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福田恆存、あるいは臨界感覚(2)(2005)

三 『藪の中』論争
 芥川龍之介の『藪の中』をめぐって行われた中村光夫との論争も福田恆存の自己激化という認知傾向を表わしております。

 中村光夫は、『「藪の中」から』において、そのモチーフになったアンブローズ・ビアス(Ambrose Gwinnetf Bierce)の『月あかりの道(The Moonlight Road)』と比較し、『藪の中』の構成上ならびに認識上の欠陥を次のように指摘しています。

 これ(註 『月あかりの道』)に反して『藪の中』はそれぞれ前の陳述を否定する性格のものであり、結局、夫の死は他殺か自殺かという疑問に解決があたえられないし、他殺なら犯人は誰かもわからず仕舞いです。
 これでは活字の向うに人生が見えるような印象を読者に与えることはできないのではないでしょうか。
 ある事実に三つの面から異った解釈を与えるのは、それを人の三倍考えぬく事ですが、 一つの「事件」について事実が三つあるのは、考えの整理がつかぬという事です。

 中村光夫に対して、福田恆存は、『「藪の中」について』において、一つの「事件」について「三つの事実」ではなく、「三つの心理的事実」があるのであって、この「三つの心理的事実」の向こう側に「一つの事実」があると反論しております。

 どうしても「事実」というものが必要なら、それはこういう風に考えられないか。既に書いた様に多襄丸は女を犯した後、その残虐な興奮状態から、武弘を刺して逃げ去った。
 だが、武弘はそれだけでは死に切れなかった。そして互いに不信感をもった夫婦が後に残され、妻は心中を、夫は自殺を欲した。そういう両者が小刀を奪い合い絡み合ううちに、夫は多襄丸の負わせた深手によって死んだ。両者の話の食い違いは、一方は嫉妬、他方は絶望という興奮から生じた自己劇化にほかならない。両者に自殺したい、共に死にたいという欲求が潜んでいる事は言うまでもない。その欲求があればこそ、自分を主役に仕立てたいという自己劇化が成り立つ。これは単なる牽強附会とは言えまい。今日の裁判においても、過度に自分を悪者に仕立てた自白があり、またその自白を覆して過度に自分の潔白に陶酔する事が屡々起り得る。
 武弘とその妻だけではない。多襄丸が男の縄を解き二十三合斬り結んだ後に、相手を倒したというのも、唯単に罪科を軽くしようという積りだけではなく、明かに自己劇化の一種と考えられる。
 以上の様に考えれば、中村氏の言う様に「事実」が三つあるとは言い切れなくなる様に思う。

 『藪の中』を考察することとは別にして、両者の見解の相違はそれぞれの文学観が反映されており、興味深く、素朴にどちらが妥当かと判断すべきではありません。中村光夫は一つの「事件」に三つの「事実」があると言い、福田恆存はそうではなく、「三つの心理的事実」があると主張しています。前者が三つの証言を照らし合わせても、一つの「事実」が浮かび上がってこないと批判するのに対し、後者は心理的屈折があるのだから、それを形成できるはずもないと考えているのであります。かのフランス文学者は言葉、われらが英文学者は演戯に焦点を当てているのです。

 事実は相対的であります。見方によって、一つの「事実」が異なった印象を与えることがしばしば起きます。福田恆存は登場人物の証言に「自己劇化」によるすりかえを見ています。「事実」の食い違いをもたらしたのは告白を通じた「自己劇化」だというわけです。「自我は自分と他人という相対的平面のほかに、その両者を含めて、自他を超えた絶対の世界とかかわりをもっているのである。それは、すでにいったように、見えぬ未来という形で私たちの前に現れる。あるいは知らなかった過去として蘇る。のみならず、他人はつねに自分によって見られつくしているものでもなく、自分もまた他人によって、自分自身によって、知りつくされているものでもない。そうして、未知のあんこくにとりかこまれていればこそ、自我は枠をもち、確立しうるのだ。その枠のないところでは、自我は茫漠として解体する」(『人間・この劇的なるもの』)。

