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福知山線脱線事故と情報の流れ(2012)

福知山線脱線事故と情報の流れ
Saven Satow
Jul. 08, 2012

「第一に安全性、次に顧客、製品、組織、そして自分です。自分は最後の最後。エンドユーザーを第一に考えるのです。それでキャリアを失っても本望だと思えば、それが本当に職務を果たすこと、給料に見合った働きだと言えるでしょう」。
ロジャー・ボジョレー

 2012年7月6日、井手正敬・南谷昌二郎・垣内剛の元JR西日本社長を被告とする強制基礎による裁判の第1回公判が始まる。彼らの罪状は2005年4月25日に起きた福知山線脱線事故をめぐる業務上過失致死罪である。

 その日、JR西日本の宝塚駅発同志社駅行き上り快速電車(7両編成)は、伊丹駅を午前9時16分10秒頃に出発、塚口駅を9時18分22秒頃に通過する。その後、名神高速道路の南に位置する半径304mの右曲線を走行中の9時18分54秒頃、1両目が顛倒するように脱線、2~5両目も続き、9時19分04秒頃、最後部の7両目が停止する。本事故による死亡者数は107人(乗客106人運転士1人)、負傷者数は562人である。

 三人の元社長は業務上過失致死傷罪で捜査されたが、神戸地検は不起訴処分としている。しかし、それを不服とした遺族ら35人の申し立てを受け、検察審査会が起訴すべきと議決する。起訴理由は、1996年12月の工事で現場のカーブの半径が600mから304mへ変更されて事故の危険性が予測されたのに、防止策として自動列車停止装置(ATS)を設置する指導義務を怠ったことである。このカーブは、97年にJR東西線を開業させるため、既存の宝塚線を連結させた結果、生じている。これを主導したのが当時の社長だった井出元会長である。

 実は、今年1月、事故当時安全対策を統括する鉄道本部長だった山崎正夫元社長の無罪が確定している。判決理由は、半径304m以下の急カーブは多数あり、事故の危険性を予見できなかったからである。これを踏まえれば、今回の裁判もタフなものになると予想される。

 運輸安全委員会は、2年余りをかけてこの脱線事故を調査し、2007年6月28日、430ページに及ぶ『福知山線脱線事故・事故調査報告書』を公表する。この報告書によれば、事故の要因は多岐に亘り、それらが複合的に絡み合って生じている。裁判では急カーブとATSが争点となっているが、高坂健次関西学院大学教授は、『幸福の社会理論』(2008)において、報告書の中で目を惹く指摘の一つがブレーキの問題だと言っている。

 車両形式が異なると、ブレーキ性能に差が出る。ところが、同社では運転士が10以上も違う形式の車両を運転している場合がある。ブレーキ性能にばらつきがあると、運転士はそれに気をとられてしまう。運転士が安全確認に注意を向けられるように、雇用主はブレーキ性能の差を可能な限り小さくしておく必要がある。

 報告書に言及はないが、このブレーキの問題を明らかにしたのは、実は、他ならぬJR西日本の技術者である。

 報告書発表前の2005年6月7日付『読売新聞』は「脱線電車と同様の車両連結『ブレーキ異常』」として次のように伝えている。

 兵庫県尼崎市のJR福知山線で脱線した快速電車と同型の207系は、製造時期の異なる車両を連結した場合、一時的にブレーキが利きにくくなったり、強くかかり過ぎたりする現象が起きることが6日、わかった。
 JR西日本の技術者が2000年12月の日本機械学会・鉄道技術シンポジウムで報告していた。快速電車も同様の連結で、事故当日、オーバーランを繰り返しており、国土交通省航空・鉄道事故調査委員会などは関連を調べる。
 研究報告によると、207系のうち、1991年から製造された「0番台」車両と、改良を加えて93年以降に製造された「1000番台」車両を連結した場合に限り、こうした現象が発生するという。車輪が空回りしそうになった時、0番台と1000番台の制動状況に微妙な差ができるため、連結車両全体のブレーキの利き具合にばらつきが出るとしている。
 事故を起こした快速電車は、前の4両が0番台、後ろ3両が1000番台だった。同社は「異なる番台でも運用を続けているが、実際の運転に影響があったという報告はなく、全く問題ない」と説明している。

 その論文は、『207系電車の電気ブレーキと空気ブレーキの協調について』である。作者は大上和久と上村洋一で、いずれもJR西日本所属である。記事を捕捉すると、車輪が空回りしそうになった際、0番台は電気ブレーキから空気ブレーキに切り替わる過程で制動力が乱れ、また1000番台はモーターの電流が変動し、電気ブレーキに影響を及ぼす。そのため、0番台と1000番台は制御状況にずれがあり、両者を連結すると、ブレーキの利きが不安定になってしまう。

 他社ならいざ知らず、JR西日本の技術者が脱線事故前にブレーキ問題の危険性を学会で発表し、事故報告書でも要因の一つとして挙げられている。にもかかわらず、同社は「異なる番台でも運用を続けているが、実際の運転に影響があったという報告はなく、全く問題ない」とコメントしている。先の学会報告に対して、追実験や反証実験など科学的検証を試みたことはないというわけだ。

