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歴史と遺産(1)(1994)

歴史と遺産
Saven Satow
Sep. 14, 1994

「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。
人をその父に、
娘を母に、
嫁をしゅうとめに。
こうして、自分の家族の者が敵となる」。
『マタイによる福音書』10: 34~35

1 ハイデガーにとっての「遺産」
 マルティン・ハイデガーは、中断された『存在と時間』の最後の断片的なままの部分で、「歴史」に関して論じている。現存在は避けられるべくもなく、根本的に時間的であるが、この時間性の主要な体現は「歴史」であると言う。次の三点の問題に答えながら、ジョージ・スタイナーの『マルティン・ハイデガー』によると、ハイデガーは「歴史」を解明していく。

1 「歴史」とは真に何に関わるものであるのか。
2 「歴史」は「各個人」の「実存」にいかに関わるものであるのか。
3 「歴史」は時間性の過去-現在-未来という三つの「脱自態」からなる構成物であるのか。

 そこで、ハイデガーは新たなかつ重要なキー・タームを導入する。それは、「運命(Geschick:destiny)」と「宿命(Schicksal:fate)」、「遺産(Erbe:legacy,heritage)」の三つである。この「運命」・「宿命」・「遺産」は三つで一つの組をなしている。

 ハイデガーは、『存在と時間』において、この三つの術語について次のように述べている。

 現存在は、投げだされたものとして、かれ自身およびその存在可能に、引渡されてはいますが、それにもかかわらず世界・内・存在としてどのみち引渡されているのです。投げられたものとして現存在は「世界」にたより、事実的に他人とともに実存しています。まずたいてい自己は、〈ひと〉のなかへ自分を失っています。それぞれそのつど今日の「平均的」な公共的な、現存在の解釈されてあることのうちに「通用している」実存の諸可能性から、現存在は、自分を了解しています。これらの可能性はたいてい、〈あいまいさ〉によって見分けがつかなくされているけれど、それにもかかわらずよく知られているのです。本来的な実存的な了解の働きは、受け継いだ解釈された状態を避けることはないから、またこの状態に反して、しかもなおそのためにまた、選びだされた可能性を、覚悟を決めることのうちに促えているのです。
 現存在がそこにおいて自分自身に戻ってくる覚悟性は、それが投げられたものとして 継承する遺産から本来的に実存することの、それぞれそのつどの事実的な諸可能性を、開示するのです。覚悟を決めて被投性に戻ってくることは、たとえ必ずしも受け継いだものとしてでなくとも、受け継いだ諸可能性を伝承してゆくことを、そのなかに秘めています。もしすべての「善きもの」が遺産であって、「善良さ」の性格が、本来的な実在を可能にすることのうちにひそんでいるならば、そのつど覚悟性において、遺産の伝承が構成されています。
 現存在がますます本来的に覚悟を決めればそれだけに、すなわち現存在が、死への先 駆においてその最も自己的な、優れた可能性から疑いなく自分を了解すればそれだけに、現存在の実存の可能性を選択して発見することが、ますます明白に偶然的でないようになるのです。ただ死への先駆だけが、すべての偶然的で「一時的な」可能性を駆逐するのです。死に対して[遮るものでなく]展けて在ることだけが、現存在に目標を率直に与え、実存を有限性に押しやるのです。実存のこの掴まれ他有限性は、快適、軽率、サボることという、立ち現われる最も手近い諸可能性の涯しない多様さから[ムリに]引き戻して、現存在を、その宿命の単純さへともたらすのです。それでもってわたしたちは、本来的な覚悟性のうちにひそんでいる現存在の根源的な生起を表示し、その生起において現存在は、死に対して[遮ぎられることなく]自由であって、遺産として伝えられたけれども、それにもかかわらず選びだされた可能性において、かれ自身に自己を伝えているのです。
 それゆえ現存在は、その存在の根底において特性づけられた意味で、宿命であるから こそ、現存在は、宿命の打撃[不運]に出会うことがありうるのです。自分を引き渡してゆく覚悟性ののなかに、宿命的に実存することによって、世界・内・存在としての現存在は、「幸福な」状態を「迎えること」や偶然の[出来事の]残酷さに対して、開示されているのです。厄介な事件と大事件とがぶっつかり合って初めて、宿命が成立するのではないのです。覚悟を決めていない者もまた、それらの事件によって、いや[覚悟することを]自分で選んだものよりもなお多く、追い廻されているけれども、なんらの宿命を「もつこと」[身につけること]ができないのです。
 現存在が、先駆することによって死を自分で征服するようになるならば、現存在は、死に関しては自由[自在・無碍]であり、自分の有限的自由という独自の圧倒的な威力のうちに自分を了解しているのであって、それも、そのつど選択が選びだした事実においてだけ「存在している」自由において、自分自身に引渡されているという、無力を受け継ぎ、そして開示された情況の偶然について見通しが利くようになるためなのです。しかし宿命的な現存在が、世界・内・存在として、本質的に他人との共同存在において実存しているならば、その生起は共同生起であり、運命として規定されます。そこでわたしたちは、社会や民族の生起を、運命と呼んでいるのです。運命が、個々の宿命で合成されているのでないことは、ちょうど共同相互存在が、多くの主観の集合でないのと同様です。同一の世界における共同相互存在において、また様々の定まった可能性のための覚悟性において、初めからすでにさまざまの宿命が、導かれているのです。伝達と闘いにおいて、運命の力は初めて自由になります。その「世代」において、またその「世代」とともに、現存在の宿命的な運命は、現存在の充全な本来的な生起を形成しているのです。

