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嘉村磯多、あるいは黒色エレジー(4)(2006)

7 業苦の人
 彼は、その代表作『業苦』(1928)にちなんで、「業苦の人」と呼ばれている。けれども、それは現実的な対応物を持っていない。概して、私小説は、分断された私が主人公であるため、想念が外界と直結していない。しかし、彼の場合、それが顕著である。彼は後ろめたく、屈折し、いじいじと生き、世間や周囲に対し罪悪感を抱いているけれども、その想念は他者を排除して生まれているにすぎない。対応しそうになると、彼は身をかわしてしまう。確かに、外的な対応物の登場が彼の思考には口実として不可欠である。彼は、どこにいようとも、安堵感を覚えることができず、自分を断罪する。しかし、その苦しみにおいて彼はアイデンティティを確認できる。

 そうした反復強迫のために、「後知恵バイアス(Hindsight Bias)」に頼る。それは「コントロール・バイアス(Control Bias)」の対となる概念であり、実際の結果という知恵を得た後に、過去にしていた予測を思い返すと、その事態が起きる予兆や予感があったと納得する先入観である。偶然の帰結であるにもかかわらず、その前触れを正しく読み取らなかった自分を責める。

 中野良夫や柄谷行人が指摘しているように、彼は原罪や十字架、一切皆苦といった宗教的な概念をわかっていない。宗教的理解はともかく、彼が信仰としてキリスト教や親鸞に接近したことは認められる。けれども、宗教は苦しみによるアイデンティティの確かめを強化するものでしかない。

 また、福田恆存は彼が宗教も科学も同じという意見を持っていたと指摘している。科学は決定論を批判し、多様性を明らかにしてきた歴史がある。仮定を変えれば、おのずと違う結果が導き出されるのが科学というものである。しかし、必然的法則性に目を奪われ、科学を新たな決定論として捉えている。彼にとって、科学も、宗教同様、後知恵バイアスにすぎない。

 彼にはやることなすことに後知恵バイアスがかかっている。その挙げ句、「八方塞り」に陥ってしまう。

 圭一郎は、父にも、妹にも、誰に対しても告白のできぬ多くの懺悔を、痛みを忍んで我とわが心の底に迫って行った。
 結局、故郷への手紙は思わせぶりな空疎な文字の羅列に過ぎなかった。けれどもいっこくな我儘者の圭一郎にかしずいてさぞさぞ気苦労の多いことであろうとの慰めの言葉を一言千登世あてに書き送ってもらいたいということだけはいつものようにくとく、二伸としてまで書き加えた。
 圭一郎が父に要求する千登世へのいたわりの手紙は彼が請い求めるまでもなくこれまで一度ならず二度も三度も父はよこしたのであった。父は最初から二人を別れさせようとする意思は微塵も見せなかった。別れさしたところで今さらおめおめ村に帰って自家の閾がまたげる圭一郎でもあるまいし、同時にまた千登世に対して犯したわが子の罪を父は十分感じていることも否めなかった。鼎の湯のように沸き立つ口宜しい近郷近在の評判やとりどりの沙汰に父は面目ながってしばらくは一室に幽閉していていたらしいがその間もしばしば便りを送って来た。さまざまの愚痴もならべられてあるにしても、どうか二人が仲よく暮らしてくれとかお互いに身体さえ大切にして長生きしていればいつか再会がかなうだろうとか、その時はつもる話をしようとか書いてあった。そしてきまったように「何もインネンインガとあきらめおり候」として終りが結んであった。時には思いがけなく隣村の郵便局の消印で為替が封入してあることもたびたびだった。村の郵便局からでは顔馴染の局員の手前を恥じて、杖に縋りながら二里の峻坂をよじて汗を拭き拭き峠を越えた父の姿が髣髴して、圭一郎は極度の昂奮から自殺してしまいたいほどみずからを責めた。
 圭一郎は何処に向かおうと八方塞りの気持を感じた。心に在るものはただ身動きの出来ない呪縛のみである。
(『業苦』)

 彼は、強迫観念に囚われているかのように、繰り返し不幸を探し、苦しむことで自己を確認する。彼は何かから解放された時ではなく、自らを閉じ込め、もがき苦しむ時にアイデンティティを実感できる。考える私ではなく、苦しむ私が存在根拠となっている。万難を排するどころか、むしろ、それを求めている。「私に揺曳する幸福に対する不可能性の影」(『秋立つ日まで』)を覚えた瞬間にこそ、自己の存在を確信する。

