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『武蔵野』オンライン(4)(2020)

4 武蔵野の風土
 独歩はその『武蔵野』を次のように書き始めている。
 
「武蔵野の俤《おもかげ》は今わずかに入間《いるま》郡に残れり」と自分は文政年間にできた地図で見たことがある。そしてその地図に入間郡「小手指原《こてさしはら》久米川は古戦場なり太平記元弘三年五月十一日源平小手指原にて戦うこと一日がうちに三十余たび日暮れは平家三里退きて久米川に陣を取る明れば源氏久米川の陣へ押寄せると載せたるはこのあたりなるべし」と書きこんであるのを読んだことがある。自分は武蔵野の跡のわずかに残っている処とは定めてこの古戦場あたりではあるまいかと思って、一度行ってみるつもりでいてまだ行かないが実際は今もやはりそのとおりであろうかと危ぶんでいる。ともかく、画や歌でばかり想像している武蔵野をその俤ばかりでも見たいものとは自分ばかりの願いではあるまい。それほどの武蔵野が今ははたしていかがであるか、自分は詳わしくこの問に答えて自分を満足させたいとの望みを起こしたことはじつに一年前の事であって、今はますますこの望みが大きくなってきた。
 さてこの望みがはたして自分の力で達せらるるであろうか。自分はできないとはいわぬ。容易でないと信じている、それだけ自分は今の武蔵野に趣味を感じている。たぶん同感の人もすくなからぬことと思う。
 それで今、すこしく端緒《たんちょ》をここに開いて、秋から冬へかけての自分の見て感じたところを書いて自分の望みの一少部分を果したい。まず自分がかの問に下すべき答は武蔵野の美《び》今も昔に劣らずとの一語である。昔の武蔵野は実地見てどんなに美であったことやら、それは想像にも及ばんほどであったに相違あるまいが、自分が今見る武蔵野の美しさはかかる誇張的の断案を下さしむるほどに自分を動かしているのである。自分は武蔵野の美といった、美といわんよりむしろ詩趣《ししゅ》といいたい、そのほうが適切と思われる。
 
 独歩は文政年間の古地図の話から始めている。今日、Google Earthやストリートビューを始めさまざまな地理情報をめぐるアプリが公開され、無料で利用できるが、それだけではない。独歩の試みを追体験することもなんとかなる。少なからずの古地図がインターネット上に無料公開されている。日本の場合、国土地理院が古地図無を含め多種多様の地理情報を無料公開している。また、現代の地図のように編集した古地図も後悔されている。アプリの中には古今の地図を重ねたり、古地図上を散歩したりできるものもある。さらなる端末の性能向上や大容量高速通信が実現すれば、ARやVRによる、一人称的な散策のリッチな体験も可能になるだろう。タイムトラベル機能が常備していないので、現段階では全般的に最近の様子である。ただ、独歩が見た風景はともかく、今では武蔵野の散策のコースを辿ることができる。いずれ『武蔵野』ヴァーチャルツアーアプリが公開されるかもしれない。繰り返しになるが、文学作品はテキストを読んで想像するだけではなく、体感の経験が加わっている。古今の文学作品に登場する地理を仮想敵に体験できるというわけだ。
 
 ところで、この第一章は松尾芭蕉の『おくのほそ道』の試みと重なるところがある。芭蕉は源義経が最期を迎えた古戦場の平泉を目指し、西行に範をとって奥州への旅に出る。その際、東国の歌枕が見るも無残な状態になっていることを知る。月日のめぐりの中でそれはすっかり失われ、実際に訪れることもなく、歌人たちは想像によって読んでいたにすぎない。もはや歌枕は文学の共通基盤となりえないと芭蕉は確信する。月日のめぐりの中で変わらぬものを新たな文学の共通基盤として見出さねばならない。そんな中、1000年も前の壺の碑とされる石碑を目にし、保全に努めてきた人々の労苦に感動する。また、平泉では、芭蕉は滅びゆく運命に能動的に立ち向かった義経らの姿に感極まっている。奥州を経た後の出羽の旅で芭蕉は人々の営みがそれだと発見する。そこに風雅があると俳諧の道を進んで行こうと新たな西行として旅路を終える。
 