 現存在は、将来的であるかぎりにおいてのみ、本来的にあったものとして存在し得る。将来は、この場合、現存在の実存論的目的である本来的存在への投企、すなわち可能性の先取りとそれへの立ち戻りを意味している。だから、将来は「遺産」相続であるときにのみ、現存在がその相続人としてある程度に応じて、意味を持つ。その「遺産」継承において、現存在は自己の潜在的可能性、将来から生じてくるものとしての存在を見出す。

 「宿命」が個人的であるのに対し、「運命」は「共同体」的である。現存在は世界・内・存在として本来的に他人との共同存在だ。ベルギーのウィリアム・リチャードソンの『ハイデガー-現象学を経て思索へ』によると、歴史性によって構成された生起するものは、他のそこにある存在者たちとともに成し遂げられるのであり、そのすべてが共同体ないし国民を形成する。歴史的現存在は、結果として、それ自身の個人的本来性を共同体から離れて達成することができないのだから、彼自身の現存在が本来的に継承する「遺産」はたんにその個人的な歴史ではなく、現存在がともにある全民族の「遺産」のようなものだ。ある人が十二分に現存在としてあることは、自分自身の真の歴史的「遺産」をとり込むことである。それは、積極的に個人の死への存在としてその有限性を受け入れること、すなわち有限な選択の中でどれをとるかが要求されることであるが、その選択には共同体や民族の「運命」における個人の来世の生命も含まれている。自分の「宿命」を、現存在が他人との共同存在において実存していて、引き受けることは一つの「運命」に応えることだ。「運命」とは民族的レヴェルにおける本来的なものとしての「宿命」である。つまり、「歴史」は現存在の「遺産」継承に適用された「決意性」であり、「共同体」の「運命」に個人の「宿命」を動的に埋め込むことである。

 さらに、ハイデガーは次のように述べている。

 本質的にその存在において将来的であり、従って、その死について自由であって、自分において打ち砕かれて、事実的な〈現〉へと投げかえされることのできる存在者だけが、すなわち将来的なものとして根源を等しくして既存的である存在者だけが、自分自身に遺産として残された可能性を伝承しながら、自分独自の被投性を受け継ぎ、「自分の時」に対して瞬間的でありうるのです。本来的であると同時に有限的な時間性だけが、宿命といったもの、すなわち本来的な歴史性を可能にするのです。

 「遺産」とは、ハイデガーに従うなら、共同体の光り輝く失われた起源との本来的な同一化・内在化・統合化をもたらす一種の理想的な「シンボル」であり、それは「自己完結した、むだのない、たえず自己に固執する理念の記号」(デイヴィッド・ゲレス)ということになろう。

