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昔ばなしと社会的メッセージ(3)(2018)


第5章 昔ばなしと共同体
 『まんが日本昔ばなし』は1,474話を放映しています。もちろん、ネット上で紹介されている昔ばなしをざっと調べただけでも、そんな数ではありません。日本には47都道府県があります。もし1県当たり平均100話あるとすれば、4,700話になります。1県100話も決して多い数ではありません。例えば、福島県は都道府県で全国3位の面積を持っています。同県は中通り・会津・浜通りの三つに大きく地域区分されます。それぞれ33話ずつあれば、県全体でおよそ100話です。また、長崎県は日本で最も多くの島を抱えています。対馬や壱岐、五島列島などの島嶼が971あり、そのうち、70ほどが有人です。かりに今の有人島に1話あるとしたら、それだけでも70話を超えます。
 
 1880年頃の日本の人口はおよそ3,600万人です。現代の4分の1強です。けれども、市町村の基礎自治体数は非常に多いのです。近世において顔見知りで構成される集落が共同体の単位です。当初、それをそのまま基礎自治体としたからです。
 
 小学校の運営に必要な自治体の規模を確保するため、1889年に明治の大合併が実施されます。その前年の1888年の基礎自治体の数は71,314です。合併後にそれは15,859にまで減っています。もし合併前の基礎自治体に昔ばなしが1話ずつ伝わっていたとしたら、70,000以上が全国にあることになります。合併後でさえ、15,000話です。
 
 人口3,600万人で、基礎自治体数が7万です。1集落当たりの平均人口が約500人となります。これはだいたい一人の人間が記憶できる顔の数に当たります。実際には人口の大きい都市がありますから、一般的な村落の規模は500人より小さく、戸数は40~50程度です。村には切り開くのに中心的な役割を果たした人物がいて、その子孫が代々そこの有力者を務めています。近世の共同体はまさに顔見知りの規模です。この共同体の絆を強めるためにも昔ばなしが活用されます。前近代は共同体があって、家族や個人があると考えられています。家族の間で語られる昔ばなしも共同体における社会性・道徳性を前提にしています。ですから、延べ数として、かりに昔ばなしが70,000話あったとしても、不思議ではありません。
 
 なお、社会性とは社交性を意味します。これは道徳性と異なります。詐欺師を思い浮かべれば、その違いが判るでしょう。挨拶もできない詐欺師が人をだますことはできません。ですから、社会性があります。けれども、その挨拶は犯罪のために行うので、道徳性はありません。
 
 挨拶を例に出しましたが、前近代の集落では、住民の間に挨拶の習慣がありません。現在でも、「おはよう」以外の「こんにちは」や「こんばんは」といった挨拶は家族の間で使いません。大正以前の地方において「おはよう」も言いません。家族どころか、住民同士も挨拶をしません。宮沢賢治は、1931~33年頃執筆の『風の又三郎』で、転校生の又三郎が朝の挨拶をすると、そんな習慣のない地元の子どもたちが戸惑う様子を描いています。全員が顔見知りだからです。挨拶は見知らぬ人が接点をつくる際に使われますが、住民にはそんな必要がありません。それが昔ばなしの伝わる世界なのです。
 
 前近代における文学は、近代と違い、自己表現などではありません。人間関係を弱にン・強化・拡大するものです。ただし、昔ばなしはそれ以外と異なる点があります。
 
 前近代における文学の愉しみは美意識の交歓です。知識や教養を共通基盤にし、作品を通じて文芸共同体の美意識をお互いに確認します。和歌や俳句は助詞一つでさえもその選択を推敲します。典拠に基づき、レトリックに凝り、洗練された作品こそ自分たちの共有している美意識の表象です。この美は徳でもあります。徳は古典教養が教えてくれるものです。それに通じていればこそ名作が詠むことができます。師匠による弟子の指導は添削にとどまらず、道徳教育でもあります。文芸共同体において美意識は道徳的規範のそれでもあるのです。
 
 また、昔ばなしと同じ散文の物語も野放図ではありません。物語文学は規則や典拠に基づいています。『今昔物語』は冒頭と末尾が過去形、その間が現在形で記されています。過去の出来事に読者を誘い、作品世界に入ったなら、同時代であるかのように感じさせます。読後には、過去形によって、元の世界に戻るのです。物語の読者の想定は知識や教養のある上の身分です。
 
