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中村光夫、あるいはわが青春に悔なし(7)(2005)

10 アジアの青春
 言うまでも無く、近代日本が手本にした近代に対する西洋人自身の認識にも、実際、線形的であり、倒錯した意識が見られます。社会の変動を封建社会から近代社会への発展と捉える「近代化論(Modernization Theory)」はアンリ・ベルグソン(Henri Bergson)の「閉じた社会」から「開かれた社会」へ、フェルディナント・テンニース(Ferdinand Tonnies)の「ゲマインシャフト」から「ゲゼルシャフト」へ、マックス・ウェーバー(Max Webber)の合理化論などが最初期の代表です。これらは産業主義的で、唯物史観の体系立った歴史発展を覆し、経済成長を近代化の機軸として発展史観を提出した反マルクス主義のイデオロギーです。

 ベルグソンには均衡=非均衡の観点がありながらも、全般的には十分にそれが生かされず、線形的な枠組みによる歴史把握と言えます。さらに、こうした立場は50年代から60年代にかけて進歩主義的理論として支配的になり、唯物史観に対抗して、発展途上地域の開発問題などを背景に、戦後のアメリカの世界戦略を理論的に正当化しています。

 ウォルト・ホイットマン・ロストー(Walt Whitman Rostow)は、『経済成長の諸段階』(1960)において、経済成長論の立場から伝統的社会・離陸のための先行条件期・離陸期・成熟への前進期・高度大衆消費時代という五段階の経済発展段階を主張しています。この本の副題が「一つの非共産主義宣言」であるように、ロストーの近代化=産業化(industrialization)は唯物史観批判が鮮明です。

 また、マイロン・ウィーナー(Myron Winner)やシリル・エドウィン・ブラック(Cyril Edwin Black)、デイヴィッド・E・アプター(David E Apter)、シュムエル・ノア・・アイゼンシュタット(Shmuel Noah Eisenstadt)らが、政治社会学の観点から、第三世界の発展と近代化を分析しています。

 先進国の理論家は第三世界が近代化を達成できないのは生産関数上の資本・人的資本・技術革新といった要素が不足しているからだと考えています。ところが、先進国がその支援を行ってもうまくいきません。実は、この生産関数が成り立つためには暗黙の前提があります。大量の失業者がいる地域に、人手を減らす最新の機械を援助しても、そもそも保守できる人材もいません。「そして世間から学者といわれるような人々に却って無教養な者が多いのも当然の事として頷ける筈である。彼等の所謂教養とは、多くの場合単に無用な知識の堆積にすぎない」(中村光夫『中島敦』)。

 前近代は、近代に比べて、非合理的だという先入観も次第に改まっていきます。1970年代に途上国でセオドア・W・シュルツ(Theodore William Schultz)の近代理論が本格的に導入されます。彼は第三世界の農村地域を研究し、『農業近代化の理論』や『世界農業の経済的危機』、『経済成長と農業』、『農業的誘引の歪み』といった示唆に富んだ著作を発表しています。伝統的な農民は合理的な「経済人」であることを強調します。彼らが新しいものをとりいれたがらないのは、シュルツによれば、農業拡大事業への意識の欠如、第三世界の多くの政府がとる差別的価格や課税政策によって、農場経営に対する経済的収益が不確実となることが原因です。第三世界の農村の貧困は都市偏向の発展計画──急速な産業化と輸入代替──の産物で、それが農村に最低生活水準の自給生産を招いているのです。

 80年代にポストモダンが勃興し、先進国において段階論で形成された近代概念が再検討されます。90年代に入ると、冷戦構造の解体による社会主義諸国の発展戦略が挫折したものの、東アジア諸国やASEAN、インドが経済成長を遂げ、グローバリゼーションと各種原理主義が進行し、こうした近代化論を葬り去っています。1993年、世界銀行が『東アジアの奇跡-経済成長と政府の役割(EAST ASIA MIRACLE:Economic Growth and Public Policy、A World Bank Research Report)』を公表します。成長の要因として、政府のマクロ政策や金融制度の整備、中等教育の普及、農業生産の効率化などの基礎的条件整備を挙げています。

 そうした世界情勢を考慮するなら、近代は段階ではなく、ゆらぎです。現在、中国やベトナム、イランといったかつて原理主義的政策を実施していた国家の間で、近代化が進み、経済的な発展と政治的な多様化が見られるようになっています。かつてアメリカが東西冷戦の戦略に基づいて援助した政権は「開発独裁」と呼ばれています。フェルディナンド・マルコスのフィリピンやスハルトのインドネシア、アウグスト・ピノチェトのチリを筆頭に、腐敗し、独裁化が進んだだけで、民主的活動は弾圧され、政治参加が制限、経済成長しても貧困救済は不十分、支持派と不支持派など社会の分断化が厳しくなっています。