 「黒色エレジー」たる彼の作品における文体の冒険は、こうした反復強迫によるアイデンティティの確認を繰り返している。これほど反復強迫や涅槃原則、後知恵バイアスを書きえた作家もいない。各種の書簡は、彼が宗教でも哲学でもなく、書く行為に救いを見出していたことを次げている。それは、彼には、涅槃快感に委ねることにほかならない。

 彼の文体は重苦しく、その重さにより自ら押し潰されそうだ。自らを拘束し、もがくことでしか主人公は自己を実感できない。自縄自縛の文学である。彼は私小説家の一人であるが、その苦悶は個人的であり、他の作家と同時代的な問題をあまり共有していない。近代において、解放は重要なテーマの一つである。しかし、彼の作品は閉鎖を扱っている。それは封建制に取り残された私ではなく、社会から切断されていく私である。

 彼は、『「上ケ山」の里』(1931)において、「私は都会で死にたくない。異郷の土にこの骨を埋めてはならない。それは私の衷心の願である。あのお地蔵さんのそばへ埋まる日を思うて、このこころ躍る!」と記していたが、1933年、東京で36歳の障害を閉じている。それは、日本が満州国をめぐるリットン調査団による対日勧告案に不満を表明し、国際連盟から脱退した年である。彼が自分自身を記そうとするほど、分断され、孤立化した私の類型的な姿が浮き上がる。個人にとどまらず、組織や国家も陥る状況である、その意味で、彼は確かに「私小説の極北」の名に依然として値する。

愛は愛とてなんになる 男一郎まこととて
幸子の幸はどこにある 男一郎ままよとて
昭和四年は春もよい 桜ふぶけば蝶も舞う
寂しかったわどうしたの お母様の夢見たね

お布団もひとつほしいよね いえいえこうして
いられたら
あなたの口からさよならは いえないこととおもってた
はだか電灯舞踏会 踊りし日々は走馬灯

幸子の幸はどこにある
愛は愛とてなんになる 男一郎まこととて
幸子の幸はどこにある 男一郎ままよとて
幸子と一郎の物語 お涙頂戴ありがとう
(あがた森魚『赤色エレジー』)
〈了〉
参照文献
山本健吉、『私小説作家論』、審美社、1966年
伊藤整他編、『文士の筆跡』2、二玄社、1968年
ジクムント・フロイト、『フロイト著作集』3、高橋義孝訳、人文書院、1969年
太田静一、『嘉村礒多-その生涯と文学』、弥生書房、1971年
吉本隆明、『吉本隆明歳時記』、日本エディタースクール出版部、1978年
饗庭孝男、『批評と表現』、文芸春秋社、1979年
春原千秋、『精神医学からみた現代作家』、毎日新聞社、1979年
福田恆存、『福田恒存全集』1、文芸春秋社 1987年
柄谷行人、『意味という病』、講談社文芸文庫、1989年
小此木啓吾、『フロイト』、講談社学術文庫、1989年
太田静一他、『嘉村礒多の妻ちとせ』、鳥影社、1993年
ドナルド・キーン、『日本文学の歴史』14、中央公論社、1996年
多田みちよ、『嘉村礒多』、皆美社、1997年
嘉村磯多、『業苦・崖の下』、講談社文芸文庫、1998年
菊池聡、『予言の心理学―世紀末を科学する』、KKベストセラーズ、1998年
菊池聡、『超常現象をなぜ信じるのか―思い込みを生む「体験」のあやうさ』、講談社ブルーバックス、一1998年
斉藤博=作花文雄=吉田大輔、『現代社会と著作権』、放送大学教育振興会、2002年
御厨貴、『「保守」の終わり』、毎日新聞社、2004年
柏倉康夫=林敏彦=天川晃、『情報と社会』、放送大学教育振興会、2006年
『嘉村礒多全集』上下、南雲堂桜楓社 1964~65年
『日本文学全集』31、集英社、1969年
『日本の文学』33、中央公論社、1970年
『現代日本文学大系』49、筑摩書房、1973年
『昭和文学全集』7、小学館、1989.年

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