 しかし、1927年に発表された『存在と時間』におけるハイデガーの「善きもの」としての「遺産」は、そもそもシンボルが「神秘的な刹那」に基づく「無関心な自己満足」(ヴァルター・ベンヤミン)の様相を帯びている。とすれば、1933年から始まる恐るべき「歴史」の不吉な「運命」や「宿命」の兆しであったことは、ジャック・デリダのハイデガーとナチスとの哲学上の本質的緊密性を批判した『精神について』を見るまでもなく、今さら、言うまでもない。「純粋な同一性は死であるという哲学的命題の正しさをアウシュヴィッツは証明している」(テオドール・W・アドルの『否定弁証法』)。


2 遺産と負債
 「一切の文学の源泉となるのは、子供の語るいわゆる『家族物語』である」と言ったジークムント・フロイトは、原始時代に、一人の族長がすべてを支配している世界があったという仮説を提示する。その上で、族長は息子たちを追放したが、彼らによる「父殺し」が起こったとする。

 フロイトは、『モーセと一神教』において、それについて次のように述べている。

 父親殺害後かなり長い間、兄弟たちが互いに父親の遺産を自分一人で独占しようとして争う時期が続いたと考えられる。しかし、こうした闘争の種々の危険やその徒労についての洞察、協力の下に果たした解放行為の思い出、さらに、追放時代に生じた相互の感情的結合、こうしたことがついに彼らの間の和解、つまり、一種の社会契約を生み出すことになったのである。かくして、衝動放棄と相互的義務が承認される社会的体制の 最初の形式、すなわち不滅(神聖)なものとして説明される一定の制定、つまり、道徳と法との端緒が発生したわけである。各個人はみな自分が父親の地位を独占するという理想を放棄し、ひいては母や姉妹を所有物にすることを断念した。かくして近親相姦タブーと外婚の掟とが生まれたのである。

 フロイトがここで語っているのは、いかにして「共同体」が成立し、どうそのメカニズムが形成されたかということである。しかし、この説明は、『創世記』の域を超えるものではない。父による子の追放のくだりはアダムとイヴの息子カインのそれを思い起こさせる。また、闘争状態終結のため「社会契約」締結の必然性にしても、彼が学生時代に翻訳を試みたというホッブズの『レヴァイアサン』の考察の要約である。

 だが、「遺産」という言葉に焦点を合わせてこの話を見るならば、事情は異なる。「遺産」というものが共同体成立のメカニズムである「近親相姦タブーと外婚の掟」形成の引き金になっている。ハイデガーにおいては、「遺産」は光り輝く「善きもの」であり、それゆえ「遺産」継承とは共同体的な誇り高き栄誉であったものが、ここでは血なまぐさい「闘争」の根本原因として表われている。フロイトは、ハイデガーが「歴史」から消去してしまった「闘争」をその本質的運動としてとらえている。つまり、フロイトは「歴史」の出発点に「世代」間の「闘争」を前提にしており、「遺産」とはその写像である。

 ハイデガーの「遺産」は定義が不明確で、何を指しているのか明らかではない。フロイトの議論と照らし合わせるならば、それは前世代と後世代の関係と捉えることができよう。「国家」や「民族」を持ち出さず、名門の一かを思い起こせば、ハイデガーのロンはわかりやすい。「遺産」を継承する後世代は名家の「運命」の下で自らの「宿命」と受け入れて生きることを前世代は期待する。この思いを共有する時、後世代は前世代と一体化し、は名門の中の自身を認識する。

 ハイデガーの視点は前世代にあり、フロイトはそれを後世代に置いている。「遺産」をめぐって一族が骨肉の争いを繰り広げる。後世代による前世代への闘争が歴史だというわけだ。

 歴史をこういう「遺産」から見るなら、思想家の捉え方が明瞭になる。ハイデガーとは反対に、人間が本来的に共同体的であることに異議を申し立てたのが、ジャン=ジャック・ルソーである。ルソーは、『人間不平等起源論』において、「自己保存」的でありかつ「同情(compassion)」的でもあり、一切の目的論的思考を持たない「自然人」が、いかにして共同体を形成してしまったのかを論じている。「国家状態はほとんど偶然の所産」で、必然的なものでもなく、本来的なものでもない。彼の語る共同体成立のプロセスには、『創世記』に基づいているが、フロイトの場合と違い、「原父」、「父殺し」が設定されていない。ルソーによれば、共同体は、言語的比喩を通して例証されているが、意図していない「情熱(passion )」と呼ばれる盲目的な比喩化の作用から生じており。人間は、不可避的に、考えていることとまったく違うことをしてしまう。つまり、歴史における偶然性をルソーは見出している。

