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2011年の鉄道記念日(2011)

2,011年の鉄道記念日
Saven Satow
Oct. 14, 2011

「三嶋は近年ひらけたる 豆相線のわかれみち 駅には此地の名をえたる 官幣大社の宮居あり」。
『地理教育鉄道唱歌第一集』十六番

 10月14日は鉄道記念日である。横浜=新橋間が1872年(明治5年)のこの日に開業したのを記念して、1922年(大正11年)に制定されている。鉄道建設は輸入資材の陸揚げ地である横浜から新橋に向けて伸びている。国鉄の分割・民営化に伴い、「鉄道の日」と改称されたが、そんな軟弱な名称はふさわしくない。

 もっとも、この路線の開通は文明開化の象徴的な出来事にすぎない。当時の実力者の大久保利通が水運を国内の運輸・交通インフラの中心と構想していたからである。

 海外視察の経験から、大久保は近代化における鉄道の重要性を十分に理解している。けれども、その頃の日本には鉄道を自前で通す能力が無いため、すべて外国資本、すなわち輸入に依存しなければならない。ただでさえ苦しい台所事情にあり、できる限り、資金の海外への流出を避けたい。しかも、機関車の点検・補修やダイヤグラムの作成・管理の経験もない。お雇い外国人にそうしたノウハウを教えてもらい、人材を海外留学させて知識・技術を習得させる必要がある。

 19世紀後半、鉄道は世界で最も有望な投資先である。1850年代から70年代にかけて欧米諸国の経済は、鉄道の敷設に伴い、急速な経済成長を遂げている。国内路線の整備がひと段落つくと、後進国や植民地の鉄道建設への海外投資がブームになっている。そういった国や地域には知識・技術がないので、先進国から列車を始めとして多くを輸入しなければならない。投資した資金が先進国へ還流する仕組みになっている。

 一方。水運であれば、船舶購入の初期投資や港湾施設等の近代化は必要であるものの、ほかはほぼ自前でできる。江戸時代以来、水運は輸送インフラの主力であり、河川や海を網羅するネットワークが整備されている。人材もそろっている。そこで、現実主義的観点から、大久保は水運を主とし、鉄道を太平洋側と日本海側を結ぶために用いる従の運輸・交通インフラと考えている。

 ところが、この構想は後に頓挫し、鉄道が国内の運輸・交通インフラの中心に据えられる。最大の理由は日本列島の地理的条件である。

 日本列島は南北に山脈が走っている。太平洋側と日本海側をつなごうとすると、この山々が行く手に立ちふさがる。敷設工事は難航する。一例を挙げよう。敦賀=長浜間の測量が始まったのが1871年(明治4年)であるが、開通したのは、実に、1884年(明治17年)のことである。大久保は、このとき、すでに世を去っている。1876年には東京=大阪間が開通しているのと比べて、あまりにも遅い。

 もっとも、地理的環境が日本独特の園芸文化が育んだ一因でもある。地球が気候変動しても、山々が列島を縦断しているので、植物は南北に生息地を移動できる。全滅する危険性が少ないため、植生は非常に多様になる。他方、ヨーロッパは、山脈が東西に延びているため、氷河期の際に、植物が南に逃げられず、多くが絶滅している。

 大航海時代が到来すると、ヨーロッパ人は海外から見たこともないさまざまな植物を本国に持ち帰る。特に、欧州の寒冷な気候でも育つ高山性の植物が好まれている。彼らは殺風景な庭園を美しさを基準にそうした植物で装飾する。イングリッシュ・ガーデンがその典型である。さらに、グリーン・ハンドたちはより美しいものを求めて交配を繰り返す。

 一方、日本ではもともと植生が豊富なので、植物鑑賞の基準は美ではない。変わっていることである。園芸家はより珍奇な植物を国内中で探し回る。変であればあるほどよい。オモトやナンテン、マツバランのように奇妙であること以外に何のとりえもない植物が珍重される。日本の庭園は、その結果、奇怪な植物に覆われる。見つけてくることが大切なので、日本の伝統的な園芸において、人工交配は認められない。

