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ユダヤ人と農業(2016)

ユダヤ人と農業
Saven Satow
Apr. 14, 2016

「農は国の本」。

 1934年、フライブルク大学総長を辞任したマルティン・ハイデガーは、『なぜわれらは田舎に留まるのか?(Warum bleiben wir in der Provinz ?)』をラジオ講演する。これはナチスの機関誌『デア・アレマンネ(Der Alemanne)』34年3月7日号に掲載される。

 なお、この「アレマン」はゲルマン人の部族連合の一つである。ドイツのライン川上流のアラマン地方に共住している。これに由来する語はフランス語やスペイン語などでドイツに関連する物事を指す際に用いられる。

 ハイデガーはこの講演で農本主義こそ真に民族的であると主張する。大衆が住む都市は非本来的である。一方、大地に根差した農民とその家族が生活する農村が本来的である。禁欲的な農民の姿は民族的であり、哲学は農作業の絶対的な中心にある。

 ハイデガーは古来より続く農村にドイツ姓を見出している。この農本主義は、機関誌に掲載されたように、国家社会主義はこの農本主義を歓迎している。反ユダヤ主義を後押しする考えだというわけである。

 ハイデガーがナチスにコミットメントしたことはよく知られている。その思想がナチズムとの親近性を持つことも指摘されている。ただ、日本で生まれ育った者にとって、大地に根差す農民を賛美することが反ユダヤ主義のようなレイシズムに結びつくことは今一つ理解し難い。宮沢賢治には農本主義が認められる。けれども、彼からコスモポリタニズムならともかく、レイシズムは見出せない。

 農本主義が反ユダヤ主義と結びつく理由はヨーロッパの歴史から理解される。中世、ユダヤ人は土地の所有が禁止され、封建制からも除外されている。ユダヤ人は農業に従事することができない。村落に住む農民にはユダヤ人がいない。

 ユダヤ人は金融業を始め当時の社会的制約にひっかからない仕事に就くほかない。土地所有に依存しないのだから、人を相手にする職だ。それらは都市で栄える産業である。本来的、すなわちドイツ的な農村に対して、非本来的な都市はユダヤ的と見なされる。このようにハイデガーの農本主義はナチズムと親和性を持つ。

 ユダヤ人は農業から締め出された歴史を持つ。そのため、ユダヤ人には農民が少ない。逆に、第3次産業従事者が圧倒的に多い。金融業は言うに及ばず、医師や弁護士、ジャーナリスト、学者、作家、音楽家、芸術家、俳優などに有名なユダヤ人を上げることは容易である。

 他方、日本の場合、近世の人口の85%が農民であり、第3次産業の労働者数が第1時を上回るのは戦後のことである。自分たちの産業構造を暗黙の前提にしていると、ハイデガーの農本主義が反ユダヤ主義と関連することがよくわからない。

 このユダヤ人と農業の歴史を踏まえると、パレスチナ問題という土地をめぐる荒祖に関する認識も深まる。パレスチナに移住したシオニストは、早速、土地を手に入れる。彼らはキブツと呼ばれる集産主義的協同組合を設立して農業を始める。

 シオニストは土地を所有して自分たちだけで農業に取り組んでいる。植民地主義時代のヨーロッパ人なら、大土地農場を経営して、現地の人たちを働かせ、自らは農作業に従事しないものだ。そもそも、見知らぬ土地での農業は、経験も知識もないのだから、現地の人の協力が不可欠である。失敗は飢餓につながるからだ。

 ところが、シオニストは、先住の人々がいるにもかかわらず、自給自足の農業を始める。彼らの土地と農業へのこだわりは歴史に原因があると言わざるを得ない。アイデンティティは自分らしさである。それには暗黙の前提がある。自分たちの国家を建設するのなら、他の国民同様、土地を持った農民が大勢いるべきだ。パレスチナに移り住んだシオニストの行動は迫害を逃れるためだけでは、説明がつかない。

 バブル以前の日本で最大の投資先は不動産である。土地は値上がり確実の優良資産として見なされている。だから、証券投資に向かわないし、その知識を持つ必要がない。しかし、土地はあくまでも財産であって、ユダヤ人のような国民としてのアイデンティティに関わっていない。

 土地争いはゼロサム状況である。一方が得をしたら、他方が損をする。争奪はもともと激化しやすい。それにしても、迫害されてきたユダヤ人が土地をめぐってなぜパレスチナ人にあれほど野蛮なことをするのかは、こうした歴史を考慮しなければ理解できないだろう。

歴史的事象を捉える際に、ついつい自分の思考の枠組みを暗黙の前提にしてしまう。しかし、自分の認識を相対化することに歴史を考える一つの意義がある。ユダヤ人と農業はその一例である。
〈了〉
参照文献
黒川知文、『ユダヤ人迫害史―繁栄と迫害とメシア運動』、教文館、1997年
マルティン・ハイデガー、『30年代の危機と哲学』、矢代梓訳、平凡社ライブラリー、1999年

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