 ポール・ド・マンは、『人間不平等起源論』を論じた『陰喩』において、次のように述べている。

(略)『人間不平等起源論』が言っているにもかかわらず、ルソーの古典的解釈がかたくなに耳を閉ざしてきたことは、人間の政治的運命なるものは、自然からも主体からも独立して存在する言語的モデルと同じ様に構造化されており、そこから派生しているということである。人間の政治的運命は、「情熱」と呼ばれる盲目的な比喩化の作用と共に生じ、そしてこの比喩化の作用は意図的な行為ではないということである。(略)仮に社会と政府とが、人間とその言語との間の緊張から派生するものだとすると、それらは自然な(人間と事物との関係に左右される)ものではなく、倫理的な(人間同志の関係に左右される)ものでもなく、神学的なものでもない。言語は超越的な原理ではなく、偶然的な誤りを犯す可能性を持つものだと考えられるからである。政治的なものはそのために人間にとっては好都合の機会と言うよりも、むしろ重荷となるということなのである。

 「人間の政治的運命」が、望まないにもかかわらず、意図しないにもかかわらず、偶然にも、生じてしまい、「重荷」となってしまうのなら、その「運命」を引き受ける「相続人」にとって、「遺産」も「重荷」となる。「遺産」は負債でしかなく、人間の間の「不平等」は歴史を経るにつれ拡大していく。

 ハイデガーは共同体の運命の下で個人の宿命を見出し継承されてきた遺産を引き継ぐことが歴史だとする。それに対し、フロイトは全世代からの「遺産」相続をめぐって後世代が争うのが歴史だとみている。さらに、ルソーは望んでもいないのに、「遺産」を前世代から後世代に押しつけられ、歴史は負債として形成される。それは世代間の継承・闘争・転嫁と言う三つの歴史についての考えである。

 このルソーの歴史記述による思想の展開に影響を受けたのがG・W・F・ヘーゲルである。 歴史的思考とは、一般的には、後の「世代」、現在の認識論的パースペクティヴで前の「世代」、過去を構成し、解釈することを意味している。歴史を結果において、全体を見通すヘーゲルに代表されるような目的論は、その典型であろう。「世界史とは自由の意識の進歩を意味する」(『歴史哲学』)と主張するヘーゲルにとって、矛盾が歴史の原動力であり、理念はそれによって自己を実現する。「終わり」に向けられた「目的」の実現が歴史である。しかし、逆に、ヘーゲルの目的論は、先送りされた時間性(=「終わり」)によって現在を規定してしまい、将来の「目的」実現のために現在そのものの否定ということを含んでしまう。「結果」とは遠近法的配置にすぎないにもかかわらず、必然化されてしまうとき、パースペクティヴの消失点である「結果」が「原因」にすり替えられてしまう。

 ヘーゲルにとっても、前世代から後世代に相続されるのは負債である。ただ、ルソーとは逆に、世代が進むにつれ、負債を返済していく。負債があるからそれを解消しようと後世代は努力する。人間の歴史は負債返済の家庭であり、その終わりには望ましい結果に到達する。フロイトが現世代に視点を置くのに対し、ヘーゲルは終わりの世代から歴史を見ている。

 ハイデガーが前世代、特に始まりの世代を優越的に見ているとすれば、このヘーゲルは終わりの世代を絶対視している。近代的な「遠近法」は「消失点作図法」に基づいている。エルヴィン・パノフスキーの『象徴形式としての遠近法』によると、それは「幅・奥行き・高さのすべての値をまったく一定した割合に変え、そうすることによってそれぞれの対象に、その固有の大きさと眼に対するその位置とに応じた見かけの大きさを一義的に確定する」。消失点とは「結果」であり、知覚によって存在するものではなく、作図上存在しているだけである。「遠近法」とは、従って、純粋にユークリッド幾何学的であって、現実そのものではない。ところが、この「遠近法」に慣れてしまうと、それが作図上のものであることが忘れられ、現実が、まさに、必然的に「遠近法」的であると認識されてしまう。「遠近法」と現実との関係そのものが「結果と原因を混同する遠近法的倒錯」(ニーチェ)に倒錯されてしまう。


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