 他方、昔ばなしの愉しみはこれと異なっています。それは地縁血縁の共同体の交感です。理解の共通基盤は教養ではありません。道徳や絆です。
 
 昔ばなしは年寄りが子どもに語り聞かせることに意義があります。前近代の村落は第一次産業の社会です。当時は機械化を始めとする近代的方法が産業に入っていません。人手や家畜に依存した生産性は低く、生産量は天候に大きく左右されます。農林水産業いずれも同様です。また、天気予報もありませんから、自然災害への予めの対策も困難です。そうした不慮の事態を予期・対応するためには、最も力になるのが年寄りです。長年に亘る経験から得た知識や知恵が役に立ちます。昔ばなしは知識や知恵を年寄りが子どもに教える役割もあるのです。
 
 ムラは技術革新に消極的で、同調圧力が強いとしばしば否定的に言われますが、それにも合理的な理由があります。生産性が低いので、生産過剰はあまり起きません。生産性を高めようと新たな方法を導入して失敗したら、飢餓に見舞われる危険性があります。農法の改良を取り入れることはあります。しかし、そのリスクを考えると、技術革新に賭けるよりも従来の方法を続ける方が無難です。年寄りの言うことにみんなで従って今まで通り働くのは餓死や廃村を避けるためなのです。ですから、昔ばなしではへそ曲がりが否定的に扱われます。兵庫県に伝わる『節句のたんぼすき』が好例です。
 
第6章 語り聞かせ
 伝統的には昔ばなしは語り聞かせによって世代間で継承されてきています。しかし、今日、昔ばなしは、一般的に、読み聞かせを通じて大人から子どもに伝えられています。それには活字メディアだけでなく、映像も含まれます。口承文学を特定のヴァージョンに絞って編集し、文字化したものです。書き言葉で表現されていますが、声に出して読まれることを前提にしています。
 
 話し言葉は場に依存します。そこでは話し手と聞き手が文脈を共有します。話し方や表情、しぐさなど非言語的情報もコミュニケーションを構成しています。一方、書き言葉は場に依存しません。書き手と読み手は時空間を共有していないのです。表記に内容を補完する情報が含まれることもありますが、行間を読む以上の言語的コミュニケーションの補完はなかなか困難です。話し言葉に比べて、場に依存しない分、書き言葉は汎用性が高くなります。
 
 場を共有しますので、絆を確かめ、強めるには、書き言葉より話し言葉の方が機能的です。語り聞かせにしろ、読み聞かせにしろ、昔ばなしが声に出して世代間で伝えられるのはそうした作用があるからです。
 
 読み聞かせは書物を前提にしています。ハードとソフトが一体化していますから、読み聞かせの思い出には本が欠かせません。話の内容はいつも同じです。しかも、記されている言葉は土地のものであるとは限りません。
 
 もちろん、昔ばなしには著作権がありませんから、本によって同じお話でも若干異なります。また、それを翻案にして映像化したものにも違いがあります。昔ばなしがテキスト化されても、正典化に至る可能性はあまりありません。ただ、語り聞かせと違い、読み手が内容を改変することはないでしょう。読み方の裁量に恐らくとどまります。
 
 語り聞かせでは、語ることが作ることを伴います。意図的・無意図的な変形があり得ます。読み聞かせなら、聞き手はテキストを自分で見て、間違えがなかったか確認できます。変形が起きていたら、聞き手は不平を口にしたり、咎めたりするかもしれません。一方、語り聞かせはライブ演奏ですので、聞き手は細部をさほど気にしません。声は消えていきますから、だいたいの内容がいつもと同じであれば、聞き手は満足する者です。
 
 古典文学の写本でさえ複数のヴァージョンがありますから、昔ばなしにそれがあっても不思議ではありません。記憶頼りですので、口承過程で伝言ゲームのような意図しない変形が起こるのは当然です。また、語り聞かせは、スタンダード・ナンバーのライブ演奏です。一人の語り手が繰り返し話す中でもいつの間にか変わってしまうこともあり得ます。
 
 もっとも、今後、伝承してきたとお話をでっちあげたり、昔ばなしを特定の意図に二兎づいて歪めて正典と称したりする情報操作がネット上で行われるかもしれません。しかし、伝言ゲームの実証研究も行われ、成果を上げています。1973年に起きた豊川信用金庫の取り付け騒ぎがその代表例です。今は社会的な伝言ゲームの過程がたどれない時代でもありません。
 
