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『美味しんぼ』騒動とマンガのリテラシー(2014)

『美味しんぼ』騒動とマンガのリテラシー
Saven Satow
Jun. 07, 2014

「一、戦争や災害の犠牲者をからかうようなこと
一、特定の職業を見くだすようなこと
一、民族や、国民、そして大衆をばかにするようなこと
この三つだけは、どんな場合にどんな漫画を描こうと、かならず守ってもらいたい。
これは、プロと、アマチュアと、はじめて漫画を描く人を問わずである。
これをおかすような漫画がもしあったときは、描き手側からも、読者からも、注意しあうようにしたいものです」。
手塚治虫『マンガの描き方』

 『美味しんぼ』騒動に関してマンガのリテラシーから考えられることがあまり見受けられません。これはマンガの表現をめぐって起きたことですから、それを考慮に入れて考える必要もあります。多くを語る余裕はありませんが、少々言及してみましょう。

 マンガを描くにはリテラシーを学習しなければなりません。いくら読んでも、マンガを描けるようにはならないのです。そのマンガの文法はクレショフ効果を始め人間の認知と関連しています。ですから、読者はそれを知らなくても、マンガを理解できるのです。マンガが現代日本文化を代表する一つとされながら、リテラシーが知られないのもそのためです。

 マンガでは多くの記号が使用されていますので、描くにはそれを学ぶ必要があります。日本のマンガは、アメコミと比べて、記号に依存する特徴があります。そのため、抽象度が高くなります。アメコミではカラーが標準であるのに対し、マンガがモノクロであるのもそうした理由です。白黒はカラーに比較して抽象度が高いのです。

 マンガは線とコマによって構成されています。視覚表現ですので、対象を具体性・個別性として扱います。出来事の全体像を取り扱うには、その本質を抽出する必要がありますが、それは抽象的・一般的な構造化です。マンガは全貌ではなく、局所を描くことを得意とするのです。マンガの世界は具体的・個別的な事例であって、それを全体像に拡大することはできませんし、すべきでないのです。

 絵は具体的・個別的であるため、言葉よりも人々の間で共有しやすいものです。「鼻血が出た」と言われても、どのように、どれくらい出たのか作者のイメージが読者にはわかりません。個々の読者も思い浮かべる光景が違うことでしょう。けれども、絵なら、作者のイメージをすべての読者が共有できます。ただ、それはあくまでそのシーンの具体性・個別性なのです。

 ただ、絵と全体像に関しては少し捕捉が必要です。絵画は一枚の絵ですので、情報をできる限りつめこみ、中心や焦点が明確にできます。隠喩や換喩の記号を用いることで、出来事を抽象化し、全体像を扱うことができます。一方、マンガはコマを使いますから、その移動の度に中心や焦点が変わります。一コマの情報量は必要な程度にとどめます。その代わり、コマの展開で情報量を確保します。一枚の絵に情報をできる限り詰め込むことをしません。出来事の抽象化が難しいので、マンガが記号を利用しても、全体像を描けないのです。動的表現を指向すれば、具象は局所的になり、全体的になりません。

 マンガと絵本は異なります。絵本は語りによって物語が展開されます。その外部の視点から世界が認識されるのです。一方、マンガは、語りも使われますが、主にキャラクターによって物語が展開されます。全般的にその内部の視点から世界が読者に示されます。マンガは叙事詩よりも抒情詩の特徴を持っているのです。

 マンガではキャラクターを通じて世界認識が読者に提示されます。主人公の設定がそれを大きく規定します。『美味しんぼ』への今回の批判に被災者の視点の不足が挙げられますが、これは見当外れです。『美味しんぼ』の主人公は東京の新聞社に勤務する記者です。作品の視点はそこにあるのですから、批判に従うためには、主人公を変えるほかありません。地域住民以外の視点による認識であることを了解した上で、自らの立場から批判すべきなのです。『美味しんぼ』はマンガですから、フクシマについてのある個別的で、具体的な認識です。その点を見逃してはなりません。

