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及川あ巻き、あるいは名前のない馬(1)(2003)

及川あまき、あるいは名前のない馬
Saven Satow
Feb. 28, 2003

「私の作品はArt of Beingではなく、Art of Becomingを目指している」。
ジャクソン・ポロック

第1章 草の根の俳人
 及川あまきはローカルな一俳人にすぎない。及川あまき(本名及川栄蔵)は、一八八五年(明治一八年)九月一日、岩手県北上市に生まれ、一九七六年一二月一六日、同地で、老衰により亡くなっている。北上市の展勝地陣ケ丘に、「秋雨や心決して蓑を着る」、さらに、大堤公園には「仰ぎ見る功に冬日暖かし」と「造林の功かぐわし冬ぬくく」というあまきの句碑があるものの、文学史から顧みられることはほとんどない。その地域でのみ語り継がれている彼のような俳人は、日本各地に数多くいるだろう。

 あまきは、あまりに時代の先を見ていたために、不当に評価され続けている俳人ではない。彼に対する評価は等身大である。決して大きすぎも、小さすぎもしない。将来、あまきが今受けている以上の評価を与えられる可能性はおそらくない。また、彼も、それを望んではいないだろう。それどころか、句碑を建ててもらったことさえ、もったいないことだと恐縮しているに違いない。

 あまき唯一の著作は近藤書店から夏草叢書として刊行された『白馬』(一九五九)であるが、それに収められている句を読む限り、あまきの俳人としての能力は師匠である山口青邨には及ばない。彼は、一九三〇年、『夏草』創刊以来、山口青邨に師事し、後に、『夏草』の発行にかかわり、発行所も自宅で受け持っている。また、一九七三年の第十九回角川俳句賞を受賞した山崎和賀流は、一九五七年、あまきが指導する「きたかみ俳句会」に入会しているけれども、三五歳で急逝した和賀流の句のほうが文学的可能性に満ちている。全体として、あまきの句は彼がローカルで、マイナーな俳人と評価されてもやむをえないことを明らかにしている。

 一九三三年一一月第一回の東丁賞を受賞しているものの、あまきは、むしろ、俳句の指導者として活躍している。ただし、和賀流は例外的であり、あまきは偉大な俳人を発掘すると言うよりも、俳句の草の根を増やす役割に徹している。小渕内閣の文部大臣だった有馬朗人(あきと)も指導を受けた一人である。一九五三年、夏草同人となり、翌年、きたかみ俳句会を結成している。一九五六年には、句誌『きたかみ』を主催し、一九七〇年一四〇号で休刊するまで続く。この年から、毎月、東京と北上を往復する生活を始めている。彼は、生け花教室やピアノ教室の先生のように、俳句を地域の愛好家に指導している。

 しかし、そういった俳人が地域文化を体現している。あまきは、一九〇三年、盛岡中学を卒業している。中学の同級生に、石川啄木がいる。後に、啄木に頼まれて金を貸したが、他の友人たち同様、金が返ってくることはなかったし、そもそもそれを期待もしていない。「啄木と語りし窓や春灯」や「啄木の歌なつかしや枯木寺」、「啄木忌草に腹這ひ何か読む」と詠むあまきは啄木という花の脇に生い茂る草のようだ。文化は花として咲き乱れると言うよりも、草としてたくましく繁殖するものだということをあまきは再認識させる。「雑草は未開の広大な空地の間にしか存在しない。雑草が空隙を埋める。雑草は他のものの間に──隙間に生える。花は美しく、キャベツは有用で、けしの実は錯乱させる。だが、雑草ははびこる、それが教訓だ」(ヘンリー・ミラー『ハムレット』)。

Sooner or later, love is gonna get ya
Sooner or later, girl, you've got to give in
Sooner or later, love is gonna let ya
Sooner or later, love is gonna win

Its just a matter of time
Before you make up your mind
To give all that love that you've been hiding
Its just a question of when
I've told you time and again
I'll get all the love you've been denying

Sooner or later, love is gonna get ya
Sooner or later, girl, you've got to give in
Sooner or later, love is gonna let ya
Sooner or later, love is gonna win

You say you'll never be mine
But darling, they'll come a time
I'll taste all that love that you've been hiding
Its just a question of time
Before you make up your mind
And give all that love you've been denying

You've been looking for love
In all the wrong places
You've been looking for love
All the wrong faces
Gotta get ya girl
On this illusion
Gonna save your heart
From all this confusion

Sooner or later, love is gonna get ya
Sooner or later, girl, you've got to give in
Sooner or later, love is gonna let ya
Sooner or later, love is gonna win
Love is gonna win

Its just a matter of time
Before you make up your mind
And give all the love that you've been hiding
Its just a question of when
Told you time and again
I'll get all the love you've been denying