 ある情報が組織体にもたらされた場合、検討を加えて知識として共有され、不作為を含めた行為に移される。組織体は行為の計画を立て、達成されるための条件を吟味している。けれども、それが満たされているにもかかわらず、失敗するケースが少なくない。思考の際の暗黙の前提を見逃しているからである。そこで、フィードバックされ、知識が修正・更新されてまた行為へと試みられる。

 異なった製造時期の車両を連結すると、読売新聞の記事によれば、ブレーキ性能にばらつきが出る情報がJR西日本では知識として共有されず、不作為につながっている。これが改善されていたら、事故が発生しなかったかどうかはわからない。事故が複合的な要因、すなわち危険な可能性の積み重ねで起きたとしても、個々の関係者がそこに至る過程でかかわっている。情報が知識や行為への変わる際に、人間が関与する。情報が意思を持って人間の間を流れているわけではない。ブレーキに関する情報が社内にもたらされたとして、誰にどこまで伝わっていたのか、受け取った人はそれぞれどうしたのかなど知識と行為を通じて人間が関係する。

 人間関係をノードとリンクによるネットワークと捉え、情報の流れをたどるならば、その変換過程と責任の所在が明らかになる。情報の流れであるから、それを促進させる契機と阻害する契機がある。組織体には地位や担当、権限など階層性がある。促進と阻害それぞれの契機における階層性を顕在化することで、行為主体の責任の度合いも確定できる。責任を無限定に拡大したり、局所に押しこめたりすることが避けられる。また、別の情報の流れを考慮することで、異なった事態の可能性を探り、発生状態をそれと比較して把握できるだろう。

 情報の流れは図解や動画にしやすく、全体像の把握も容易である。日本では、事故が起きると、要因が調べられるものの、該当する範囲が広がり、「人災」という曖昧な物言いで世間的に認知されることが少なくない。しかし、変換を含めた情報の流れ、すなわちコミュニケーション構造をヴィジュアル化すると、文章表現では全体像が博しにくく、曖昧になりがちな責任の所在が明確化する。情報の流れ図は責任所在グラフである。もちろん、それで法的責任が問えるかどうかは別である。

 現在の日本の法廷では、事故の危険性を予見できたか、さらにそれに備えて安全装置・設備を整備していたかが責任として問われがちである。しかし、これに対する反論も対策も被害者や遺族にとっては納得がいかないものだ。被告は予見の不可能性を立証すればいいし、組織は今後の対策も安全システムを導入すればいい。いわゆる組織の体質が温存され、事故の教訓は実質的にあまり生かされない。1986年に起きた米国のチャレンジャー号爆発事故をめぐる調査報告書や関係者の証言は、技術者倫理の事例研究として用いられている。それに対して、JR史上最悪の惨事であるにもかかわらず、福知山線脱線事故は、主に工学的問題を法的に議論するだけで、社会面の記事として扱われるにとどまっている。

 情報の流れから見れば、事故は個々の関係者の知識と行為による複合現象の側面がある。それを改めるには、コミュニケーション構造の改変を必要とし、組織の体質改善が必須となる。

 福知山線脱線事故に限らない。事故の際の情報・コミュニケーションの重要性はすでに周知されている。事前準備・抑止のためのリスク・コミュニケーションや対応・復旧に向けたクライシス・コミュニケーションとして理論化され、実際に導入されている。けれども、フクシマの件でも、事前の危険性に関する情報が生かされていなかったことが明らかになっている。事故の起きる前の情報の流れを可視化するならば、責任の所在が明確化できるだろう。その情報はどこまで伝わり、いかなる知識として扱われ、不作為を含む行為に移されたかを浮き彫りにする。そうしないで、フクシマを災害時の安全対策の不備と片づけるなら、改善策はその整備となり、そこから事故調査が進行中の中での原発再稼働の根拠が生じる。

 情報の流れから捉えるなら、フクシマの教訓はコミュニケーション構造の改善の必要性を含む。事故は情報の流れをめぐる個々の関係者の知識と行為による複合現象の側面がある。情報の履歴をたどってコミュニケーション構造をヴィジュアル化すれば、保安院や経済産業省、東電、メーカー、大学、政府などといった組織体ではなく、誰の知識と行為が事故にどの程度の影響を与えたか個人の責任所在が明らかになる。事故は起きるものではない。個々の関係者が引き起こすものである。
〈了〉
参照文献
高坂健次、『幸福の社会理論』、放送大学教育振興会、2008年
札野順、『技術者倫理』、放送大学教育振興会。2004年
『鉄道技術連合シンポジウム(J-Rail)講演論文集』、電気学会交通・電気鉄道技術委員会、2000年
運輸安全委員会、「福知山線脱線事故・事故調査報告書」、2007年
http://jtsb.mlit.go.jp/jtsb/railway/bunkatsu.html
「脱線電車と同様の車両連結『ブレーキ異常』」、『読売新聞』、2005年6月7日
http://www.yomiuri.co.jp/features/dassen/200506/da20050607_01.htm

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