 近代化のモデルは産業革命のイギリスです。前近代と違い、近代にはこの標準があります。近代化を遂げるには国民国家として社会がまとまり、経済中心政策をとる必要があります。社会が分裂していては近代化を達成できません。しばしば途上国は独自の近代化や近代の超克を模索しますが、失敗することが少なくありません。社会にまとまりがなく、経済よりも政治を優先させるために、それを悪化させてしまうからです。近代の前提は社会がまとまっていることです。その上で、諸般の事情からその国固有の近代化、ゆらぎの近代化が成し遂げられます。

 新近代化政策を施行している国々では、政権が原理主義的なイデオロギーを掲げながら、民衆の不満や要求に徐々に応え、開放化を実施しているのです。もちろん、保守派は近代化に苛立ちを覚えますから、より戻しの動きも生じます。その過程は不規則なゆらぎのリズムを持っています。改革開放政策の中国共産党は労働者の利益代表ではなく、商工会議所と化しています。

 2004年12月16日付『朝日新聞夕刊』の定森大治の「イランの将来像」によると、イランの元政府高官は、モハメド・ハタミ政権下の最近の近代化について、「革命前の近代化は、西欧モデルの模倣を意味していたが、今はイラン独自の近代化を模索する時代だ。とはいえ、保守派が石油利権や金融をおさえている現状を変えないことには」と言っています。イランは、イスラム革命前にもモハンマド・レザー・パフレヴィーによって、西洋近代化が推進されています。もっともその内実は先の親米独裁政権とさほど変わりません。

 また、ベトナムにしても、アメリカが多額の資金援助を行い、近代的な学校や病院を建設しています。けれども、ベトナムの民衆はアメリカの軍事介入に賛成せず、戦争に勝利したにもかかわらず、市場経済を取り入れるだけでなく、1995年に合衆国と国交を正常化しています。ベトナムのホー・チョン・デー元将軍は、2005年1月5日付『朝日新聞夕刊』に掲載された中島泰の「ハノイの将軍」によると、アメリカとの和解について「賛成する。だが、たくさんの地雷と枯葉剤が残る問題の解決に手を貸して欲しい」と答えています。

 諸般の事情はあるものの、この三国の政府は経済中心政策が社会をまとまらせることに気づいています。また、世界を驚かせた米中接近からすでに30年以上が経ちますから、不惑でさえ「米帝」を知らない世代です。さらに、ベトナムにしろ、イランにしろ、人口の半数以上をアメリカとの対決の後の世代が占めています。青春が近代化を実現しているのです。彼らはリーダーでも、テクノクラートでも知識人とも言い切れません。それは大衆にほかなりません。

 エリートの青春が従来の近代化でしたが、大衆の青春が新たな近代化の特徴です。かつての近代化が政治主導で行われたとすれば、今回の近代化は経済の要求に押されて進んでいます。近代の超克などは、どれほど1940年代の日本人にとって有意義であったとしても、彼らには、空疎です。経済に着目すると、近代は到達され、かつ超えるべき段階ではありません。中国やベトナム、イランは近代というゆらぎの中にいます。1/fゆらぎとしての近代化を模索しているのです。

 この三国だけでなく、東南アジアにおける近代化は日本とは比較にならないほど劇的です。日本の近代化は、アジア諸国と比べて、緩やかに実行されています。近代日本について、西洋が何世紀に亘って達成されてきたものをわずか100年で実現した変化の激しさを強調して論じられることが多いのですが、他のアジアの地域の経験はそれ以上に激烈です。

 「たとえばタイ。低湿地を人工的に農地化し、それをいま工業化しようとしている。日本の何百年かの歴史を、百年ぐらいに圧縮して見る気分。あるいはインドネシア。火山国で、地味が豊かで農業生産性が高く人口が密集している。ヒンズー教、仏教、イスラム教と、異文化が流入して、それが多様化してインドネシア化する。こちらは日本の歴史をひろげた気分。もちろんそれらが日本と異質なことは当然。ASEANを見る視点でのイメージだけの話。イメージと言って、デザインと言っていない。APECで日本のリーダーシップなどと言われるが、『大東亜共栄圏』のことがあるので、あまりリーダーシップと言ってほしくない。それだと、米国や中国のような大国政治の構図のなかでのデザインになる。デザインを考え出すと文化よりは政治で、力の地図をえがきかねぬ。それよりは、文化のイメージをえがくほうが安全」(森毅『二十一世紀のアジア』)。