Sooner or later, love is gonna get ya
Sooner or later, girl, you've got to give in
Sooner or later, love is gonna let ya
Sooner or later, love is gonna win
Sooner or later, love is gonna get ya
Sooner or later, girl, you've got to give in
(The Grass Roots “Sooner Or Later”)

第2章 白馬非馬
 あまきは句集に『白馬』と名づけている。英語で、「白馬の騎士(White Knight)」は乗っ取り攻勢を受けた企業を救うために友好的な買収を申し出る会社を意味している。白馬にまたがった騎士が危機に陥ったプリンセスを救う中世騎士物語に由来する。白馬にはこうした高貴な正義をイメージさせる。

 けれども、中国の諸子百家の一つである名家の公孫竜は「白馬非馬」と言っている。「馬は形の名としてつけられ、白馬の白は毛色の名としてつけられたもので、馬と白馬とは別の内容を持つ観念であるから、白馬と馬は別物である」。彼は、同様の論理に基づいて、他にも堅白同異(けんぱくどうい)を唱えている。「堅く白い石は二であって一ではない。なぜなら、目で見たときは白いことは分かるが堅いことは分からない。手で触れたときは堅いことが分かるだけで色のことは分からない。ゆえに堅と白とは二であって、同一のものではない」。本来の意味とは違うけれども、戦前の帝国陸軍では、確かに、白馬は馬ではない。馬の育成は、当時、優秀な軍馬を生産することを意味したが、白馬は戦場では目立ちすぎるため、軍馬には適していないと見なされている。

 明治政府は軍備の近代化を進め、軍馬の改良手段として東京の九段の招魂社などで盛んに競馬を開催している。「はからずも花の九段の月に遭う」(あまき)。当時の騎手はほとんどが陸軍の将校か馬術家であり、日露戦争で旅順攻略の第三軍司令官となった乃木希典や騎兵学校を設立した秋山好古が参加した記録がある。

 日清・日露戦争によって軍馬の劣勢を実感したため、軍部は軍馬改良を急務にする。外国人は、当時、日本の馬は「猛獣」と酷評している。一九〇六年に、これまで馬匹(ばひつ)改良の手段として競馬の必要性を熱心に説いていた加納久宣子爵と陸軍から出向してきた安田伊佐衛門騎兵中尉によって、「日本レースクラブ」を手本とする「東京競馬会」が設立され、新設の東京の池上競馬場で馬券を発売して競馬が開催される。これは法律上問題があったが、優秀な軍馬確保のため、桂太郎内閣は馬券の発売を黙認している。競馬はあくまで娯楽ではなく、軍馬の展覧会であり、競馬馬には速さよりも頑丈さが要求されている。競馬が娯楽になり、白馬が競馬場で見られるようになるには第二次世界大戦の終結を待たなければならない。しかも、日本競馬が外国産馬にも開放されるのは、さらに後のことである。一一月二四日からの四日間開催の池上競馬は活況を呈している。

 日本での最初の近代競馬は一八六二年(文久二年)五月一日と二日、横浜の在留外国人によって横浜新田堤塘(現在の横浜市中区山下町の加賀町警察署から元町までの地区)で行われている。在留外国人は「競馬コロフ(倶楽部)」を設立して治外法権的な競馬を続け、薩摩藩士がイギリス人の行列に切りつけた生麦事件を契機として開催場所は根岸(現在の根岸競馬記念公苑)へ移転する。その後、競馬の組織は分裂・解散し、一八八〇年(明治一三年)に「日本レースクラブ」が結成される。最初の日本人の馬主は西郷隆盛の弟の従道である。

 競馬自体の起源は、一三七七年、後にリチャード二世として即位するプリンス・オブ・ウェールズとアランデル伯爵が自分の馬に騎乗してニューマーケット近くで競走したのが最初と伝えられている。マッチレースから次第に参加者が増え、王侯貴族のスポーツとして盛んになり、当時者同士の賭けが伴っている。やがてブックメーカーが登場し、一般からも参加者が加わり、ギャンブル色を濃くして栄えている。馬も改良され、バイアリー・ターク、ダーレー・アラビアン、ゴドルフィン・バルブの三頭を三大根幹種牡馬として、サラブレッドが生産される。世界中のサラブレッドの血統の父系をたどれば、すべてがこの三頭に到着する。