 福田恆存は脚色自身を非難しているわけではありません。むしろ、演戯には肯定的です。彼は、『藝術とは何か』において、「私小説家たちの求めているものは、生活の迫真性であって、それは断じて藝術の迫真性ではない。演戯の迫真性は、それが演戯であるかぎりにおいてみごとなのであり、生活の迫真性にまでなれば、一種の堕落であります。生活の迫真性などというものはくだらない」と言っています。小説家は、告白する際、そこに自己劇化をしてしまうのであり、その「演戯の迫真性」によって評価されるのであって、「生活の迫真性」から判断されるべきではないのです。

 脚色が否定されたのでは、そもそも演劇は成り立ちません。シェイクスピアは英国史劇を書く際、『ホリンシェッドの年代記(The Chronicles of England, Scotland, and Ireland)』に題材を求めております。ラファエル・ホリンシェッド(Raphael Holinshed)が編纂したこの本は一五七七年に初版が刊行され、当時かなり読まれていたらしく、八七年には増補版が出版されています。

 四大悲劇の一つで、一一世紀のスコットランドを舞台にした『マクベス』も例外ではありません。ただ、シェイクスピアはかなり脚色しています。『年代記』のスコットランドに関する記述は、ヘクター・ボース(Hector Boece)の『スコットランド史(Scotorum Historiae)』(一五二六)に依拠しております。これによると、ダンカン王は信望の厚い人物ではなく、悪賢い権謀術数家で、逆に、マクベスはバンクォーの助けを借りて王位に就くと、当時としては長期の一〇年間に亘って善政を行っているのであります。両者の人物像は、むしろ、正反対と言えましょう。野心家の妻を持ったドンワルドによるマグダフ王殺しという『年代記』の別の話をそれと結びつけ、さらにさまざまな挿話を加えてできたのが『マクベス』というわけです。『マクベス』が歴史的な事実と異なっているからと言って、その芸術的価値を下げるわけではありますまい。

四 演戯について
 福田恆存は、『人間・この劇的なるもの』において、演戯に関して次のように述べております。

 演戯によって、ひとは日常性を拒絶する。日常的な現実は私たちを自分の平面に引き倒そうとして、つねに寝わざをしかけてくるからだ。私たちはそれに負けまいとする。あくまで地上に、しゃんと立っていようとする。そのための現実拒否なのだが、それは現実からの逃避ではない。逃避したのでは、私たちは現実の上に立てない。現実を足場とし材料として、それを最大限に利用しなければならぬのだ。現実と交わるというのは、そういうことである。私たちの意識は、現実に足をさらわれぬように、たえず緊張していなければならぬと同時に、さらに、それを突き放して立ちあがれる「特権的状態」の到来を、つねに待ち設けていなければならない。

 ただ現実を再現することが演戯ではありません。もしそうなら、マクベスを演じられるのはオーソン・ウェルズやジョン・フィンチではなく、ニコラエ・チャウシェスクやソロボダン・ミロシェヴィチのような独裁的な政治家だけになるでしょう。演戯は日常性を拒絶するものだとしても、「現実からの頭皮」でもないのです。いい演戯は日常性と非日常性の拮抗から生まれるのであります。

 このような意見を持つ福田恆存自身、戦後の言論界において、こうした演戯をし続けたと言えますまいか。「さっき言ったように芝居ばかりでなく、小説でも、これはお話ですよ、物語ですよというふうに進めてゆくべきじゃないか。そういう時代があったのです。ドン・キホーテ、ボッカチオはもちろん十八世紀ぐらいまでの小説はそうだった。それが十九世紀になると、今やわれわれが人生の真実を描いた、それのみで小説がなりたつというふうに思いはじめた。しかし、十九世紀の小説家でも一流の人、たとえばドストエフスキーやトルストイをよく読んでごらんなさい。これはお話ですよ、お話ですよという語り口でやっている。その語り口が水引に相当する。その水引きをどっかに忘れてきちゃったんじゃないでしょうか。すべての小説がそうだというのじゃなくて、現代の作家でもそれを心がけている人もいるでしょうが。読者もそれを忘れかけていやしないだろうか。批評家もですね」(福田恆存『今までだれも知らなかったことだ』)。

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