 語り手が諸般の事情から意図的に変形することもあり得ます。話を膨らませる拡大や短くする縮小、複数の話を融合させる統合、一つの話を複数に分ける分離などがあり、その際、設定や場面、展開、結びが変わってしまうこともあり得ます。
 
 現在まで伝承されてきた昔ばなしには似たお話が少なくありません。それは偶然の一致と言うより、同じ話が人の移動によって各地に広まったと考えられます。一例が僧侶です。彼らは布教のため、全国各地を回ります。その際、庶民が関心を持つようなお話を語っています。特に、江戸時代は、落語の『三軒長屋』が示す通り、中国の小咄や物語の本が輸入・翻訳されています。僧侶たちはそれを参考に各地で話を語り、それが昔ばなしとして現地で伝承されていったというわけです。外国の物語と似た話がある理由もそのためでしょう。
 
 設定・構造・テーマなど共通しているのに、結びだけ異なるお話もあります。例えば、山口県の『果報者と阿呆者』と広島県の『月夜の果報者』はどちらも「果報は寝て待て」をテーマにした喜劇で、オチが違っているだけで他はほぼ同じです。それらを照らし合わせると、意図的か無意図的かはともかく、変形の過程があったことは確かです。
 
 変形以外にも類似が認められる作品が多くあります。設定が違うだけで、物語の構造やテーマが似ているものがあります。こうした構造類似系は道徳的規範のお話によく見受けられます。また、トピックは同じであるけれども、設定や構造が異なっているものもあります。トピック類似系は起源や語源、由来などの昔ばなしで特に認められます。
 
 さらに、二つの物語タイプが融合しているものがあります。具体的に説明しましょう。いわゆる男勝りの母親が肝だめしで気の弱い息子を一人前にするという物語があります。また、長者が娘の婿を肝試しで選ぶという物語があります。それぞれ独立して一つの昔ばなしとして語り継がれています。前者は岩手県の『手出し峠』、後者は鳥取県の『かわらけ売り』が一例です。ただ、両者には肝だめしという共通点があります。そこを媒介にして二つのタイプが融合した昔ばなしもあるのです。京都府に伝わる『むこのき゚もだめし』が好例です。
 
 語り聞かせの口承文学の隆盛は識字率の変遷と必ずしも因果性を持っていません。近世は以前に比べて庶民の識字率が全般的に向上しています。江戸時代、都市を中心に出版産業が活気を呈しています。けれども、地方の貧しい庶民が本を入手することは容易ではありません。それは確かです。ところが、語り聞かせの習慣は近代に入ってからも続いています。公教育の普及により識字率が飛躍的にさらに向上、児童書も安価に全国的に出版されるようになります。
 
 そうした環境であっても、語り聞かせは祖父母=孫の世代間で廃れていません。武良布枝の自伝『ゲゲゲの女房』にも言及があります。後の水木しげる夫人は1932年に島根県能義郡大塚村(現安来市大塚町)に生まれています。家は、戦前、煙草製造や呉服屋を営んでいます。大塚村では豊かな家ですから、本や雑誌もあります。彼女は祖母の語る昔ばなしを姉妹と共に楽しく聞いたと書いています。『ひょうたん千と針千本』がその一例です。大人になった後に姉妹と再会した時、昔ばなしを語り聞かせる祖母の思い出で盛り上がっています。
 
 昔ばなしが祖母と孫たちの絆を強める働きをしています。また、その場を共有していた姉妹の間のそれもそうなっています。語り聞かせの昔ばなしが祖母に人格化されています。語りも台詞も土地の言葉です。さらに、亡くなる直前に祖母がいつもの昔ばなしを変形し、布枝を主人公にした物語を語り、将来への不安を抱く孫を励ましています。やはり昔ばなしは絆の文学です。
 
 昔ばなしの中には、家族間だけでなく、地域の言い伝えとして共同体が語り継いでいるものもあります。それらは、地名を始めとする自然環境の名前の由来、地域の行事・信仰の起源、災害など禍をめぐる教訓といった共同体全体で共有しなければならない物事に関する物語です。言うまでもなく、これらが融合しているお話もあります。
 
 共同体に関連した幕末期の事件・出来事が語り継がれている場合もあります。京都府の山国隊が一例です。丹波国桑田郡山国郷(現京都市右京区京北)の農民が部隊を結成、因幡鳥取藩に付属して官軍に参加、戊辰戦争を戦っています。その後、地元の村人はこの時の活躍を語り継いでいます。こうした口承の様子は、『日本発見』シリーズの京都府の回でも、言及されています。

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