬をめぐる句は詠めません。「去勢馬」の句は他の俳人にはまずないでしょう。
 実は、あまきはチコちゃんの父ちゃんの盛岡高等農林の先輩だけでなく、山梨県庁での上司です。あまきは、1906年、盛岡高等農林学校の獣医学科を卒業後、現在の大学院に相当する馬学研究科に進んでいます。その後、農商務省に入省、1912年から32年まで、陸軍省馬政局農林省種馬育成所に技師として勤務しています。翌年から1946年まで帝国馬匹協会など各種馬事団体に所属、その時期に山梨県庁に出向して山梨県種馬所長に就きます。チコちゃんの父ちゃんの上司になったというわけです。検疫なんかをしていたそうです。
 第二次世界大戦前、農耕・輸送手段のみならず、軍馬の需要があり、北上山地は比較的経済的に恵まれています。しかし、その馬依存の産業構造は、戦後、停滞の原因になります。軍馬の需要が途絶え、農耕・運輸も時を経るにつれて馬から機械にとって代わります。馬に依存したモノカルチャーのために、こうした時代の流れへの対応が遅れ、経済的に苦しい状況に陥ります。盛岡を始め県内陸部で開催されていた馬の定期市も昭和40年代を迎える頃に中止されていきます。
 今では岩手県と馬の関係がいかに密接だったか知る由もなかなかありません。山本嘉次郎監督が岩手県を舞台に名作『馬』(1941)を撮っています。これは山本監督の代表作で、監督自身の脚本によるドキュメンタリータッチのドラマです。4人のカメラマンがそれぞれ春夏秋冬の撮影を担当、黒澤明製作主任が脚本と編集も一部担っています。岩手県と馬の濃密な関係が見て取れる作品です。ただ、主なロケ地は北上山地ではなく、和賀郡など奥羽山脈です。このロケ地に向かうには、黒沢尻町(現北上市)から横黒線(現北上線)に乗る必要がありますが、その路線には「黒沢」という名の駅もあります。
 映画と言えば、チコちゃんは映画が大好きです。もっとも、当時はテレビやゲーム、スマホもありませんから、子どもにとって視覚的娯楽は紙芝居か映画です。石鳥谷の街に映画館があります。そこで、時々、『鞍馬天狗』などチャンバラ映画を見ます。
 映画館だけでなく、学校や地域でも映画を上映しています。小学校の時には、高学年が体育館に暗幕やスクリーンを張って用意をし、全校児童で一緒に見るのです。ただし、上映される映画は何年か前のもので、その内容は教育的です。
 1952年公開の若杉光夫監督作品『母のない子と子のない母と』を小学校で上映した時のことです。これは、終戦直後の小豆島を舞台に、戦争で家族を失ったある女性と母親を亡くした兄弟の交流を中心に、島に暮らす人々の生活を描いた作品です。壺井栄による原作の小説は第2回芸術選奨文部大臣賞を受賞しています。隣で見ていた玲子さんが、上映が始まってしばらくすると、突然、鼻をすすり、目に涙を浮かべ始めます。それを目撃したチコちゃんはそおっと席を離れ、藤井万里子先生の元に急行します。
 「先生、大変です!玲子さんが泣いています!」
 それを聞いた藤井先生は、チコちゃんに静かにこうささやきかけます。
 「泣かせてあげなさい」。

 この「馬」のストーリーの中に、売られた仔馬を探し求めて、母馬が走り廻るところがある。そういう時、母馬が、まるで狂ったようになって、厩を蹴破って飛び出すし、放牧場まで行って、その柵から中へもぐり込もうとさえする。私が、その母馬の気持が哀れで、その表情や行動うぃ克明に継ぎ、ドラマティックに編集した。
 ところが、映写して見ると、少しも感じが出てこない。いくら編集し直しても、母馬の気持がその画面からにじみ出て来ないのである。山さんは、その私の編集したフィルムを、私と一緒に何回も見たが、黙っているだけだった。これでいい、と云わないのは、これでわるい、と云う事だ。私は、ほとほと困って、どうしましょう、と山さんに相談した。その時、山さんは、こう云った。
「黒澤君、ここは、ドラマでない。もののあわれ、じゃないかね。」
 もののあわれ、この古い昔の日本の言葉で、私は、目が覚めたように悟った。
「わかりました!」
 私は、編集を、まるっきり変えた。
 ロング・ショットの情景だけを継いだ。
 月の夜に、髭や尾をなびかせて、走り廻る母馬の小さいシルエットだけを重ねるように継いだ。
 そして、それだけで十分だった。
 それは音を入れなくても、哀しい母馬の嘶が聞え、沈痛な木管の調べが聞えて来た。
(黒澤明『蝦蟇の油』)

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