 近代の超克は、政治主導で、デザインを考え出し、「力の地図」を描く企てです。「文化のイメージをえがく」ことをしていません。日本浪漫派のアジアへのシンパシーにしても、アジアの複雑さが欠けています。日本の近代化は、東南アジア諸国に比べれば、ゆっくりしているだけでなく、単純です。線形として捉えられるのです。日本より多民族・多宗教を抱えていたり、地理的複雑さを備えていたりするアジア諸国の近代化は非線形的です。

 アジア諸国が台頭してくると、日本の既得権が脅かされると他国を脅威と見なすナショナリズムが沸き起こります。青春に凝り固まった姿勢です。そこで東アジアにおける「リーダーシップ」と言い出します。けれども、それは「米国や中国のような大国政治の構図のなかでのデザイン」にすぎません。今の自分にとって青春をどう位置づけるかがないのです。

 中村光夫は衛星放送やインターネット、携帯電話といった高度に発達した国際的な情報網も目にすることはありません。けれども、彼は近代に向けられた意識の倒錯を問い、ゆらぎの視点を持っていたため、その洞察は、むしろ、現代的です。民衆からの要求によって日本の現状に適応するために変化した近代を中村光夫は決して非難したりしません。「動きなれた精神の軌道から出ることは、口に云ふほど、簡単ではないのです」(中村光夫『「近代」の借り着』)。

 問題なのは認識に潜む意識です。近代化の導入を自己組織化を持つゆらぎとして非線形的・非均衡的に認識するのが新しい近代化です。そこにはかつてのような倒錯した意識が希薄です。ゆらぎの中で近代化が推進されているのです。中村光夫は近代をある歴史的段階と捉えていません。前近代=近代=脱近代という線的な歴史観ではなく、近代をゆらぎとして把握しているのです。

 線形的手法が非線形現象にはお手上げである以上、近代に限界があるのは当然です。だからと言って、線形的体系の完成度を利用せず、それを廃棄するとしたら、愚かなことでしょう。近代の超克を代表に、近代以外を模索する試みは成功していません。中村光夫は1/fゆらぎとしての近代化を暗示します。彼は反近代ないし脱近代ではなく、近代を自己組織化に基づいて問いつめることによって、それを非線形の認識として再検討しています。中村光夫の作品は、今日拡大しつつある新たな近代化についても示唆を与えているのです。

 青春ではカントを読みました、ゲーテを読みましたと言っても、その頃の「自己形成」のコースの延長上に人生があったのでは、そのあと一向に成長しませんでした、と言うようなものではないか。あるいは、それを思い出の通過儀礼に封じ込めて、別の大人の人生を歩みましたでは、もっとつまらない。コースに沿っての成長なんてのは、今の時代にそぐわない。それだけにかえって、コース信仰が強まっているが、実質が空洞化すると幻想は肥大化するという法則が貫徹しているだけのこと。
 人生その時々に、それを成長と呼べるかどうかは別々としても、さまざまな屈折があるのは当然のことである。そして、その原型が青春にあって、その時に人生が固まってしまうものでもなく、別の形の屈折として姿を現すものだろう。そうした意味でこそ、青春の屈折である。それは成長を約束するものでもない。
 現在のぼく自身にとって、マンやヘッセを読んだ時代というのは、もうほとんど忘れてしまった青春の物語でしかない。しかしながら、その青春をどう位置づけるかは、老人の現在の問題としてある。
(森毅『マンやヘッセを読んだ時代』)

 「僕らは惰性で灰色の老年を生き、残った酒の苦がい澱を飲まねばなるまい」(中村光夫『鈴木力衛への弔辞』)。
〈了〉
参照文献
『中村光夫全集』全3巻、筑摩書房、1971~73年
『世界の文学』91~93、朝日新聞社、2001年
江藤淳、『成熟と喪失 “母”の崩壊』、講談社文芸文庫、1993年
柄谷行人編、『近代日本お批評』全3巻、講談社文芸文庫、1997年
柄谷行人、『ヒューモアとしての唯物論』、講談社学術文庫、1999年
同、『<戦前>の思考』、講談社学術文庫、2001年
佐藤秀夫、『教育の歴史』、放送大学教育振興会、2000年
竹田青嗣、『<世界>の輪郭』、国文社、1987年
都甲潔他、『自己組織化とは何か―生物の形やリズムが生まれる原理を探る』講談社ブルーバックス、1999年
森毅、『二番が一番』、小学館文庫、1999年
同、『21世紀の歩き方』、青土社、2002年
吉田和明、『吉本隆明』、現代書館、1985年
吉田健一、『東西文学論・日本の現代文学』、講談社文芸文庫、1995年
マーク・ブローグ、『ケインズ以後の100大経済学者―ノーベル賞に輝く人々』、中矢俊博訳、同文舘出版、1994年

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