 話を鉄道に戻そう。

 太平洋側の都市をつなぐ路線が次々と開業する。国内輸送では鉄道の方が船舶よりも便利である。当初は国が建設していたが、西南戦争以降、財政難の事情から民間資本が参入している。今日、しばしば日本経済は伝統的に官主導だと言われるけれども、戦時期を除くと、戦前の実態は驚くほど自由放任主義である。1880年代にはもはやブームと呼べる鉄道建設ラッシュが起きている。

 しかし、鉄道の時代の到来は太平洋側と日本海側との間の経済格差の問題の発生でもある。「本間様には及びもせぬが、せめてなりたやお殿様」と詠まれた日本一の大地主の本間家が山形県酒田市に居を構えていたように、かつては日本海側も有力だったけれども、20世紀には、太平洋側に経済的中心が定着している。太平洋側の港からアメリカに輸出して外貨を稼ぐ。1900年(明治33年)、全66番に及ぶ『地理教育鉄道唱歌第一集』が発表されたが、舞台となっているのは新橋=神戸間の東海道線である。列島を縦断する路線は矢継ぎ早に開通するのに、横断鉄道はなかなか進まない。鉄道網に入れば、中央とつながったことを意味する。経済成長はこのリンク次第というわけだ。星亨のような政党政治家は地元への利益還元として鉄道敷設を推し進める。その姿は「我田引鉄」と揶揄される。

 1947年の総選挙において、「若き血の叫び」と訴えた28歳の青年が新潟三区から当選する。この土建屋の若者は、持ち前の才覚とエネルギッシュな行動力により、凄まじい勢いで政界において出世していく。そのスピードは高度経済成長と重なり合う。しかし、高等小学校を卒業して上り列車に乗って以来、脳裏にはいつも貧困から抜け出せない雪深い故郷の人々の姿がある。新潟が貧しいのは、東京への運輸・交通インフラが十分でないからだと固く信じ、その整備に執念を燃やし、あの忌々しい三国山脈をぶっ潰せないかと本気で考えている。太平洋側をこれほど見つめていた日本海側出身の政治家もそういない。

 最初の汽笛が鳴ってから一世紀経た1972年7月、この田中角栄が内閣総理大臣に就任、9月、日中国交正常化を果たす。戦後のほとんどの政権は太平洋の先を見ていたが、国際情勢の変化に伴い、彼は日本海を渡る。それまで背を向けていたその海の向こう側には世界で最も人口を抱えた国がある。

 太平洋を恋しがるだけの時代はもう過ぎ去っている。2004年、日本の対中貿易の総額が対米のそれを初めて超える。その後、一環として日本の最大の貿易相手国は中国である。

 中国浙江省で23日夜に起きた高速鉄道の追突・脱線事故から一夜明けた24日早朝、中国当局は、追突したとみられる車両の運転席部分を、現場に掘った穴に埋めてしまった。事故から約半日後の24日午前4時半過ぎ、現場に入った記者が一部始終を目撃した。
 夜明け前。現場では、落下した1両の車体が、一部は地面に突き刺さり、高架に寄りかかるように立っていた。わきの地面の上では、追突した後続列車とみられる先頭車両が、真っ二つになっていた。切断部分は鉄板や部品がめくれ、後ろ半分は原形をとどめていなかった。
 空が明るくなり始めた午前6時ごろ、7台のショベルカーがすぐ横の野菜畑に穴を掘り始めた。深さ4~5メートル、幅も約20メートルと大きい。午前7時半過ぎ、ショベルカーがアームを振り下ろし、大破した先頭車両を砕き始めた。計器が詰まっている運転席も壊した。そして残骸を、廃棄物のように穴の中に押しやってしまった。
(奥寺淳「事故車両の運転席、当局が現場の穴に埋める」)

 2011年は鉄道もいろいろなことを伝えると教えてくれた年である。
〈了〉
参照文献
塚谷裕一他、『植物の科学』、放送大学教育振興会、2009年
奥寺淳、「事故車両の運転席、当局が現場の穴に埋める」、asahi.com、2011年7月25日3時1分更新
http://www.asahi.com/international/update/0725/TKY201107240595.html


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