 「武蔵野」は『万葉集』にその言及がある。この詩歌集にとって東国は、言わば、オリエンタリズムの対象である。その後も「武蔵野」は歌枕として詠まれている。そのイメージは草深い野原やどこまでも続く原野である。比較的人間の暮らしから自立した自然環境だ。歌人はそのようなところで見る月の美しさに思いを寄せ詠んでいる。中でも決定的な影響を及ぼしたのが西行である。鎌倉時代に成立した『西行物語』において東国を旅する彼が武蔵野の奥深くに入り、人里離れた草原の庵で老僧と出会う。この『西行物語絵巻』にも描かれたエピソードは広く知られ、その後しばしば引用される。江戸時代に入ると、神殿開拓のために、原野が切り開かれ、実際の風景は変わっていったが、文学上は歌枕のままである。
 
 前近代における武蔵野のイメージは西行に負って居る。この放浪の歌人をめぐる表現世界の武蔵野の風景をその後の文学者は共通基盤として創作・鑑賞している。武蔵野らしさはそのイメージに沿っているものを指す。しかし、1818~31年の文政年間にはもはやそれは入間郡にしか残っていないと古地図には記されている。
 
 独歩は武蔵野の実態が本当にそうなのかを確かめてみたいと考えている。ただ、彼は西行以来の武蔵野のイメージが損なわれているのが事実としても、「美」があるのではないかと想像する。西行が見出した武蔵野の美と違ったものがあるのではないかというわけだ。
 
 これは、東国の歌枕は見るも無残な状態だが、それとは別の美があるとした芭蕉に通じる。芭蕉はそうした新たな風雅を西行に倣って発見するが、独歩はそうするわけにはいかない。彼は江戸の俳人と異なる文学的課題に取り組んでいるからだ。芭蕉は庶民の間にも普及していく中で俳諧の新たな共通基盤の提示を課題としている。一方、独歩は近代社会に即した近代文学のそれを模索している。前者が庶民の風景だとすれば、後者は近代の風景の発見である。
 
 『おくのほそ道』では「月」の言及に意味がある。月によって旅が一まとまりになっいぇおり、内容が分かれている。この紀行文は、3・4月、5月、6月、7月、8・9月の5部構成である。『土佐日記』以来、日本文学は旅をめぐる作品においてしばしば日記形式を採用している。日付は人の内面でなく外部にあるものだから、作者と読者が形式を共有しやすく、強い物語性も必要としない。そのため、日記形式は告白やその物語性の弱い随筆に用いられる。『おくのほそ道』も、月日のめぐりという造化の営みの意味もあるが、こうした伝統を踏まえている。芭蕉は伝統を踏襲しつつ、新たな文学の共通基盤の発見に取り組んでいる。
 
