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尊厳死と現代(2005)

尊厳死と現代
Saven Satow
Mar. 11, 2005

「神は死んだ。神は死んだままだ。そして我々が神を殺したのだ」。
フリードリヒ・ニーチェ『悦ばしき知慧』125

 第77回アカデミー賞において、作品賞にクリント・イーストウッド監督の『ミリオンダラー・ベイビー(Million Dollar Baby)』、外国語映画賞にアレハンドロ・アメナーバル監督の『海を飛ぶ夢(The Sea Inside)』が輝いています。日本では、前者は女性ボクサーの映画くらいにしか思われていません。けれども、実は、後者同様、尊厳死の問題を取り上げています。

 生か死かの二項対立を超えた議論に立ち向かっているという点で、いずれの作品とも、賞賛に値します。残念ながら、レオナルド・ディカプリオ主演の映画『アビエーター』にはそこまでの問題意識がありません。死は有性生殖が始まって以来生物につきまとっていることですし、ホモ・サピエンス以前の類人猿も葬儀を行って、死を認識していたと見られています。しかし、現代医学の発達は死を二項対立の図式上ではなく、その決定不能性に直面させています。

 尊厳死(Death with Dignity)は現代の医療水準では回復の見込みがない場合、自らの意思で不必要な延命処置を辞退し、尊厳をもって最期を迎える姿勢です。これは歴史的に古くはなく、医療技術の進歩により、人工呼吸装置などの生命維持装置をスパゲティのように使って機械的に生かされる状況が生じたために現われています。生物学的ではなく、「生の質(Quality of Life: QOL)」に基づいて生死が問われます。現代医学は生と死の決定不能性を拡大させているのです。

 日本では、エドウィン・O・ライシャワー元駐日大使が尊厳死を選んだことで知られています。植物状態や癌の末期症状、脳死などで本人の意識がなくなるようなときに備えて、あらかじめ尊厳死を希望する意思を明文化しておく「リビング・ウィル(Living Will)」の場合もあります。尊厳死に対しては、日本でも、それほど強い抵抗感はないようです。ただ、尊厳死の定義は安楽死などと関連させて論じられなければならず、必ずしも一つではありません。

 ある種の安楽死を尊厳死に入れるべきだと考える意見もあります。けれども、一般には安楽死(Euthanasia)とは異なります。尊厳死では、特に苦痛の存在を要件としていません。また、生命維持装置を外すなどたんなる不作為とは言えない行為も含みます。

 安楽死は積極と消極の二つに分かれます。病気の苦痛から解放することを目的として、薬物を投与したり、自殺幇助装置を使ったりするのが前者です。苦痛を緩和させるモルヒネを投与することで死期が事実上早まらせることが後者です。

 自発的な安楽死の合法化を求める組織がイギリスで1935年に、アメリカでは38年に結成されています。安楽死は、尊厳死と違い、しばしば携わった医師が殺人罪ないし殺人幇助罪が適用されることがあり、現在、世界的に見て、オランダやベルギーなどを除き、必ずしも認知されているとは言えません。ただし、西欧の消極的あるいは自発的な安楽死を処罰する法律は次第に廃止されています。

 安楽死を真正面からとらえた文学として、ブライアン・クラーク作の戯曲『この生命誰のもの(Whose Life Is It Anyway?)』が挙げられます。交通事故のため四肢が麻痺した若き彫刻家を主人公にしたこの作品は1981年にジョン・バダム監督によって映画化され、リチャード・ドレイファスが迫真の演技を見せています。

 日本の裁判所は、具体的事件において執行猶予をつけたことはあっても、適法としたことはありません。ただ、大きく二回ほど安楽死の認められる要件を示しています。

 1962年の名古屋高裁は6つの要件を判決に盛りこんでいます。(1)不治の病で死期が迫っていること、(2)見るに忍びないほど苦痛が激しいこと、(3)死苦の緩和のためになされること、(4)患者が意思表明できるときにはその嘱託・承諾があること、(5)原則として医師の手によること、(6)方法が倫理的に妥当なものであること。