 札幌、函館、新潟、松戸、目黒、板橋、川崎、藤枝、鳴尾、京都、小倉、宮崎の各地に馬主を主体とする競馬倶楽部が設立され、「倶楽部時代」が始まる。しかし、一九〇八年一〇月一日、新刑法の施行をきっかけに、監督官庁の馬政局は「馬券禁止」を各倶楽部に通達する。熱狂に伴い、借金した挙げ句の夜逃げや一家心中、窃盗、強盗などが頻発し、賭博としての競馬を社会悪とする非難の声があがっている。『東京朝日新聞』は、池上競馬の初日に「此の日、無類の好天気にてさながら春の如く、池上山上、松緑の間ちらほら紅葉を点綴して光景いわん方なく、競馬場はその山麓の平野にあり、中間の森などことごとく除き去られて眺望濶如(かつじょ)たり、西の方、富士の白雪は朝日に輝き出でて馬上の勇士を励ますものの如し」と好意的な記事を掲載したが、数日後の社説では、「現当局者の眼中には、人民は到底馬以上に映じおらざる如くに見ゆ……吾人は今にして当局が翻然として改むる所あり、競馬場における賭博の公開を厳禁せんことを望む」と馬券禁止を激しく訴えている。馬券禁止は、結局、一五年間に及ぶことになる。

 この間、政府からの補助金によって競馬は細々と続けられる。各競馬場は馬券に代わる商品券を出すなどさまざまなアイデアを実施したが、盛りあがることはなく、騎手たちは草競馬に出稼ぎに行くのにとどまらず、転職するものさえ現われ始める。「大空を渡る鳥あり草競馬」(あまき)。そんな状況下でも、一九〇九年、ロシアのウラジオストクから招待され、総勢二十数名、競走馬約五〇馬による初の海外遠征が実現され、安田伊佐衛門が馬主のスイテンが五戦全勝するなど好成績をマークしている。

 軍馬の重要性がなくなりつつあることが認識されている一九二三年(大正一二年)三月、最初の競馬法が制定され、馬券が公認となる。法律によって馬券が発売されたことから、世間は「公認競馬」と呼んでいる。競馬はようやく合法的に認知される。

 馬は哺乳綱ウマ目(奇蹄目)ウマ科に分離され、家畜ウマと野生種の総称である。野生種は大きく三つに分類され、アフリカ産のシマウマのグループ、アジアのキャンやオナガーとアフリカの野生ロバからなるロバのグループ、モウコノウマ(プシバルスキーウマ)を含むグループである。野生種の馬の多くはすでに絶滅したが、モウコノウマは現存する唯一の野生種の馬であり、家畜ウマと交配して繁殖力のある子孫がつくられている。この他にも世界各地に野生ウマと呼ばれる馬がいるが、いずれも家畜ウマが野生化したものである。家畜ウマの学名はEquus caballus、モウコノウマはE. caballus przewalskiiである。

 現代の馬の解剖学的に最も重要な特徴は、四肢にそれぞれ指が一本しかない点である。このため、馬は、サイやバクと共に奇蹄類に分類されている。人間の中指に相当する馬の指は巨大化し、指の前面と側面は角質の蹄で囲まれて保護され、蹄の上の両側には、第二指及び第四指の痕跡が残っている。犬歯と前臼歯の間にはかなり隙間があり、乗馬などで馬をコントロールする際に用いる金属製のはみは、ここにとりつける。どの歯も歯冠は長く、歯根は比較的短い。胃は一つで、繊維質の食べ物は、人間の虫垂に似た盲腸で微生物によって発酵させる。その盲腸は小腸と大腸の結合部に位置している。

これから始まる大レース
ひしめきあっていななくは
天下のサラブレッド四才馬
今日はダービーめでたいな

走れ走れコウタロー
本命穴馬かきわけて
走れ走れコウタロー
追いつき追いこせ引っこぬけ

スタートダッシュで出遅れる
どこまでいってもはなされる
ここでおまえが負けたなら
おいらの生活ままならぬ

エーこのたび、公営ギャンブルをどのように廃止するかという問題につきまして、慎重に検討を重ねてまいりました結果、本日の第四レース、本命はホタルノヒカリ、穴馬はあっと驚くダイサンゲンという結論に達したのであります。

各馬ゲートインからいっせいにスタート、第二コーナーをまわったところで先頭は予想どおりホタルノヒカリ、さらに各馬一団となって、タメゴロー、ヒカルゲンジ、リンシャンカイホー、メンタンピンドライチ、コイコイ、ソルティーシュガー、オッペケペ、コウタローとつづいております。さて今、第三コーナーをまわって第四コーナーにかかったところで先頭は予想どおりホタルノヒカリ、期待のコウタローは大きく遅れて第十位というところであります。さあ、最後の直線コースに入った。ああ、コウタローがでてきた。コウタロー速い。コウタロー速い。トップのホタルノヒカリが逃げきるか、コウタローかホタルノヒカリ、ホタルノヒカリかマドノユキ、あけてぞけさは別れゆく。

ところが奇跡か神がかり
いならぶ名馬をごぼう抜き
いつしかトップにおどり出て
ついでに騎手まで振り落とす

走れ走れコウタロー
本命穴馬かきわけて
走れ走れコウタロー
追いつき追いこせ引っこぬけ
(ソルティ・シュガー『走れコウタロー』)


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