 独歩も第二章で日記形式を次のように取り入れている。
 
 そこで自分は材料不足のところから自分の日記を種にしてみたい。自分は二十九年の秋の初めから春の初めまで、渋谷《しぶや》村の小さな茅屋《ぼうおく》に住んでいた。自分がかの望みを起こしたのもその時のこと、また秋から冬の事のみを今書くというのもそのわけである。
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九月七日[#「九月七日」に白丸傍点]――「昨日も今日も南風強く吹き雲を送りつ雲を払いつ、雨降りみ降らずみ、日光雲間をもるるとき林影[#「林影」に丸傍点]一時に煌《きら》めく、――」
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 これが今の武蔵野の秋の初めである。林はまだ夏の緑のそのままでありながら空模様が夏とまったく変わってきて雨雲《あまぐも》の南風につれて武蔵野の空低くしきりに雨を送るその晴間には日の光水気すいきを帯びてかなたの林に落ちこなたの杜《もり》にかがやく。自分はしばしば思った、こんな日に武蔵野を大観することができたらいかに美しいことだろうかと。二日置いて九日の日記にも「風強く秋声にみつ、浮雲変幻《ふうんへんげん》たり」とある。ちょうどこのころはこんな天気が続いて大空と野との景色が間断なく変化して日の光は夏らしく雲の色風の音は秋らしく[#「日の光は夏らしく雲の色風の音は秋らしく」に白丸傍点]きわめて趣味深く自分は感じた。
 まずこれを今の武蔵野の秋の発端《ほったん》として、自分は冬の終わるころまでの日記を左に並べて、変化の大略と光景の要素とを示しておかんと思う。
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九月十九日[#「九月十九日」に白丸傍点]――「朝、空曇り風死す、冷霧寒露、虫声しげし、天地の心なお目さめぬがごとし」
同二十一日[#「同二十一日」に白丸傍点]――「秋天ぬぐうがごとし、木葉火のごとくかがやく[#「木葉火のごとくかがやく」に丸傍点]」
十月十九日[#「十月十九日」に白丸傍点]――「月[#「月」に丸傍点]明らかに林影黒し」
同二十五日[#「同二十五日」に白丸傍点]――「朝は霧[#「霧」に丸傍点]深く、午後は晴る、夜に入りて雲の絶間の月さゆ。朝まだき霧の晴れぬ間に家を出《い》で野[#「野」に丸傍点]を歩み林[#「林」に丸傍点]を訪う」
同二十六日[#「同二十六日」に白丸傍点]――「午後林を訪《おとな》う。林の奥に座して四顧[#「四顧」に丸傍点]し、傾聴[#「傾聴」に丸傍点]し、睇視[#「睇視」に丸傍点]し、黙想[#「黙想」に丸傍点]す」
十一月四日[#「十一月四日」に白丸傍点]――「天高く気澄む、夕暮に独り風吹く野[#「風吹く野」に丸傍点]に立てば、天外の富士[#「富士」に丸傍点]近く、国境をめぐる連山[#「連山」に丸傍点]地平線上に黒し。星光一点、暮色ようやく到り、林影ようやく遠し」
同十八日[#「同十八日」に白丸傍点]――「月を蹈《ふ》んで散歩す、青煙地を這《は》い月光林に砕く」
同十九日[#「同十九日」に白丸傍点]――「天晴れ、風清く、露冷やかなり。満目黄葉の中緑樹を雑《まじ》ゆ。小鳥こずえに囀《てん》ず。一路人影なし[#「一路人影なし」に丸傍点]。独り歩み黙思口吟こうぎんし、足にまかせて近郊をめぐる」
同二十二日[#「同二十二日」に白丸傍点]――「夜けぬ、戸外は林をわたる風声[#「風声」に丸傍点]ものすごし。滴声しきりなれども雨はすでに止みたりとおぼし」
同二十三日[#「同二十三日」に白丸傍点]――「昨夜の風雨にて木葉ほとんど揺落せり。稲田[#「稲田」に丸傍点]もほとんど刈り取らる。冬枯の淋しき様となりぬ」
同二十四日[#「同二十四日」に白丸傍点]――「木葉いまだまったく落ちず。遠山[#「遠山」に丸傍点]を望めば、心も消え入らんばかり懐《なつか》し」
同二十六日[#「同二十六日」に白丸傍点]――夜十時記す「屋外は風雨の声ものすごし。滴声相応ず。今日は終日霧[#「霧」に丸傍点]たちこめて野や林や永久《とこしえ》の夢に入りたらんごとく。午後犬を伴うて散歩す。林に入り黙坐す。犬眠る。水流[#「水流」に丸傍点]林より出でて林に入る、落葉を浮かべて流る。おりおり時雨[#「時雨」に丸傍点]しめやかに林を過ぎて落葉の上をわたりゆく音静かなり」
同二十七日[#「同二十七日」に白丸傍点]――「昨夜の風雨は今朝なごりなく晴れ、日うららかに昇りぬ。屋後の丘に立ちて望めば富士山真白ろに[#「富士山真白ろに」に丸傍点]連山の上に聳《そび》ゆ。風清く気澄めり。
 げに初冬の朝なるかな。
 田面《たおも》に水あふれ、林影さかしまに映れり」
十二月二日[#「十二月二日」に白丸傍点]――「今朝霜、雪のごとく朝日にきらめきてみごとなり。しばらくして薄雲かかり日光寒し」
同二十二日[#「同二十二日」に白丸傍点]――「雪[#「雪」に丸傍点]初めて降る」
三十年一月十三日[#「三十年一月十三日」に白丸傍点]――「夜更けぬ。風死し林黙す。雪しきりに降る。燈をかかげて戸外をうかがう、降雪火影にきらめきて舞う。ああ武蔵野沈黙す。しかも耳を澄ませば遠きかなたの林をわたる風の音す、はたして風声か」
同十四日[#「同十四日」に白丸傍点]――「今朝大雪、葡萄棚《ぶどうだな》堕《お》ちぬ。
 夜更けぬ。梢をわたる風の音遠く聞こゆ、ああこれ武蔵野の林より林をわたる冬の夜寒《よさむ》の凩《こがらし》なるかな。雪どけの滴声軒をめぐる」
同二十日[#「同二十日」に白丸傍点]――「美しき朝。空は片雲なく、地は霜柱白銀のごとくきらめく。小鳥梢に囀ず。梢頭《しょうとう》針のごとし」
二月八日[#「二月八日」に白丸傍点]――「梅咲きぬ。月ようやく美なり」
三月十三日[#「三月十三日」に白丸傍点]――「夜十二時、月傾き風きゅうに、雲わき、林鳴る」
同二十一日[#「同二十一日」に白丸傍点]――「夜十一時。屋外の風声をきく、たちまち遠くたちまち近し。春や襲いし、冬や遁《のが》れし」
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 独歩は9月から3月にかけての日記を断片的に紹介している。これを見ると、当時の気候が今日とかなり違うことが分かる。9月7日に「昨日も今日も南風強く吹き雲を送りつ雲を払いつ、雨降りみ降らずみ、日光雲間をもるるとき林影一時に煌めく」とし、「これが今の武蔵野の秋の初めである。」と述べている。しかし、都内の新規陽性者数が77人だった2020年9月7日の東京の天気は午前に雨があり曇りながら、最高気温31.3度、最低気温24.5度で、残暑厳しい。都内新規陽性者数170人の翌8日に至っては快晴で、最高気温34.2度、最低気温は26.2度である。夜になれば、秋の虫も鳴いているが、その季節を昼に実感することはまだまだ難しい。独歩の記述は、2020年で言うと、9月22日の秋分の日の天候に重なる。最高気温は27.7度、最低気温は19.2度、天気は晴れで、朝はすがすがしく、秋を実感させる。季節感が半月ほど遅くなっているように思える。
 