 今回最も注目されたのが主人公の鼻血のシーンです。正直、ここが問題となったのにはリテラシーに基づく理由があります。

 絵画の遠近は偶然=必然も表わします。そこに描かれる出来事がロング・ショットであれば偶然性、クローズであれば必然性がそれぞれ強くなるのです。同じ対象を描いても、見た印象がそのように異なります。

 ロングですと、中心的対象以外にもさまざまな要素が画面に入ります。多くなれば、それら相互の関連が曖昧・不透明になります。その画面の偶発性が増しますので、中心的対象に関する必然性が後退するのです。

 一方、クローズですと、中心的対象以外の要素はない、もしくは非常に少なくなります。それらの相互の関連は明確で、無駄なものはありません。その画面の偶発性は低下しますので、中心的対象に関する必然性が高まるのです。

 鼻血を出すシーンについて考えてみましょう。クローズ・アップで描かれているなら、読者にはそれが原発事故との関連性を強く感じます。他方、ロングなら、読者は他の要因もあるかもしれないと思うのです。指摘された絵は前者のサイズです。いかなる説明文を入れても、鼻血への原発事故の影響が強く読者には意識されます。その上で、それが作者のイメージだと読者は共有認識したと思えるのです。

 キャラクターをアップで描くと、読者はそれに共感しやすくなります。この方法をマンガに最初に導入したのが手塚治虫です。彼のマンガがこれまでと違うと戦後の読者を惹きこんだ一因です。手塚治虫以前の漫画家はキャラクターを全身像で描いています。アップ・ショットを使いません。『サザエさん』を読めば、その傾向を確認することができます。

 マンガは出来事の局所を描けても、全体像を示すことができません。局所的な真が全体的な真であるとは限りません。一つの真実です。マンガ家はそれをつねに自覚していなければなりません。3・11のような未曾有でなおかつ今も続いている出来事像をマンガで描くには大きな困難がつきまといます。むしろ、自らの限界を承知した上で、表現に臨むべきです。『美味しんぼ』の作者にこの意識の点で少々疑問を持たれるところがあったのは確かでしょう。

 『美味しんぼ』は原作者が調査・取材しそれを基にマンガとして描かれたものです。ただ、定量性に乏しく、定性性が主です。その妥当性が学術・報道レベルに足るかどうかはさておき、あくまである視点からの認識です。

 この作品に対する批判の中心は風評被害への懸念です。フクシマをめぐって風評被害が国内外で起きています。それによって苦しんだり、追いつめられたり、すりへったりした人々が数多くいます。『美味しんぼ』によって状況が悪化するのではないかという不安が騒動につながったのでしょう。不信と不安の連鎖がどれだけ人々の絆を切り裂いているかの現われです。

 むしろ、問題にすべきは『美味しんぼ』の男性中心主義でしょう。それは、1作2作ではなく、女性が中心的登場人物であるエピソードすべてに通しています。料理に関する情報を提供してくれますが、女性の描き方は絶望的な作品です。女性の心理描写は男性に都合のよいものでしかありません。マザコンで、健気な女性をよしとする原作者の価値観が見て取れます。一例を挙げよう。見事な腕前の専業主婦が自分の時間が欲しいため、レストランばりの料理をレンジでチンするだけにして夫に用意している。ところが、夫は仕事帰りにおふくろの味の小料理屋で食事を毎晩すませ、理由も言わず、妻の手料理を口にしない。それを知った主人公は妻が悪いと指摘する。『美味しんぼ』にはこういうエピソードが山ほどある。その男性中心主義ぶりは唖然とするもので、女性の読者には読むに堪えないエピソードも少なくありません。

 先に述べた通り、絵の遠近は偶然性と必然性を受け手に印象づけます。3・11をめぐるマンガはすでに30作以上が発表されています。『美味しんぼ』はあくまでその一つです。対象に近づいて見れば、そこに必然性を強く感じます。しかし、引いて見れば、そうでもないのです。多くの視点が示されることは社会の考えを進化させるためにも必要です。バッシングに終始するのはあまりに断片的です。これをきっかけに、不信と不安の連鎖を断ち切るための取り組みを進める方が全体的な視点だと言えるでしょう。
〈了〉
参照文献
手塚治虫、『マンガの描き方』、知恵の森文庫、1996年

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