 また、1995年の横浜地裁は、医師によって行われた点を考慮して、判決に以下の4要件を付しています。(1)耐え難い肉体的苦痛があること、(2)死が不可避で、かつ迫っていること、(3)生命短縮を承諾する患者の明示の意思表示があること、(4)肉体的苦痛の除去・緩和の方法をつくし、代替的手段がないこと。さらに、「死に方を選ぶ権利」を法的に位置づけ、「治療行為の中止が許される要件」を挙げています。

  近代は自由主義・個人主義が理念です。自己決定が尊重されます。死の場合は通常以上に正確な情報と十分な熟慮が必要です。とは言うものの、周囲を気遣っていたり、冷静な判断力を欠いて居たりして選択してしまう可能性もあります。死の選択を取り消しにくなったものの、周囲がその気になっているため、切り出せずに決行に至ることだってあり得ます。

 加けれども、師の置かれている現状を考慮すれば、負担が大きいと言えます。医師も日々業務に従事しています。医学の進歩は急速で、患者にも個人差があります。忙しい中で死について考える時間もなかなかありません。

 尊厳死が現代医学の産物であるとすれば、安楽死は死をどう考えるかという極めて根本的な問題につながっています。安楽死をめぐって、自殺との境界がどこにあるのかと問われます。安楽死は、古くから法的にも道徳的にも認める社会があります。古代ギリシア=ローマでは、ある状況では他人が死ぬのを援助することが許容されています。また、老人の自発的な安楽死が慣習となっている地域もあります。さらに、宗教的に自殺が禁止されていたとしても、安楽死は密かに行われています。

 ナチス・ドイツは、国家の重荷になるものは、誰でも摘発し処刑する権限を与える安楽死委員会を創設しています。「安楽死」の名の下、ジェノサイドを正当化しているのです。

 安楽死には、医学的な進歩だけでなく、社会的・歴史的・文化的背景も絡んでいます。賛成か反対かという二項対立だけでなく、多岐に亘る議論があるのが実情です。試験管ベイビーや代理母など生のあり方が多様化したように、死の形も一つではないのです。

 近代社会において、死を決定できるのは医師だけです。政治家でも、警察でも、官僚でも、宗教家でもありません。医師による死亡診断書がなければ、原則的には、埋葬許可証も発行されませんし、生命保険もおりません。

 その死の要件は法的に決められています。脳死に伴う臓器移植に際して、医療従事者が「医学的には問題がなかった」と記者会見で答える光景を目にします。法的にどうかが肝要です。今日、死は医学的ではなく、法的なものだからです。医療技術の急速な発展に伴い、かつてないほど法の対応が遅れているのです。

 しかし、生命倫理というものもあります。規範には法と倫理があります。前者は事後的な紛争解決を目的としています。議会が制定し、強制力や罰則もあります。一方、後者は価値観を共有する関係者が自主的に制定します。事態を予想し、自ら判断や行動を律します。法的に問題ないなら、何をしてもいいわけではありません。ですから、死をめぐる議論も法のみならず、倫理が問われるのも当然です。

 QOLの他に、SOLという発想もあります。SOLは「生命の尊さo(Sanctity of Life)」を意味します。生きているだけでありがたいという考えです。大切な人は生きていてくれるだけでいいと思うこともあるのです。脳死への抵抗感にもこうした感情があります。また、神や天から授かった命であるから、神聖だとする見方もあります。近代では主流ではありませんけれども、考慮すべき発想です。

 フリードリヒ・ニーチェは近代を「神が死んだ」時代と宣告しています。産業資本主義=国民国家は神、すなわちヒエラルキーをもたらす超越的権威を殺して成立しています。特に、科学技術の進展が神を殺した最も大きな力です。「死」はある歴史的・社会的時代の終焉を意味します。

 しかし、むしろ、現代は生と死が決定不能に陥った時代です。近代と前近代は断絶だけの関係ではなりません。医学の進歩が生と死の決定不能性をもたらしています。生命倫理が問われていますから、神の死を前提に人間の死を決めることは乱暴です。人間の尊厳死を論じることは神の尊厳死を考えることだと思わねばならないでしょう。
〈了〉
参照文献
清水哲郎他、『生命と人生の倫理』、放送大学教育振興会、2005年

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