 東京にはいくつか観測点があるが、観測が最も継続され、データが最も蓄積されているのが、「東京」である。この地点は長らく千代田区大手町の気象庁本庁舎の一角だったけれども、2016年に北の丸公園へ移転している。「東京」の気象データは1876年(明治9年)から記録されている。観測の方法や地点などの変更があるものの、現時点で2019年までの143年間の気象の変化を調べることができる。月別の平均気温・平均最高気温・平均最低気温のいずれも上昇している。特に冬季の最低気温の上昇率が大きい。
 
 独歩の日記によると、12月2日に霜が降り、同月22日に初雪と記されている。最近の東京の初霜は12月20日、初雪は1月3日である。ちなみに、2019~20年の冬は、初霜が12月8日、初雪は1月4日である。当時は近年の平均よりいずれもおおよそ半月ほど早い。現在と比べて最低気温が低いとやはり思われる。定性的データとして独歩の日記も史料の一つとして扱えるだろう。
 
 東京は都市化の影響により各種気温が上昇したと思われる。言うまでもなく、おれだけでこの100年余りの気象の変化を説明できるわけではない。地球温暖化が要因であることは否定できない。気象庁は、2020年9月1日、6月から8月のこの夏の天候を取りまとめて発表している。この夏は、6月から7月の梅雨の時期に各地で降水量が統計開始以降最も多かったが、8月には気温が記録的に高くなるといった変化の大きい転向である。
 
 NHKは2020年9月1日 18時36分更新「この夏の天候 梅雨の雨量も8月の猛暑も記録的 気象庁」に於いてそれを次のように伝えている。
 
梅雨の降水量 記録的な多さ
夏の3か月間の降水量は、7月に各地に大きな被害を引き起こした記録的な豪雨の影響で、東日本から九州・沖縄にかけてかなり多くなりました。
 
特に梅雨の時期の降水量が多く、平年との差は
▽九州北部が1.95倍
▽東海が1.94倍
▽関東甲信が1.78倍
▽東北南部が1.6倍で、いずれも1951年の統計開始以降、最も多くなりました。
 
8月 一転して記録的猛暑に
8月 一転して記録的猛暑に
8月には一転して晴れる日が増え、広い範囲で連日35度以上の猛暑日となり、このうち静岡県浜松市では、これまでの国内の最高気温に並ぶ41.1度を観測しました。
このため8月は平均気温が全国的に高く、平年との差は、東日本でプラス2.1度と過去最も高く、西日本でプラス1.7度と過去最も高い記録に並びました。
高温のピークは過ぎつつありますが、今後2週間程度は暖かい空気が入りやすく、全国的に気温の高い状態が続く見込みで、気象庁は引き続き熱中症に注意するよう呼びかけています。
また、台風が日本に近づきやすい時期を迎えていることから、改めて大雨や暴風など災害への備えを確認してください。
 
 地球温暖化による気候変動と思われる異常気象がもはや珍しくない。国内のみならず、国際ニュースでも常識を覆すような気象現象が起きている。AFPは2020年9月9日 9時52分更新「気温31度急低下、24時間で猛暑から降雪へ 米コロラド州」において次のような教学のニュースを伝えている。
 
【9月9日 AFP】米西部コロラド州の住民は8日、日焼けローションを投げ捨てて、手袋とブーツを引っ張り出したに違いない。同州では7日から8日にかけて、24時間のうちに猛暑から雪が降るほどの寒さとなる気温の激変を観測した。
 州都デンバー(Denver)では7日午後に33度だった気温が、8日朝には2度前後にまで落ち込んだ。デンバーでは8日朝、実際に雪が降った。また同州南部では、葉が生い茂っている木の枝が、雪の重みで折れる可能性があるとの警報が出されている。
 同州ボルダー(Boulder)にある米国立気象局(NWS)の支局は7日、「激変、『冬』の到来は今晩から!」とツイッター(Twitter)に投稿。「夏から冬への急変に今すぐ準備を!」と呼び掛けていた。
 気象当局によると、24時間に起きた気温変化としては同州観測史上、最大級だという。
 原因となっているのは、デンバーで37度を記録した3日後にカナダから押し寄せた寒波。気象当局の予想では、8日はさらに気温が下がり、9日の夜いっぱいは冷え込んだままとなる。その後も涼しい状態が続き、気温が25度まで戻るのは13日になるという。
 
 『毎日韻文』2020年9月26日更新「異常気象、新たな日常 米で熱波/北極圏の氷消失/日本で豪雨・猛暑」によると、今年の北半球は観測史上最も暑い夏に見舞われている。最高気温49.4度など米西部は多くの地点で観測史上最高を更、カリフォルニアやオレゴンの山火事いまだ収まらない。ロシア北部ベルホヤンスクは気温38度を観測、シベリアの平均気温は5度以上も上昇している。カナダ北部エルズミーア島においては「カナダ最後の無傷の棚氷」の大規模崩壊が起き、81平方kmの氷が消失する。欧州は干ばつ。北極圏からは大規模な氷の融解や森林火災が報告されている。フランスは7月の降水量が平年3割未満で、最も雨の降らない月となっている。
 
 従来、日本文学が気候を扱う際、ドメスティックな認識で住んでいる。しかし、今はもう違う。気候も世界の中という観点から捉える必要がある。グローバルな想像力なしに創作も過小もあり得ない。
 
 話を戻すと、第二章にはないが、独歩は章末に詩歌を引用することを何度かしている。これは『土佐日記』以来の伝統である。独歩は従来の文学の形式を踏襲しつつ、その内容において近代文学への転倒を行っている。伝統的な文学の枠組みを引き継ぎながら、自身の修辞法により新たな価値観を提示する。芭蕉同様、そうした試みこそ風景の意味の変化をきわだたせる。
 

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